琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「しがらみ」を科学する ☆☆☆☆

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

内容(「BOOK」データベースより)
社会とは、私たちの「こころ」が作り出す「しがらみ」だ。いじめを止めたいのに傍観してしまう子どものように、望んでもいない行動をとるよう、私たちに仕向ける。そんな社会の構造を解き明かし、自由に生きる道を考える。

この本のサブタイトルには「高校生からの社会心理学入門」とあります。
社会心理学」というと、かなり取っ付きにくい感じがするのですが、「空気が読めなくて生きて行くのがつらい、そんな人たち」に向けて書かれた本なんですよね。

この新書の「はじめに」こんなことが書かれています。

 世の中には背が高い人もいれば低い人もいる。運動が得意な人もいれば苦手な人もいる。それと同じように、まわりの空気を読むのが得意な人もいれば苦手な人もいる。だけど、運動が苦手な人が道徳的に劣った人間だと決めつけられることはないのに、まわりの人の気持ちを読むのが苦手な人は、劣った人間だと決めつけられてしまうんですね。ちょっとひどいと思いませんか?
 そうやって決めつけられてしまうと、まわりの人たちと一緒にいるのが苦痛になり、自分一人の世界にひきこもってしまいたくなる。だけど、そういう人たちに聞いてほしいことがあります。直感的に人の気持ちや空気を読むのが苦手なら、筋道立てて社会を理解すればいいということです。社会には何もミステリアスなことはないんだよ、ちゃんと考えれば理解できるんだよ、ということです。
 世の中の大人たちは、「そんなことは社会では通用しないよ」と説教しながら、なぜ通用しないのかとたずねられると、「社会は理屈では割り切れない」などと言ってちゃんと説明してくれません。だから、どうしたらいいのか分からなくなってしまいます。どうしたらいいのかわからないので、安全な場所にひきこもってしまう。
 だけど、そんなに不安に思う必要はありません。社会だって、論理的に説明したり科学的に分析したりすることができるのだから。そうなれば、「世の中は理屈では割り切れない」などと説教されてますます不安に思う必要がなくなるはずです。ということをこの本で書こうと思っています。

本文の冒頭で、「ジントニックのクイズ」というのが紹介されています。

 お店でジントニックをたのむと、たいてい、グラスのはしにライムがのっています。いい加減な店だとライムじゃなくてレモンがのってたりするけど、ライムの方がよくあうと思う。ジントニックはぼくも大好きで、よく飲みますね。
 さて、ここに二つのコップがあります。左側のコップにはジンが入っています。同じ大きさの右側のコップにはトニックウォーターが入っています。左側のコップに入っているジンの量と、右側に入っているトニックウォーターの量は全く同じです。
 そこで、左のコップからスプーン一杯のジンをすくい出して、右のコップにそそぎます。
 そして少しジンの混じった右側のコップの中身をよくかき回して、今度は、ジンが少し混じった右のコップから、同じスプーン一杯のジン+トニックウォーターをすくって、左側のコップにそそぎます。
 こうすると、左側のコップにはジンに少しトニックウォーターが混じることになる、右側のコップには、トニックウォーターにジンが少し混じることになります。
 さて、ここで問題です!
 左側のコップに入っているトニックウォーターと、右側のコップに吐いているジンでは、どちらが多いでしょう?
「こんな馬鹿らしいクイズの答えを考えることと、社会について考えることと、いったいどんな関係があるんだよ!」などと怒らないで、ちょっと考えてみてください。

 ちなみにこれ、著者によると、2005年にノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリング博士が講演の中で使っているクイズなのだそうです。
 僕はけっこう考えて答えたのですが、不正解でした。
 答えを読んでも、正直、しばらく理解できなかったんですよね、情けないことに。

 答えはここでは書きませんが(できれば、この本を読んで、確認してみてください。けっこうたくさんの人が、間違っていると思うから)、シェリング博士が講演でこのクイズを使っている理由は、「スプーンの量にとらわれてしまうと、全体が見えなくなってしまう」というのを聴衆に理解してもらうため、なのだとか。
 著者は、このクイズを紹介したあと、こう書いています。

 社会で起きているさまざまなできごとを理解しようとするときにも、一人ひとりの人間が考えていることとか感じていることにとらわれてしまうと、社会全体で起きていることの本質に目が行かなくなってしまって、全体を見ればすぐに分かる現象が理解できなくなってしまうことがある。

 著者は、凶悪犯罪の発生率や、離婚率などを採り上げて、社会における「統計の解釈のウソ」を暴いていきます。

 離婚率の話では、1980年代後半に離婚率が減少した理由について、こんなふうに書かれているのです。

 離婚率の減少について授業や講演で学生や聴衆のみなさんに「なぜ1980年代の後半に離婚率が減少したんだと思いますか?」とたずねたときに返ってきた三つの答え、つまり「夫婦仲良し説」、「女性の自立説」、「バブル好況説」は、実はすべて、「なぜ離婚率が減少したのか?という問いに対する答えというよりは、「なぜ人々は離婚したがらないようになったのか?」という問いに対する答えなんです。気がついていましたか? 「なぜ離婚率が減少したのか?」とたずねられると、まず離婚率が減少したという社会現象を、自動的に、「人々が離婚したがらなくなった」といふうに置き換えてしまう。そのうえで、「なぜ人々が離婚したがらなくなったのか」というふうに、質問そのものを自動的に置き換えてしまう。
 ぼくたちはつい「離婚率の減少」という社会現象と、「人々が離婚をしたがらなくなった」という一人ひとりの考え方や気持ちの変化に置き換えてしまうんだ。そして、そういうふうに問いを置き換えてしまっていることに気がついていないんだよね。

(中略)

 ぼくは社会現象について、一人ひとりの心に原因があると考える直感的な理解を「心でっかち」な考え方と呼んでいます。いろんな社会現象を理解するために、とりあえずすべてを心の問題として置き換えるところから出発して、なぜそんな心の問題が生まれたんだろうと考えるやり方です。

(「心でっかち」というのは、一人ひとりの気持ちや考え方である「心」がすべての原因だと考えることで、心と現実との間のバランスがとれなくなってしまっている状態です。心の持ち方さえ変えればすべての問題が怪傑すると考える「精神主義」がその極端な例で、その結果、竹やりで戦車に立ち向かうなどといったとんでもない結果を生み出してしまいます。
 ただし多くの場合、「心でっかち」は、それほど目立たないかたちで私たちの常識の中に入り込んで、私たちが現実を見る目を微妙に曇らせてしまう。その結果、私たちは社会を正しく捉えることができなくなり、見当違いのやり方で社会問題の解決をはかるようになってしまいます。
「頭でっかち」の典型は現場を知らない学者先生ですが、「心でっかち」の典型は、誰にでも受け入れられるようなもっともらしい「説教」を垂れ流している一部の評論家の人たちですね。とくに、現代社会の問題をすべて「心の問題」で説明できると考えている人たちです。

 ここで先ほどの「1980年代後半に離婚率が減少した理由」なのですが、これ、実は「人数の多い『団塊の世代』の夫婦が、あまり離婚しない年齢(あるいは、結婚後の期間)になってきたから」なのだそうです。僕は知らなかったのですが、「結婚後5年以内の夫婦のほうが、それ以上の長さの結婚生活をしている夫婦よりも、離婚率が高い」らしいです。子どものことなどもあるでしょうし、実感として、理解できる話ではありますね。
 そして、1980年代においても、「結婚5年未満の夫婦の離婚率は、それまでと変わらない」そうです。
 要するに、「全夫婦のなかで、離婚しやすい(若い、結婚5年未満の)夫婦の割合が減ってきたから」というのが最大の原因だったのです。
 でも、こういうのってたしかに「心の問題」でみんな解釈しがちですよね。
「1980年代後半に離婚率が減少した」と聞くと、「個々の夫婦の関係が、何かの理由で変わっていったのではないか?」と考えてしまいます。

 この新書のなかでは、これまで「心の問題」だと思い込まれていたことの多くが、統計的なイメージ操作や、「先入観を植え付けられることにより、みんなが雪崩をうって、その傾向を強めていくこと」によってつくられているのだということが、明らかにされていきます。

僕自身は、この本に書いてあるほど、人と人との関係というのは、クリアカットに「解釈」できないとは思うのですが(だって、「10人がいじめをやめたら自分もやめる人」とか「12人だったらやめる人」なんていうのが、定量化できるとは考え難いし)。

 でもね、「社会を理屈で割り切るという考え方を知っておく」というのは、これから、人間関係に悩んだときに、きっと役に立つと思うんですよ。

 僕はこれを読んで、中谷美紀さんの演技の話を思い出しました。
『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

 今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。
 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。
 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。
 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

 この中谷さんの演技は、観客には「すごく自然な演技」にみえたはず。
「空気を読めない」人でも、「空気を解釈すること」も「空気が読める演技をすること」が可能なはずです。
 もちろん、それはそれで大変なのだろうと思うけれども、世の中には、誰にも言わずに、そうやって「演技をして生きている人」が、少なからずいるのだろうと僕は想像しています。

 面白い本だと思うし、「空気が読めなくて悩んでいる人」は、高校生向けだとバカにせずに、一度読んでみていただきたい。

「頭でっかち」には、「頭でっかち」なりの戦い方があるのです、きっと。

アクセスカウンター