参考リンク:「ステマ」に騙される奴は情弱(おごちゃんの雑文)
「情弱(情報弱者)」という言葉が氾濫しているように、僕には思われます。
とくにネット上で、この言葉を用いて、他者の「無知」を批判する人が少なくない。
でもね、僕はこの言葉、大嫌いなんですよ。
僕自身も「情弱のオッサン」ですしね。
そもそも、「情弱」と他人を嘲る人たちが他人をバカにする根拠って、「『食べログ』をアテにして、不味い店を選んでしまったこと」だったりするわけです。
でも、それで「本当に困っている人」が、そんなにいると思いますか?
毒入り餃子でも喰わされたのならともかく、不味い店を選んでしまったことなど、人生においては、笑い話のひとつでしかありません。
僕は長年ネットをやっているのですが、正直、やればやるほど、「どの情報が正しいのか?」がわからなくなってきています。
そりゃあ、医学関係の、自分が専門としているジャンルの話くらいは、ある程度の判断はつきます。
でも、あらためて考えてみてください。
初めて行く土地の飲食店の味とか、テレビゲームの面白さなんて、「どんなに想像しても、ネットの書き込みから自分にとっての正解を導くのは難しい」のです。
原発の話にしても、原子力発電のシステムもよくわからない人や放射線について勉強したことのない人に、ある説が「正しい」かどうかなんて、理解することは不可能です。
ある本で、森達也さんがこんなことを書かれていました。
「電気」とは何か? あなたは説明できますか?
どうですか?
僕はこれを読んで、言葉に詰まってしまいました。
フランクリンが凧を揚げて発見したのが電気で……
うーん、でも、電気って、静電気くらいしか見たことないし、どんな色や形をしているのかわからない。
そして、なぜそれでいろんなものが「動く」のか、僕には説明できませんでした。
僕はたぶん、「原発について」のいろんな人の「正義のツイート」を読んで混乱する前に、書店に行って、原子力発電の基礎について学ぶべきだったのです。
「わからない」上に、どんなに「わかったふり」を積み上げても、そんなものは手抜き工事の高層ビルみたいなものなのに。
佐々木俊尚さんが『キュレーションの時代』という新書で、こんなことを書いておられました。
そもそも私たちは、情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできません。
1995年にインターネットが社会に普及しはじめたころ、「これからは情報の真贋をみきわめるのが、重要なメディアリテラシーになる」といったことがさかんに言われました。マスメディアが情報を絞っていた時代にくらべれば、情報の量は数百倍か数千倍、ひょっとしたらもっと多くなっているかもしれません。その膨大な情報のノイズの海の中には、正しい情報も間違った情報も混在している。これまでは新聞やテレビが「これが正しい情報ですよ」とある程度はフィルタリングしていたので、まあそれをおおむね信じていれば良かった。もちろん中には誤報とか捏造とかもあるわけですが、しかし情報の正確さの確率からいえば、「正確率99パーセント」ぐらいの世界であって、間違っている情報はほとんどないと信じても大丈夫だったわけです。
ところがネットにはそういうフィルタリングシステムがないので、自分で情報の真贋をみきわめなければならなくなった。だから「ネット時代には情報の真贋を自分でチェックできるリテラシーを」と言われるようになったわけです。
正直に告白すれば私も過去にそういうことを雑誌の原稿や書籍などで書いたこともありました。しかしネットの普及から15年が経ってふと気づいてみると、とうていそんな「真贋をみきわめる」能力なんて身についていない。
それどころか逆に、そもそもそんなことは不可能だ、ということに気づいたというのが現状です。
考えてもみてください。
すでにある一次情報をもとにして何かの論考をしているブログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違っている」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。でもそういう議論をするためには、書かれている一次情報が事実だという共通の認識が前提として必要になってくる。つまり「自殺者が増えている」という所与の事実を前提としてみんな議論をしているわけです。
逆に、だれにも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。たとえば、小沢一郎を起訴に持ち込むために検察のトップと民主党の某幹部が密談していた」とか書かれていた場合、それを検証することなど普通の人間にとってはほぼ100パーセント不可能です。新聞社の敏腕記者だってウラ取りするのはかなり容易ではない。
だから「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごくあたりまえの結論だったわけです。
でも一方で、もしその「検察トップと民主党の某幹部の密談」というのが政治ジャーナリストとして著名な上杉隆さんや田原総一朗さんの署名記事に書かれていたらどうでしょう。「これは本当かもしれない」と多くの人は信頼に足る記事だ、と捉えるのではないでしょうか。
なぜかといえば簡単なことで、過去に上杉さんや田原さんが書いてきた記事が信頼に足ることが多かったからです。
つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。
実は、参考リンクに書かれているのも同じようなことではあります。
「情報弱者」から脱出するのに必要なのは、「ネットリテラシー」ではなくて、「信頼できる人脈」なのかもしれません。
リアルの人間関係がめんどうで、ネットに逃げ込みたくてしょうがない僕のような人間には、耳の痛い話ではありますが……
以前、『2ちゃんねる』の「ひろゆき」さんが、ある対談でこんなことを言っていたんですよね(正確な引用ではありませんが、概略としては合っていると思います)。
いつでもお金を貸してくれ、泊まらせてくれるような友達がいれば、「自分にお金がないこと」は、大きな問題ではない。
逆にいえば、そういう「人脈」が無いから、自信が持てないからこそ、「お金」が必要だと思い込んでしまうんですよ。
ネットには、さまざまな情報が溢れています。
でも、何が正しいか見分けるのは、本当に難しいことだし、「ネットの中にだけ正解を求めようとする」のは、危険なことではないかと思うのです。
ある本によると、各国の諜報機関のエージェントたちが本国に送信している「機密情報」の90%以上は、「その国の新聞や雑誌の記事に書かれていること」なのだそうです。
世の中には、「見えないように隠されている真実」なんて、そんなに多くはないのです。
試しに、あなたが持っている「情報」を、リアルの知人や配偶者にぶつけてみてください。
「それって、どういう意味?」たぶん、聞き返されるはずです。
そして、彼らはたぶん、そう簡単には「納得」してくれない。
あなたも、ネットでやっているようには、うまく「説明」できない。
少なくとも僕は、あまりネットをやらない自分の妻の「地に足のついた生活力」とか「情報判断力」に圧倒されることばかりです。
僕は、ネットで「情弱」をバカにしている人をみると、悲しくなるのです。
彼らは、自分だけが家族のなかでビデオデッキの使い方を知っていた、子供時代の僕みたいだから。
僕はそれでいい気分になっていたのだけれど、そのビデオデッキは親のお金で買ったものだったのに。
あなたは、その「情報」を、本当に活かせていますか?
それに基づいて大きな仕事をしたり、誰かを助けたりできるほど、自分の「リテラシー」に自信がありますか?
「情弱」をバカにして自己満足に浸るためだけの「情報集め」は、あなたを幸せにしていますか?