- 作者: マークボイル,吉田奈緒子
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2011/11/26
- メディア: 単行本
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内容紹介
この実験で証明したいのは、お金がなくても「生き延びられること」ではなく「豊かに暮らせること」だ――
1年間お金を使わずに生活する実験をした29歳の若者の記事がイギリスのテレビや新聞で紹介されるや、世界中から取材が殺到し、大きな反響を呼んだ。著者は、不用品交換で入手したトレーラーハウスに太陽光発電パネルをとりつけて暮らし、半自給自足の生活を営む。手作りのロケットストーブで調理し、歯磨き粉や石鹸などの生活用品は、イカの甲を乾燥させたものや植物、廃材などから手作りする。衣類は不要品交換会を主催し、移動手段は自転車。本書は、彼の1年間の金なし生活をユーモラスな筆致で綴った体験記である。貨幣経済を根源から問い直し、真の「幸福」とは「自由」とは何かを問いかけてくる、現代の『森の生活』。
世界の10の言語に翻訳され、14か国で刊行。
紀伊国屋で見つけて購入。
「お金を使わない生活」ということで、僕がイメージしていたのは、「無人島での自給自足生活」だったのですが、著者は、そんな「原始的サバイバル生活」を行ってはいません。
「物やサービスを得るための媒介として、お金を使用しない」というのがルールで、ソーラーパネルを使っての発電でパソコンや電話を動かして自分のサイトで「カネなし生活」の報告をしたり、近所のレストランや食料品店で、「賞味期限切れの食べ物を頂戴してくる」こともやっています。
「それって、なんか違うんじゃない?」僕はそう考えずにはいられませんでした。
それでも、「お金を一切使わない生活」というのは、そんなに甘いものではありません。
そこそこやりくりすれば、年間5000ポンドで生活するのはきわめて簡単だった。家賃を差し引いても、だ。ところが、お金を一切使えないとなったとたん、さまざまな問題が生じてくる。普通ならちょっとした買い物ですむことが、気の遠くなるような大仕事になってしまう。週50ポンドの薄給で暮らしているとして、ペンが書けなくなったとしよう。ペンなんて買えば安いものだ。誰だって、近くの店に駆けこんで25ペンス出せば新しいのを買える。しかし、お金を使えないとなると話は別だ。ペンが信じられないほど安くたって、5ペンスに値引きされたって、この際関係なし。お金がなければ買えないだけだ。国内の最低賃金換算で2分間の労賃に等しい額を支払う代わりに、一日の4分の3の時間を費やしてキノコから新しいペンを作らなければならない。これが、倹約生活とカネなし生活のちがいである。この現実にはすっかり肝をつぶしてしまった。
この本、僕には正直読むのがつらい一冊だったんですよね。あまりにも自分との接点が見出せなくて。
読んでいて、かえって「ああ、お金を使う生活のほうがラクだなあ」と。
お金を使わないと、「生きるための行為にかかる時間」があまりに大きくなりすぎる。
著者は、「お金を使わなくても、それぞれの人が、自分の特技を持ち寄って助け合えれば、十分『豊かな生活』ができる」と考えています。
そして、この本を読んでいるかぎりでは、「カネなし生活」は、「時間の余裕」を奪ってしまう一方で、「心の余裕」を著者に与えているようにもみえるのです。
実験中、お前がお金を使わずに生活できるのは皆がお金を使っているからだ、と何度も言われた。「お金が存在しなくて、私が税金を払っていなかったら、自転車を走らせる道路はどうやって作るのだ」。無理もない意見だが、その前提には「物を創りだすにはお金が必要」という考えがある。ぼくが思うに、この前提がそもそもまちがっているのだ。
何かするときにお金を利用するのは一つのやり方にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法ではあっても、道路の建設自体にはまったく必要ない。お金を使えば遠隔地の労働力を利用できるようになり、道路のアスファルトは、まず例外なくどこか遠くの人びとによって作られることになるだろう。お金を使わずに生活していたら、必要な材料は地域内で調達せざるをえない。地域社会のニーズにこたえる責任が生じるし、おのずと自分たちが使う物に対する認識が深まる。また、近隣の脳動力を利用せざるをえなくなる点も、ピークオイルや気候変動などの深刻な問題の解決にはきわめて重要だ。自分たちが必要とする道を地域住民が作れないわけがない。意思決定を地域社会にゆだねれば、住人どうしが協力して自分たちに必要な物を作るのを妨げる障害はなくなる。ちょっと見方を変えるだけのことだ。
こういう考え方に触れ、著者たちが「お金を使わないで生きていくことを指向する人々のグループ」を運営し、この「カネなし生活」でも多くの人と協力して「無料パーティ」を企画し、実行していたのを読んでいると、お金を使わないで生きていくには、「圧倒的なコミュニケーション能力」が必要とされるのだな、と考えずにはいられませんでした。
少なくとも、僕にとっては、「人と助け合う」っていうのは、そんなに簡単じゃない。
「必要なときに、必要な人と助け合う」ことが難しいからこそ、人はお金をつくったし、それが便利なものとして使い続けられているのだと思うのです。
「仲間とのコミュニケーションこそ幸福」だという信念を抱けない僕にとっては、「生活の不便」よりも、「濃密すぎる人間関係」のほうが不安なんですよね。
率直に言うと、「カネなし社会では、コミュニケーション能力が通貨になるのか……」と、怖くなってしまいました。
著者はまだ若くて体力もあるし、いまはこういう「カネなし生活」そのものに宣伝効果があるので協力してくれる人も多いだろうけれど、多くの人がこんな生活をするようになれば、市場だって、そう簡単に「余った野菜をわけてくれる」ことはないでしょう。
それでも、現在のままの「大量消費社会」がずっと続けられるとも思えないし、「節約社会への転換」を考える意味では、得るところが大きいと思います。
みんなが「カネなし生活」をおくることは無理でも、こういう発想をほんのちょっと取り入れていくだけで、地球は少し、長生きできる。
「こんなこと、実際にできるわけないよ」「夢物語だ」と無視してしまうのは簡単だけれども、こういう「できそうもないこと」の中に、大きなヒントが隠されているのかもしれません。
そして、「できそうもないこと」の多くは、「できないと思い込んでいるだけ」ですし。
著者は、あるテレビでのインタビューで、司会者とこんなやりとりをしたそうです。
「『銀行に千ポンドの預金がある人は、エリトリアで飢えて死ぬ一人の子に対する責任を逃れることができない』と発言なさっていますが、ボイルさんもお金をかせいで、それを発展途上国の支援団体に寄付すべきではありませんか」。口元に微笑が浮かんでいる。「人びとを貧困状態に押しとどめておいて、あとで利益の一部をひもつき援助だの世界銀行やIMFの融資だのの形で供与するような、そんなシステムの中でお金をかせぎ、そのしくみを支えるなんて、まったくバカげていますよ。シェルとかエッソがグリーンピースや地球の友(ともに国際的な環境保護団体)に1万ポンド寄付して、自分たち企業がしでかしている破壊のあと始末を支援するようなものです。そうするくらいなら最初から破壊しないほうがいいですよね」。そう答えてから、急いでつけくわえる。「いや、もちろん、どうしてもお金をかせいで、国をあげて恵まれない人たちを踏み台にしようというのであれば、できるだけ多くの額を支援団体に寄付すべきだと思いますが」
ボイルさんカッコいい!という場面ではありますが、実はこれ、ずっと意見が分かれていることなのです。
「貧しい人もやる気がない人も、みんなで平等に努力をして、豊かになる道を目指す」べきか、それとも、「貧しい人や、やる気のない人のモチベーションを上げようとするより、効率よく運用できる国や有能な人が、よりいっそう多くの仕事をして、その『分け前』を分配した方が『効率的』なのではないか」
みんながボイルさんみたいに「やる気がある人」なら、前者のほうが「正しい」とは思うのですが……