琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

本村洋さんの「再婚」について

参考リンク(1):「元少年の死刑確定に思う」(BLOGOS)

上記のエントリに、僕は基本的に同意なのですが、ひとつだけ気になったところがあるのです。
それは、最後の

今日初めて、彼は再婚していたとニュースで聞いて、少し戸惑ったが、まあ、それはそれでいいのかも知れないと思い直すことにしている。

という一文。


参考リンク(2):光市母子殺害事件 本村さん再婚していた(日刊スポーツ)


僕のなかの「理性」は、「ああ、本村さんは判決が出たら自殺するんじゃないかと心配していたけれど、これなら大丈夫だな。これから穏やかで幸福な人生をおくれますように」と呟きました。
でも、その一方で、僕もまた、「少し戸惑った」のですよね。
自分でも、理不尽きわまりないと思うのだけれども。


本村さんは被害者であり、もし、妻子がこんな犯人の犠牲にならなかったら、いまでも穏やかに暮らしておられたと思います。
あの事件で、すべてが変わってしまった。
あれから13年間というのは、当事者にとっては、あまりにも長い時間です。
亡くなられた奥様、子どもさんを思う気持ちが無くなってしまったわけではないだろうけれど、思い出と犯人への憤りでずっと生きていくのは、あまりにつらいはず。
これから生き続けていくために、新しいパートナーにめぐりあい、籍を入れたとうのは、全く責められるべきことではありません。
それは、すばらしい、歓迎すべきことのはず。


しかしながら、「本村さんが、一生、亡くなられた人たちへの変わらない想いを、独りでいるという行動で示し続ける」ことを望んでいる僕もいるのです。
僕が子どもで、自分の親が「再婚する」と言っているわけでもないのに。


参考リンク(3):「愛と死をみつめて」(男の魂に火をつけろ!)


上記で採り上げられている『愛と死をみつめて』の「その後」についてのエピソードも、考えてみれば、「人の心は移ろっていくものだから、ずっと『死んだ人に操を立てる』のが正しいというわけではない」はずです。

そして極め付きは、河野氏が『愛と死をみつめて』の読者だった女性と、1968年に結婚したときです。恋人の死を売り物にしておきながら、その恋人を裏切るのかと大バッシングを受けたのでした。

実に理不尽な話ですが、当時はそういう風潮が強かったんですね。ミコは、自分の死後にマコが解放されることを願っていたので、このバッシングはミコの遺志にも反していたんですけどね。

にもかかわらず、世間には「なんか違うんじゃないか」という反応をする人が、少なからずいたのです。

この件と、本村さんの話は、状況がかなり違うので、同じように語るわけにはいかないところが多いのだとしても。


本村さんの再婚に関する「2ちゃんねる」のスレッドをいくつか読んでみたのですが、「名無しさん」の書き込みのなかには、「妻子を裏切った」とか「『孤独な戦い』を演出するために、あえて2年間公表しなかったのは卑怯」というようなものも(少数派ですが)ありました。


いまの日本は、大切な人が亡くなったからといって、「殉死」するような社会ではないはずです。

でも、被害者に対しても「みんなが望む、完璧な被害者」であることを求める風潮があるんですよね。
こんな、誰がどうみても「本村さん一家が一方的な被害者であった事件」でさえ、「被害者の落ち度」を探す人がいたり、「被害者は被害者らしく、ずっと不幸を噛みしめ、しおらしく生活する」ことが望まれてしまう。
僕の中にも、そういう「期待」があったことを、今回、あらためて思い知らされました。


本村さんの再婚に対する一部からの「反応」をみて、本村さんが、再婚を2年間「言わなかった」のか、それとも「言えなかったのか」考えてみると、日本は、犯罪「被害者」が人生を取り戻そうとすることに冷淡な国なのではないか、という気がしてなりません。
「被害を受けること」そして、「みんなが期待している被害者であり続けること」。


「犯罪が起こった時点で、皆、敗者」
「皆」のなかには、本村さん自身も、そしてたぶん僕たちも含まれているはずです。

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