琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

地雷を踏む勇気 ☆☆☆☆


地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

内容紹介
言論の地雷除去作業、ただいま続行中!

たかがコラムと侮るなかれ。わずか数千字の短い原稿のなかに、
危機的な状況下でしたたかに生きる知恵、タフであるための流儀がぎっしり詰め込まれているのだから。
東電保安院も復興会議もネトウヨもナデ斬り! 3.11大震災以降「なにもそこまで!」の地雷を踏み続け、
大喝采を浴びたコラムニスト・小田嶋隆の、ポスト3.11を生きる金言コラム集。
日経ビジネスオンラインの超人気連載「ア・ピース・オブ・警句」が一冊に。
ただちに人生に影響を与えるものではありません!

小田嶋隆さんの文章をはじめて読んだのは『Bug News』っていう、かなりマイナーな マイコン雑誌だった記憶があります。
当時の日本のマイコン雑誌には珍しく、MacintoshとかAmigaなどの海外マイコンやそのゲームに関する記事が多い雑誌でした。
その雑誌の当時はまだ無名のテクニカルライターだった小田嶋さんのコラムが楽しみで、面白い人だなあ、と思っていたのです。
あれから25年くらい経って、こうして人気コラムニストになられているのをみると、当時の自分の目は間違っていなかったんだ、と、少しだけ誇らしいような気分になります。


この日経ビジネスオンラインの連載「ア・ピース・オブ・警句」、「はてなブックマーク」経由などで、何度も読んできました。
炎上マーケティング」を狙っているブロガーならともかく、確かに小田嶋さんは、あえて「地雷を踏みにいっている」ようにも思われます。
でも、小田嶋さんのコラムは、けっして「目立つためだけの特異な意見」ではなくて、自身の経験を踏まえて「心の奥底に無意識のうちにあるのだけれど、言葉にできないこと」が書かれているです。

 原子力については、実に様々な議論があり。エネルギー政策、地球環境、核物理学、地政学、リスクマネジメント、国際政治、燃料効率、中東情勢、放射線医療、コスト分析ーーと、そうした個別の分野ごとに区々たる主張があり、それらのいちいちに賛否と反発と人格攻撃と利権がついてまわっている。こうした論点を残らず踏まえつつ包括的な結論を提示することは、私の力量を超えている。
 だから、ここでは、一点に絞ったお話をしたい。
 それは、「マッチョ」ということだ。

(中略)

 あの桁違いの出力を、暴力的な物理的なパワーには、どうしても魅了されてしまう。理屈ではなく、生理として。
 告白すれば、数年前に柏崎刈羽原発を見学した時、私は、原発のあのたたずまいにテもなく魅了された。自分ながら意外だったのだが、あの巨大さと不気味な静けさに、心を奪われてしまったのだ。
「おお」
 自衛隊の航空基地や、艦船や、潜水艦を見た時と同じだ。ああいう物件を目の当たりにすると、私は一人の小学生に舞い戻ってしまう。近所にあった自衛隊の駐屯地に忍び込んで戦車の写真を取ったり、空薬莢を拾っていたあの時代そのままのマシンオタクに戻ってしまうのだ。
 で、推進派の皆さんも、本当のところは、原子力が備えている「説明不要の魅力」としての「マッチョ」に魅了されているのではなかろうかと、かように推察している次第なのである。
 問題は、この「原子力かっけー」「原爆つえー」「核分裂パねぇ」ということの感慨が、ハタから見て、あまりにも子供っぽく見えることだ。
 だから、紳士を自認する原子力シンパの皆さんは、原子力の優位性を語るにおいて、「かっけー」とか「すげえ」とかいった率直なボキャブラリーを口外することを極力いましめて、その代わりに、「エネルギー効率」であるとか「温暖化ガス排出ゼロ」であるとかいったクレバーに聞こえる言葉を使うことにしている。
 でも、心の中には、「かっけー」「つええ」「すげえ」ぐらいな間投詞が溢れているはずなのだ。男の子は、何歳になっても変わらない。われわれは、強力で、派手で、むちゃくちゃで、制御の難しいホットロッドなマシンが、心の底から大好きなのである。
 実際、いい年をした紳士が400馬力の外国製自動車に乗らなければならない必然性は、本当の所を言えば、ひとっかけらも存在しない。
 でも、彼は乗りたい。女房を質に入れても手に入れたいのである。

ああ、これはすごくわかる。
その一方で、「よくこれをプロのコラムニストが書いて、公開したものだ」とも思うのです。
実際、これが公開されたときには、著者にとっては不愉快なものも含めて、さまざまな反応がみられたようですから。
僕自身、沖縄の水族館でジンベエザメを見ただけで、「かっけー」「でかいってそれだけで説得力があるなー」なんて考えてしまう人間なので、今回の事故の前に「選ばれた人間として特別に」原発の施設見学をすれば、その「マッチョ」に魅了されていた可能性が高いと思うんですよ。
こういう「心のなかにあるんだけど、なかなか表面に浮かんでこない(あるいは、堂々と主張するには恥ずかしい)気持ちをちゃんと言葉にできるのが、小田嶋さんのすごさなのです。
ものすごく、自分自身の気持ちに正直に向き合っていて、周囲のこともよく観察している人なんだろうなあ。


フジテレビの「韓流推し」について。

 さて、フジテレビによる「韓流推し」は、事実なのだろうか。それとも、ネットに集う「嫌韓」の人々による過剰反応に過ぎないのだろうか。
 私は両方だと思っている。つまり、フジテレビの「韓流推し」は、巨大掲示板を根城にしている人たちが指摘している通り、ある程度、事実として起こっているということだ。が、それはそれとして、ネット民の反応はやっぱり過剰反応だ。私はそのように考えている。
「韓流推し」という言葉をそのまま使うと、テレビ局という極めて影響力の大きい言論機関が、外国の勢力に魂を売って日本の文化を貶めているみたいに聞こえる。
 が、「韓流推し」は、陰謀でもなければ売国でもない。ただの商売だ。
 韓国からやって来たタレントを使うことや、韓国制作のドラマを流すことが、テレビ局にとって、経費の節約になり、放送外収入うの売上向上に寄与すると思うから、彼らは韓国コンテンツを優遇している。それだけの話だ。
 フジテレビに限らず、日本のマスメディアは、これまでにも、様々な現象や慣習や文化的偏向を、その時々の局の都合や思惑に従って、順次「推し」てきた。
 彼らは、戦後から数十年一貫して「米国推し」を続けてきた。これは今でも強力に推進されている。
 時に応じて「イタリア推し」や「フランス推し」を持ち出すこともあった。オリンピックがあれば開催国を推し、横綱が出てからは誰の目にもわかる「モンゴル推し」を関連タレント込みで、露骨に展開した。
 国だけではない。彼らは「女子推し」を展開し、「婚活推し」をネタに番組制作をたくらみ、毎年春になると思い出したように「ボジョレーヌーボー推し」を繰り返している。のみならず、全民放をあげての「ジャニーズ推し」および「吉本推し」の翼賛体制で現場を制圧するかたわら、この20年間は一貫して「芸人推し」を産業化し、それに伴って「いじめは勝ち組の証・推し」や「浮気は男の甲斐性・推し」のような、おだやかなならぬ人生観の定着にも力を尽くしている。「韓流推し」は、そうしたあまたある彼らのブーム捏造商売の一つであるに過ぎない。もちろん国際社会を舞台にした血を血で洗う陰謀などでは全然ないし、反日を旗印に国家の転覆をはかる売国蛆虫勢力が、隣国の工作部隊と裏で手を結んだ結果生じている背徳的な反文化運動だというわけでもない。
 なのに、嫌韓の人たちは、これを「陰謀」だと言ってきかない。
 非常に興味深い態度だと思う。

こう言われてしまえば、「なんで『韓流』にばかり、こんなにこだわっていたんだろう」という気がしてきます。
よく考えてみると、「韓流推し」よりも、テレビドラマなどによる「不倫推し」のほうが、よっぽど「反社会的」なのでは。
ところが、このコラムに対しても、かなりの「反論」が寄せられていました。
人間っていうのは、「自分の間違いを認める」のが、本当に苦手みたいです(僕もそうです)。


この本を読んでいて、小田嶋さんのこの話に、僕は驚かされました。

 酒はどうだろう。
 あれは、娯楽だろうか。
 私自身の経験は、一般化できない。
 というのも、私の酒癖は、娯楽の段階を超えて、病気に至ってしまった特例だからだ。
 それでも、最も大量に酒を飲んでいた時代、私は酒を飲むことが楽しくてそれを飲んでいたわけではないということだけは言っておきたい。
 私が酒を飲んだのは、それが必要だったからだ。もう少し厳密な言い方をすると、私は、自分には酒が必要だと思い込んでいた。そういう病気だったのだ。
 けれども、その一方で、酒は、色々なものの入り口になり、様々な体験の呼び水になってくれてもいた。
 その意味で、酒は、私と外界をつなぐインターフェースでもあったわけだ。このことを、さらに別の側面から見れば、私は、酒を通じてしか外界とつながれなくなっていたという意味で、一個の人格として機能不全に陥っていた。グラスの底にしか窓が空いていないのだとしたら、そいつの人生は転落に向かって一直線だ。
 結局、酒を通じて得たものと、酒が原因で失ったものをひとつずつ点検してみると、トータルはマイナスになる。ということはつまり、私は酒をやめたことで、なにがしかのプラスを得ているはずなのだ。

(中略)

 平凡な結論なのだが、なにごとも適度に取り組むのが一番なのだと思う。
 もっとも、適度というのは、実は、非常に困難なミッションだ。
 私自身、「酒には適量なんてないぞ」ということを頑強に主張してきかない酒飲みだった。
「飲み終わった段階で振り返ってみると、飲み過ぎているか、飲み足りないかのどちらかだ」と。
 で、宣言通りに、最後まで適量をみつけることができなかったおかげで、飲酒という多くの人々が楽しんでいる娯楽から撤退せざるを得なくなった次第。馬鹿な話だ。

 僕が小田嶋さんのコラムをはじめて読んだ25年前くらいから現在までの間に、小田嶋さんにも、いろんなことがあったみたいです。
 小田嶋さんは「アルコール依存症」の診断を受け、現在も禁酒を続けておられるのだとか。
 これだけ自分と他人のことがよくみえていて、ユーモアがあって、客観的な判断ができている人でも、生きていくというのは、そんなに簡単なことではないのだなあ、と考え込まずにはいられません。
 これほど「アルコール依存」というものを適切にあらわした文章は、数少ないはずです。
 
 それにしても、「なにごとも適度に」「バランス良く」というのは、僕もよく使う言葉なのですが、それって、言うのは簡単でも、実行するのはかなり難しいですよね。
「飲み終わった段階で振り返ってみると、飲み過ぎているか、飲み足りないかのどちらかだ」
 これは酒に限らず、人生そのものについても言えることなのでしょう。

 安全なところから「わかりきった悪人」を責めて、「毒舌」なんて気取っているコラムや「気高い復興の精神」の名のもとに、思考停止としか言いようのない美辞麗句を並べているコラムに飽き飽きしている人は、ぜひ、これを読んでみていただきたいと思います。
 これは、地雷源だとされている場所にあえて踏み込んで、「ここには本当は地雷なんてありはしないのだ」ということをみんなに教えてくれる、そんな希有なコラムです。
 

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