琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

うほほいシネクラブ ☆☆☆☆


うほほいシネクラブ (文春新書)

うほほいシネクラブ (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「映画は、映画について語られることを欲望しているジャンルである」が持論の著者が、長年、書きためた映画評の中から自ら厳選。画期的な小津安二郎論10本を含む187本。


内田樹先生の映画評をまとめた新書。
全部で400ページ近くある、ものすごく分厚い本で、お値段は税抜きで1000円ポッキリ!
時間がある人、および内田先生のファンにとっては、かなり「お得感あふれる一冊」ではあると思います。

内田先生は、数々の映画を「評価」しているというより、しっかりと「分析」されていて、純粋な映画評というよりは、映画という媒介を通して、内田先生の思想に触れることができます。

『アミスタッド』への感想

『アミスタッド』を「奴隷制度を告発する映画」だと思って見たひとや批評したひとはたくさんいるだろうけれど、これはどうやらそういう話ではない。
 この映画は「人を奴隷化する悪い黒人 vs 自然と共生する素晴らしいアフリカ文明」という定型的な話型をとっていない。ひとを奴隷化する悪いアフリカ人が一方におり、自由を求めるよい白人が他方にはいる。「独立宣言」の精神という徹底的に人工的な幻想を信奉する元大統領アダムスは勝利を収め、「楽園」シェラ・レオーネの人々はお互いに殺し合い、奴隷化し合って物語は終わる。
 スピルバーグはたぶん差別についてこういうふうに考えている。
「自然な感情」を基礎にする限り、差別はなくならない、暴力はなくならない、迫害はなくならない。虐殺はなくならない。なぜなら人間は生来邪悪なものだからである。差別の構造、収奪の構造、排除の構造を覆すのは「自然な感情」ではない、思いやりや共感や慈悲によっては社会はよくならない。社会を少しでもまともなものにするのは、「人間の邪悪さを制御する擬制」である。
 アミスタッド号事件を解決に導くのは、クールな法律事務家ボールドウィン算盤高い政治家アダムスとイギリス海軍の将校である。彼らに共通しているのは、「人間は邪悪な存在だ」という経験的な知見である。だから、彼らは法律と、政治と、軍事を通じて、人間たちの邪悪さが制御範囲を超えないように全力を傾注する。
 逆に、無力さの証として登場するのはクリスチャンとしての使命感から奴隷解放にかかわるタパンとその一党たちである。彼らは純粋に善意のひとであり、そして、それゆえ無力である。彼らが無力なのは、自分が善良であることに満足しているせいで、おのれが無力であることを恥じないからである。たぶんスピルバーグは奴隷商人よりも、この「善良で無力な人々」の方を憎んでいる。
 アウシュヴィッツのユダヤ人たちの命を現場で救ったのは、人間の邪悪さを熟知しているシンドラーというクールで計算高いビジネスマンであったというスピルバーグの逆説は『アミスタッド』でもそのままに繰り返される。

 これは、スピルバーグ監督の「分析」であるのと同時に、内田先生の考えを、「感想」という形で書いているもののようにも思われます。
 それゆえに、この『うほほいシネクラブ』は、個々の映画を観たことがなくても、十分に面白い。
 実際、ここで紹介されている187本の映画の大部分を観ている人なんていないでしょうし。

 ただ、その一方で、「映画ガイド」的なものを期待している人には、物足りないというか、役に立たない本かもしれません。
 僕は『バーン・アフター・リーディング』を内田先生が「楽しかった」と書いているのを読んで、「娯楽性という意味では、内田先生の評価は僕には役に立たないな」と痛感しました。
(いや、「面白かった理由」を読んでみると「なるほど」とは思うのですが、僕にとっては、ただ「バカバカしくて、眠い映画」でしかなかったんですよ)

 第一部は読売新聞に連載されていたということもあり、また、内田先生の主義から、「なるべく良いところを見つけて評価する」というコンセプトの映画評なので、「つまらない映画がメッタ斬りにされる楽しみ」にも乏しいです。

 でも、なかには、こんな「感情のこもったレビュー」もあって、嬉しくなってしまいます。

 DVDには「ふろく」で大林監督のインタビューもついていた。その中で、監督はわずか28日間しかなかったこの映画の撮影期間中に、スタッフ全員が原田知世という少女が大好きになってしまって、「この少女のいちばん美しい瞬間をフィルムに収めよう」という情熱を共有したことが映画の成功の原因だろうと語っていた。映画は主演の少女女優が中学を卒業して、高校に入学するまでのひと月たらずの休暇のあいだに撮影された。忘れられやすいことだが、映画もまた演劇と同じく「一回的な出会い」の記録である。「もう子どもではなく、まだ大人ではない少女のほんの一瞬のきらめき」はいまフィルムに定着しなければ永遠に失われるだろうというある種の切迫感が、俳優たちにもスタッフたちにも共有されていた。その切迫感「いまの一瞬は、最初で最後の一瞬である」という「時の移ろい」という映画の主題そのものとむふごとな重奏をなしとげたのである。
 原田知世はこの初主演映画で女優として頂点をきわめ、それ以後二度とスクリーンの上でこのようなオーラを示すことがなかった。高柳良一は大学を出たあと俳優をやめて角川書店に入社し、いしかわじゅんの担当編集者になった。

 これを読んで、僕はもういますぐにTSUTAYAに行って、この映画のDVDを借りてきたくなりました。
 この映画のタイトルは(たぶんみんな言わなくてもわかっていると思いますが)、『時をかける少女』。

 人は、「感想」を書くとき、「あらたまって自分の主義主張や思想を文章にするとき」よりも、無防備になりやすいような気がします。

『8mm』という映画の感想の最後に、内田先生は、こんな言葉を書き留めておられます。

 ただ、この映画を見た人は誰でもそう思うだろうけど、「善良なひとのなかにひそむ邪悪さ」より、「邪悪なひとのなかにひそむ邪悪さ」のほうが100倍くらい怖い。

 内田先生のファンなら読んで間違いないはずですし、映画ファンにとっても、なかなか興味深い一冊のはず。
 正直、全部読み通すのはけっこう大変なので、面白そうなところだけ拾い読みするくらいのほうが、楽しめるのではないかなあ。

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