琥珀色の戯言

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小説の読み方の教科書 ☆☆☆


小説の読み方の教科書

小説の読み方の教科書

内容紹介
もしドラ』以降、事実上初の書き下ろしは、「小説の正しい読み方」の指南書!「小説は、正しく読めばこれほど助けになるものはありません。ぼくはこれまで、ぼくを生かしてくれたものは何かと問われれば、まず真っ先に『小説です』と答えてきたくらいです。ぼくは、小説を読み、そこから学ぶことによって、これまで成長を果たしてきました。」(著者あとがき)

「小説の書き方」を教えてくれる本は多々あります(実際にそれが役立つかどうかは別として)。
「おすすめの本」や、本の選び方を指導する「読書術」の本もけっこうあります。
でも、「小説の読み方」についての「教科書」というのは、珍しいのではないでしょうか。

もしドラ』で大ブレイクした岩崎夏海さんのこの本には、まさにその「小説の読み方」(読解のしかた)が書かれているのです。


岩崎さん(id:aureliano)といえば、「はてな」界隈では、ちょっと変わった言動で注目されがちなのですが、この本を読んでいると、とにかく真面目で、「本を読むこと」と「本から学ぶこと」が大好きな人なんだなあ、というのが伝わってきます。
しかしながら、だからこそ、この『小説の読み方の教科書』は、「誰がこれを読むんだ?」と感じずにはいられないような内容になってしまっている面もあるのです。

 僕が生まれて初めて小説(絵本以外の物語)を読んだのは、小学二年の時でした。その小説の名は『ドリトル先生』。言わずと知れた、児童文学の名作です。
 今振り返ると、この「生まれて初めて読んだ小説が『ドリトル先生』だったということが、小説の読み方を学ぶうえでは非常に役に立ったと思います。『ドリトル先生』を最初に読んだことによって、小説の読み方の基礎というものを、僕はごく幼い時分から身につけることができたのです。
ドリトル先生』は、岩波少年文庫版で全十三巻にもなる、とても長いシリーズ小説です。そしてこの「長い」ということが、小説の読み方を学ぶうえでは重要でした。
 というのも、小説に限らずエンターテインメントを楽しむためには、ただそれを受け身で味わうのではなく、こちらから能動的に関わっていく姿勢――コミットしていくことが重要となってくるからです。
 そうして『ドリトル先生』のような長い小説であると、読み通すだけで苦労させられるために、自然とその「コミットすること」を身につけられるのです。まずは「習うより慣れろ」というわけです。
 さて、ではその「コミットすること」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。それは、一言で言うと「想像力を働かせる」ということです。

 このあと、「想像力を働かせるためには、どうして『長い』小説を読む必要があるのか」という解説が続くのですが、僕はこの部分を読みながら、内心、ツッコミを入れずにはいられませんでした。
 これって、「泳げない人も、水に叩き込んで溺れているうちに、いつの間にか泳げるようになる」っていうのと同じ理屈なのでは……


 たぶん、この『小説の読み方の教科書』という本を手に取るのは、「小説(物語)を読むのは苦手なんだけど、その面白さがわかるようになりたい」という人、あるいは、「岩崎夏海ウォッチャー」だと思うんですよ。
 ところが、前者にとっては、この本、かなり敷居が高いものとなっています。
 泳げるようになろうと思って水泳教室にやってきたら、「ウチの教室は、とりあえずは泳げる人が、もっとうまく泳ぐための指導しかやりません」と言われるような感じ。
 その一方で、『ドリトル先生』全巻制覇くらいたいしたことない、と思うような読書家たちは、「萌え絵とマーケティングとAKBだけで売れた『もしドラ』の作者に「小説の読み方」なんて教えられる筋合いなんてあるわけねーだろ!」というような、「自らの小説の読み方のスタイル」を確立している人が多いはず。

 となると、じゃあ、この本は、誰をターゲットにしているのか?という話なんですよね。
 それこそ、ドラッカーが言うところの「顧客」が見えていない。


 ただ、つまらないかというと、そうでもありません。
 僕はけっこう面白かったです。
 「本を読むことが苦痛ではなく、さりとて、『自分の本の読み方』にすごく自信があるわけではない」という、ものすごく狭くて薄い層の人にとっては、一度読んでみて損はないと思うんですよ。


 「近代小説のルーツは『ドン・キホーテ』」なんていうのは、別段珍しい意見ではありません。
 日本で僕が読んだ範囲だけでも、清水義範さんが、ずっとその話を書かれています。
 ただ、『ドン・キホーテ』は、少なくともいまの日本では、それほど広く読まれているとは言い難い作品ではあるでしょう。
 松本幸四郎さんのミュージカル『ラ・マンチャの男』を観たことがある人のほうが、多いくらいかもしれません。

 それに、「自分のオリジナルの意見ではない」からと言って、書くことが間違っているわけでもない。
 ネットをやっていて、「こんなことは常識の範疇だろう」「前に誰々さんが書いていたしなあ」ということにこだわりすぎてはいけない、と感じることも多いですしね。
 「世間の50%の人が知っている」ことを堂々と書くと、ネットでは「既出!」とさんざん叩かれるのですが、「知らない人が半分いる」のなら、書く価値は十分あると考える人もいるはずです。


 それにしても、この本、「じゃあ、その『小説という表現の大きな転機となった「『ドン・キホーテ』について」語るのかと思いきや……

 これは、他人がびっくりしている顔を見て、初めて何か重大なことが起きているのに気づくようなものです。しかし他人が素知らぬ顔をしていたなら、ことの重大さにはなかなか気づけません。『ドン・キホーテ』という作品についても、セルバンテスが素知らぬ顔で書いた原典を読むよりは、それへの畏怖を感じながら書かれた後代の作家の作品を読んだ方が、その偉大さを深く理解できるというわけです。
 ですからここでは、『ドン・キホーテ』についてはひとまず措き、まずはその影響を受けて書かれた作品を読みながら、小説の正しい読み方を学んでいきます。そうすることによって、『ドン・キホーテ』を読むことよりも、より小説の本質に迫った読み方ーーつまり『小説の正しい読み方』を、的確に身につけることを狙います。

うーん、さんざん『ドン・キホーテ』の偉大さを語っておきながら、なぜかテキストは『ハックルベリー・フィンの冒険』になってしまうという、この肩すかしっぷり。
レベッカの偉大さを語る番組で、「それでは、レベッカの凄さを知っていただくために、まずはこの曲を聞いていただきましょう、『Over Drive』!」みたいな感じです。


 ただ、著者が『ハックルベリー・フィンの冒険』の「正しい読み方」として書いていることは、なかなか興味深いものではありました。

 実は、『ハック』という小説は、読者がそうした受け取り方ができるかどうかを試されたり、あるいは鍛えられたりする小説でもあるのです。というのも、前述のようにハックは、そもそもは美しく、好感を抱けるように書かれています。そのため読者はついついハックを好きになりかけるのですが、しかしそこにあえて障害物のように、ところどころ残酷であったり軽薄であったりする部分が待ちかまえているため、簡単には好きになれないようにもなっています。
 そうして読者には、その障害物を乗り越えることが要求されます。ハックの魅力的な部分を受け取るために、彼の短所までを認めることを強いられるのです。
 そのため、ある一定の読者は、そこでふるい落とされたりもします。自分の感性や好き嫌いが邪魔をして、どうしてもハックを好きになれないからです。しかし、それを乗り越えてハックを受け取ろう、彼を好きになろうとした時にこと、読者は本当の意味で読むことのスキルを鍛えられ、それを向上させることができるのです。
 そういうふうに、自分の感覚や感性、あるいは考え方や好き嫌いを越えて、作中の人物をそのまま受け取ることこそが、小説の正しい読み方です。そこで読者は、初めて自分に足りなかったもの、得ようとしていた何かを受け取ることができるのです。
 ところで、その読者が受け取れる「何か」とは、一体どのようなもののことなのでしょうか?
 それは「新しい考え方」です。「新しいものの見方」です。あるいは「人間としての器の大きさ」とも言うことができるでしょう。そこで読者は、これまでとは違った、一回り大きな自分になれるのです。

 「作中の人物をそのまま受け取ること」というのは、簡単なようで、なかなか難しいことです。
 僕もなるべくそれを意識しているのですが、やっぱり「嫌いなヤツは嫌い」になってしまいます。
 その一方で、「嫌われ役が、きっちりと嫌われぬいてくれる作品というのは凄い」とも感じます。

 現実では、「矛盾している行動をとるような人間のほうが、人間らしい人間」ではあるんですよね、たしかに。
 類型的な「正義のヒーロー」や「悪の秘密結社の大幹部」みたいな人は、まず存在しません。
 でもまあ、実際に「ひとりの人間の表と裏」なんていうのを深く体験する機会は、人生にそんなに頻繁にはないのです。
 それを「予習」できる大事な機会が「小説」ではあるわけです。
 僕も、本を読んできて唯一わかったことは「世の中にはいろんな人がいる」だと思っているので、著者の言葉には、深く頷いてしまいました。


 もうひとつ、僕の勝手な想像なのですが、これは、「岩崎夏海が書いている」というだけで、本を読みもせずにネットでの偏った記事だけを読んで、躊躇無くバッシングしている人たちへの警鐘でもあるのかもしれません。
「ハックの魅力的な部分を受け取るために、彼の短所までを認めることを強いられるのです」
 この「ハック」を「岩崎夏海」に置き換えてみたら、どうでしょうか?
 多くの人は、「短所ばかりを探して岩崎さんを全否定してしまい、彼の魅力的な部分を受け取ることができていない」面は、たしかにあると思います。
 何もこれは岩崎さんだけの話ではなくて、相手が誰であれ、「良いところは受け取る」ようにできれば良いのでしょうが、まあ、それはやっぱり難しいことではありますよね。
 僕だって、同じことを言ったりやったりしている場合でも、その人を好きか嫌いかで、その行動に対する評価は揺らぐことが多いのです。
 たしかに、「小説」というのは、独りでそういうトレーニングをするための場になりえます。
 「純粋な娯楽のための読書」も必要だとは思いますけどね。

 人間というものは、えてして自分のことが分からなかったりします。これは読書においても同じであり、自分では面白く読めているつもりでも、全然楽しめてなかったり、あるいはその逆でつまらないと思っているのに、実は楽しんでいるケースがあったりします。
 また、それ以上に多いのが、自分では正しく読んでいるつもりなのに、正しく読めていないというケースです。これは、食事に喩えると分かりやすいでしょう。食べ物の食べ方や飲み方は、何らかのルールが決まっているわけではありませんが、それを美味しく食べたり飲んだりしようと思うなら、方法は自ずから決まってきます。
 中でも茶道は、それを極めたものといえるでしょう。お茶は、もちろんどのような飲み方でも味わえるのですが、美味しく味わうためには、ある一定の作法ーーつまり「正しい飲み方」があり、茶道はそれを教えるのが目的の一つなのです。
 これは、読書にも全く同じことがいえます。小説も、どのように読むことも可能ですが、しかし面白く読むためには、決まったやり方、基本や原則というものがちゃんとあるのです。
 この本は、そういう問題意識に則って書かれています。ぼくは、ぼくが書いた本が世に出た時に、小説を正しく読めていない人が一定数いるということを初めて知り、とても驚かされました。そして、それではもったいないという思いから、そういう人たちの役に少しでも立てればと思い、この本を書こうと思い立ったのです。

 僕には、少なくとも今の世の中での「茶道」というのが、「お茶を美味しく味わうための正しい飲み方」だとは、ちょっと思えないんですよ。
 でも、そういう「原則」というか「方程式」みたいなものをみんなに教えてあげたい、という著者の熱意は理解できなくもないのです。
 こういうのはひとつの「叩き台」でしかないのだし、みんながそれぞれ「参考」にして、必要だと思うところだけ、役立てればいいだけの話です。
 そして、この本には、そういう「役立つところ」も、含まれているのだと思います。

 それにしても、これだけ「小説の読み方」にこだわっている人でも、自分が書き手になると、類型的なキャラクターが意外性のない行動をとるだけの小説を書いてしまうということには、愕然としてしまいます。


「人間というものは、えてして自分のことが分からなかったりします」
 小説を書くっていうのは、本当に難しいことなんだな、とあらためて考え込まずにはいられません。


 万人向けの本ではありませんし、著者の言葉には「なんか偉そうだな」と苛立つことも多いし、せめて新書で出せばいいのにとは思いますが(とはいえ、これが新書向けの内容じゃない、というのもわかりますが)、ここまで読んで、興味を持ち続けることができた人は、先入観を捨てて、読んでみてはいかがでしょうか。
 とにかく、「この人は本が好きで、本の力を信じているのだなあ」というのは、伝わってきますから。

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