琥珀色の戯言

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さらば、桃鉄。

桃太郎電鉄20周年 ハドソン・ザ・ベスト

桃太郎電鉄20周年 ハドソン・ザ・ベスト


参考リンク:ゲーム『桃太郎電鉄』シリーズが終了 コナミによる買収でクリエイター離れ原因 | ニコニコニュース


このニュースを観ても、僕はあまり驚きませんでした。
僕は『桃鉄』こと『桃太郎電鉄』シリーズを、初代のファミコン版から遊んでいる、ヘビー桃鉄ユーザーなのですが、最近、とくにPS3等の世代になってからは、ほとんどプレーしていません。
妻は大好きで、いまだに、「全物件制覇!」とかをやっているんですけどね。


僕は小学校の頃、ものすごくボードゲーム(当時は「盤ゲーム」と呼んでいました)にハマっていて、自宅の縁側で、友だちと、ゲームのお金がボロボロになるまで、毎日やっていました。
はなやまの『大富豪』がいちばんのお気に入りで、その他には「億万長者ゲーム」とか、『スコットランドヤード』とかをやっていたんですよね。
モノポリー』は、「交渉」がなんだか気恥ずかしくて、そんなにはやってなかったかな。


そんな僕にとって、「ひとりでボードゲームをやる」のは、ちょっとした「夢」だったのです。
それまでは、ひとりで3つのコマを動かして「ひとりマルチプレイ」なんていうのをやったりもしていたのですが、それはやはり、そんなに面白いものではありませんでしたし。


桃鉄』がはじめてファミコンで発売されたときには、小躍りしたものです。
ああ、コンピューターって、すごいなあ、って。
桃鉄』は、当時の他コンピューターボードゲームとは違って、相手のキャラクターに個性がある一方で、めんどうなことは、すべてコンピューターが処理してくれる、という、まさに理想的なゲームだったのです。


そして、PCエンジンで『スーパー桃太郎電鉄』が出たときに、僕の桃鉄熱はピークに達しました。
 大学に入った直後で、暇だけはやたらとあったので、部活の先輩や同級生たちと、よく「徹夜桃鉄」をやりました。
先輩たちは、「こうしてテレビゲームをみんなで遊ぶ時代が来るなんてなあ」と感慨深そうにつぶやきながら、僕にボンビーをなすりつけてきたものです。
『スーパー桃鉄』には、悪名高き「キングボンビー」は出てきませんが、クレジットカードで高額物件を衝動買いしてくるボンビーに、何度泣かされたことか……


 『桃鉄』のすばらしいところは、さくまさんたちが、ボードゲームで遊ぶときの「気恥ずかしさ」とか「友だちを陥れることの気まずさ」を理解していた、ということです。
 桃鉄では、物件をプレイヤーどうしで売り買いすることはできませんし(もちろん、技術的には、そうすることは簡単だったはず)、どんな他者にダメ―ジを与えるカードも、特定の人を狙って、確実に発動させることはできません(全く関係ない人や、自分自身に跳ね返ってくることすらあります)。
 だからこそ、「ゲームのなかだから、友だちどうしても思いっきり意地悪しても大丈夫」だと思い切れない僕のような人間にとっては、ものすごく遊びやすかったのです。


 その後も、僕は桃鉄の新作が出るたびに、買い続けてきました。
 ただ、キングボンビーはまだしも、それに続く、数々の「インフレボンビー」)ハリケーンボンビーとか、ブラックボンビーとか)は、このゲームにとっては諸刃の剣だったのではないか、という気はします。
 どんな有利な状況も一発で吹っ飛ぶようなボンビーは、ゲームに一発逆点のスリルをもたらした……と言いたいところですが、実際は、上手い人って避けますからね、ボンビーを。


 でもまあ、お約束の「インフレボンビー」とか、新しく増えたカードを見るのだけが楽しみ、という、けっこうのどかな時代が、20年くらい続いていたわけで、考えようによっては、よくこんなに続いたものだな、という気もしますね。
 ゲームのシステムそのものは、初期の頃に、ほとんど固まっていまっていたわけだし。


 今回の「終了」には、さまざまな理由があると思うんですよ。
 ひとつは、以前に、さくまあきらさんが語っておられたように、今年起こった東日本大震災後の日本、とくに被災地を、どのように描くかという悩みがあったこと。
 これは物件だけの話ではなくて、地震や台風、火山の噴火等の「自然災害」が、桃鉄のなかではイベントとして頻発します。
 「たいふうで ミカン畑が つぶれました」
 今年の3月11日以前であれば、こういう言葉に「引っかかりを感じる」人は、ほとんどいなかったはずです。
 もちろん、僕もそうでした。
 でも、いまとなっては、そういうわけにはいきません。
 その一方で、『桃鉄』が『桃鉄』であるためには、災害は起こらないわけにはいかないし、物件も吹き飛ばされないわけにはいかない。


 ふたつめは、「前ほど売れなくなった」ことも、もちろんあるはずです。
 根強いファンがいるとはいっても、だんだん先細りになっていることは否めませんし、新しくなるにつれて、桃鉄そのものの敷居も少しずつ上がっていきました。
 新作を発売したのがXbox360だったり、Wiiだったり、ゲームハードの時代の流れを読み違えたという面もありました。


 みっつめは、選択肢の多様化。
 そもそも、みんなで遊べるゲームにも、モンスターハンターのような「ある程度短い時間でも、それなりに遊べるもの」という選択肢が出てきましたし、オンラインゲームだってある。
 「みんなで遊べる」とはいっても、ゲームとして面白くなるくらいの長時間(ゲーム内の期間では、10年くらいは必要でしょう)遊ぶには、かなりの時間がかかります。


 まあ、これも時代の流れなんだよね。
むしろ、よく23年間も続いたものだ。
 しかしながら、『桃鉄』が終わってしまうということをあらためて考えてみると、僕はものすごく淋しくなってしまうのです。
 桃鉄が終わってしまったら、桃鉄の代わりができるようなコンピューターボードゲームは、もう、どこにもないんですよね。
 『人生ゲーム』とかはコンスタントに発売されてはいるけれど、コンピューターボードゲームとしての完成度は、桃鉄には遠く及ばない。
 『いただきストリート』は、良いゲームだけれど(今回のWii版のデキは悪いので念のため)桃鉄のような華やかさや盛り上がりには欠けます。


 もし、ここで『桃鉄』が終わってしまったら、桃鉄が唯一無二の存在として支えてきた、日本のコンピューターボードゲーム文化は、どうなってしまうのだろうか。
 いやほんと、さくまあきらさんには「シリーズの主要スタッフ4人のうち3人がやめてしまった」状態でも新しい作品ができるくらいの「コンピューターボードゲーム作りのノウハウ」を、なぜ、次の世代に残していってくれなかったのか?と問いたい気持ちがあるのです。
 これは、『桃鉄』だけの問題ではないのだけれども。
 ゲームクリエイターとしては、「これは、自分にしか作れないゲームだ」というのは、大きなアドバンテージでしょう。
 しかしながら、どこかで後継者にひきついでいかないと、たぶん、「世代交代」の際に、さまざまな断絶が起こってしまうはずです。
 いや、もう起こりつつあるのかもしれない。
 近い将来、『ドラゴンクエスト』も同じ問題に直面することになるでしょう。


 桃鉄は、「さくまあきらのゲーム」として、終わってしまって、本当によかったのだろうか?

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