琥珀色の戯言

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吉本隆明さんの訃報を聞いて

スポニチアネックスの記事より。

 文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。
 87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は未定。
 今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。長女は漫画家ハルノ宵子さん、次女は作家よしもとばななさん。
 1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らの転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。
 既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。
 80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。


吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)

吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)

内容紹介
吉本隆明さんのたくさんの講演の中から、糸井重里が選び、音源を少しずつ切り出して構成した約74分のCDと、ブックレットがセットになっています。 吉本さんの話が漏れ聞こえる寺子屋の前でうろうろしている糸井重里が「ここ、聞いてごらん!」と、 障子に穴をあけて手招きしているようなイメージといえば、わかりやすいでしょうか。 吉本隆明さんの声を聞いてみたい、まずは知りたい、という方におすすめです。 CDに入っている講演には、吉本隆明さんが抱えてきた領域の広大さを示すように、文芸、思想、宗教、歴史、科学、社会といった分野が含まれています。 数秒のトラックもあれば、6分以上のトラックもあります。まとまった考えが伝わってくる部分や、唐突に問題を投げかけるだけのようなところ、吉本さんの気質を感じられるところ、実用として役に立ちそうな内容の見本など、吉本さんの名講演が少しずつミックスされています。「肉声ならではの『歌』に似た親しみも、ここにあります。 (糸井重里による、まえがきより)」 ブックレットでは、糸井重里が「どうしてその部分を選び出したのか」を講演内容とともに案内するほか、吉本さんとの未公開の対談も5本収載しています。吉本隆明さんの足跡がわかる年表もついていて、「入門編」としてもおすすめの一冊に仕上がっています。


(3年前に書いたものを一部改変および追加しています)

僕にとって「吉本隆明」という人は、「よしもとばななのお父さん」であり、「僕の父親世代(いま還暦くらい)の人たちが、なんだかやたらとありがたがっている『過去の偉大な思想家』」だったんですよね。
もちろん名前は知っているけれども、どんな人なのかはよくわからない。
そして、いまさら読んでみようとも思わなかった。


でも、この本を書店で見かけて購入し、吉本さんの講演の「ショートクリップ集」を聴いてみて、なんだかとても得をしたような気分になったのです。
吉本さんはオバマさんみたいに高らかに、さわやかに演説しているわけじゃないんですよ。
むしろ、訥々と、自分が考えていることがうまく言葉にならないもどかしさにもがきながら、本当にいろんなこと、文学のこと、経済のこと、人間にとっての善悪のこと……について喋っておられます。
僕は最初、「なんでこんな当たり前のことをボソボソ喋っているだけのような人が『知の巨人』として崇め奉られているのだろう?と疑問に思いながら聴いていたのです。正座して聴こうとすると退屈になってくるので、車で移動中に流していました。
ところが、そうやって流し聴きしていると、ときどき、ハッとする言葉が耳に飛び込んできて、ものすごく耳に残るのです。


この本に付属のCDには、こんな内容の吉本さんの講演の一部が含まれています。

(1988年「日本経済を考える」より)

 なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。
 そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。
 反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。
 ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。
 しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおられるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。
 僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。
 それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。
 だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。
 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。


(1984年「親鸞の声について」より)

 だいたい、いいことをしているときとか、いいことを言っているときというのは、図に乗ることが多いわけですよ。逆なことを言いますと、他者が悪いことをしているという場合には、けしからんじゃないかというふうになってしまうことが多いわけなんです。だから、なんです。
 だから、それはそうじゃないのであって――だいたい人間というのは、微妙なところで言いますと、いいことをしていると自分が思っているときには、だいたい悪いことをしていると思うとちょうどいいというふうになっているんじゃないでしょうか。それから、ちょっと悪いことをしているんじゃないか、というふうに思っているときは、だいたいいいことをしていると思ったほうがいいと思います。つまり、そのくらいでバランスが取れるんじゃないかと思います。
 それが、人間の中での善悪というもの、あるいは倫理といいましょうか、善行・悪行というようなものにおける、ひじょうに大きい微妙な問題なんです。
 いい行い、悪い行いというものが、自分の心の中にだけあるときにはいいのですけども、それがいわば行為としてあらわれるときには、いいことをしているのを見てて不愉快な場合というのがたくさんあるわけですよ。「不愉快だな、あいつ。あいつがいいことをして不愉快だな」というふうに思うことが、みなさんもおありでしょうけれども、僕もあります。
 例えば電車の中で、お年寄りに席を譲ったとします。それだけ取ってくればいい行いなんだけれども、人によりまして「なんかおもしろくないな、見てると」という譲り方をしている人もいますし、照れくさそうにして譲っている人もいます。つまり、少なくとも照れくさそうに譲っているときには、まあ悪い気持ちはしないなというふうに思うけれども、なんとなくいいことをしているみたいに譲っていると、おもしろくないなというふうに思うことがあるでしょう。自分でも、よくよく気をつけて、よさそうなことをしているときには、よくよく照れくさそうにして、気をつけているんですけども。それでもときどきそうじゃなくて、やっぱり排他的になってしまうことはあるわけです。

こうして書き文字にしてみると、けっこう「当たり前のこと」のようにも思えます。
でも、「当たり前のことを、当たり前のこととして言葉にしてくれる人」っていうのは、実際はすごく少ないのです。
前者の

自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。
 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね。

という文章は、「経済論」なのですが、「ネットでの個人の立ち位置」についても、まったく同じことが言えるのではないかと思うのですよ。
ブログで書かれている「意見」「提言」の多くは、「自分が支配者か指導者になったような感じで書かれている」し、「一般大衆の立場から」書くと「お前は大局が見えていない」なんてバカにされたりします。
政治家でも大企業の社長でもない人が、ネット上では「国の立場」や「大企業の倫理」を擁護するのだけれど、彼らは「ネットの中で偉くなった気分」に浸っているだけで、現実社会では自分の損になるような政策や企業のやりかたを支持し、「不満ばかり言っている庶民」を罵倒しているのです。
戦争に駆り出されそうな立場の人が「徴兵制」を提言し、大金持ちでもない人が消費税率アップを容認する。
それって、「自分はわかっている」つもりで、逆に「都合のいい存在として利用されている」だけなのかもしれないよ。
「自分のいる場所」を再確認することって、本当に大切なことだと思います。


後者の

いいことをしていると自分が思っているときには、だいたい悪いことをしていると思うとちょうどいいというふうになっているんじゃないでしょうか。それから、ちょっと悪いことをしているんじゃないか、というふうに思っているときは、だいたいいいことをしていると思ったほうがいいと思います。つまり、そのくらいでバランスが取れるんじゃないかと思います。

なんて、本当に身につまされます。この後語られている、「いいことをしているのに見てて不愉快な場合」の話も。
こういう「人間のどうしようもなさ」みたいなのをありのままに受け入れて語っているところが、吉本さんのすごさなのです。


僕は、吉本さんの発言内容が全部正しいとは思いませんし、何回か聴いてみても、よく意味がわからない言葉、「やっぱり時代が違うなあ」と感じた言葉もありました。
にもかかわらず、吉本隆明という人の言葉は、それを聴いている僕に、「物事にはこんな見方があるのか」と教えてくれるのと同時に、「僕ももう一度考え直してみようかな」という刺激になるんですよ。
吉本さんにとっては、語ることは考えることであり、きっと、語りながら考え続けている人なのでしょうね。
付属のCDで聴ける肉声には、文章に起こしたものでは味わえない、「吉本隆明の人柄」が篭められています。
音質はけっして良くないし、なかにはノイズや観衆の咳払いや椅子がガタガタいう音まで入っているものもあります。
しかしながら、だからこそ、このCDには書き言葉にはあらわせないリアリティを感じるのです。
引用した後者の講演なんて、

それから、ちょっと悪いことをしているんじゃないか、というふうに思っているときは、だいたいいいことをしていると思ったほうがいいと思います。つまり、そのくらいでバランスが取れるんじゃないかと思います。

何回「思う」って使えばいいんですか吉本さん!って感じなんですよ。
でも、それがいいんです。不思議なことに。


吉本さんは、昨年(2011年)8月に日本経済新聞のインタビューで、こんなことを仰っておられます。

 事故によって原発廃絶論が出ているが。「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するために科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。

また、震災に対する「個人」としての向き合いかたについては、こんな言葉がありました。

全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている

 正直、「原発はコストが安い」というのは(建設費や維持費、安全対策費を考えると)事実誤認ですし、「科学で原子力をコントロールできる」というのも、あまりにも楽観的なのではないかと思います。
 僕はこれを読んで、「吉本さんは、長生きしすぎたのかもしれないな」と感じたくらいです。


 でも、あの事故までは、みんな同じようなことを言っていたわけで、即座に「転向」してしまった人たちに比べて、筋を通したとも言える。


 そういう「受け容れがたい言葉」も含め、最後まで語り続けた姿は、まさに「知の巨人」でした。
 大きくなりすぎて、自らを制御しきれなくなってしまった面も含めて。


 いまだからこそ、吉本さんの言葉に耳を傾けてみるべきなのかもしれません。
 他者に嫌われないことを最優先にしたポジショントークに飼い馴らされた、若い世代はとくに。


 謹んで、御冥福をお祈りします。

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