琥珀色の戯言

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西洋美術史入門 ☆☆☆☆


西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

内容(「BOOK」データベースより)
名画にこめられた豊かなメッセージを読み解き、絵画鑑賞をもっと楽しもう。ヨーロッパの中高生も学ぶ、確かなメソッドをベースにした新しい西洋美術史の教室へようこそ。


第1章 美術史へようこそ(美術史とはなにかなぜ美術を学ぶ必要があるのか ほか)


第2章 絵を“読む”(記号としてのイメージイメージとシンボル ほか)


第3章 社会と美術(社会を見るための“窓”トビアスの冒険―ルネサンスを開花させた金融業 ほか)


第4章 美術の諸相(美的追求と経済原理パトロンのはなし ほか)


第5章 美術の歩み(エジプトとメソポタミア エーゲ文明と古代ギリシャ ほか)

僕は絵や彫刻を見るのが好きなのですが、「その絵の何を見ているのか?」と問われると、あまりうまく答えられないんですよね。
「美しいものを見ること」そのものが快感なのか、それとも、「有名な作品を自分の目で観た、ということを自慢したい」のか?
それとも、何かうまく言葉にできないのような理由があるのだろうか。


この本、書店で見かけて購入したのですが、「まあ、西洋の美術史について、ザッとおさらいできればいいかな」というような感じで読み始めたんですよね。
でも、読んでみると、僕のイメージしていた「美術史」って、それを生業にしている人たちが研究しているものとは、まったく違っていたのだな、と痛感しました。
この画家が何年にこういう絵を描いて、その特徴と歴史的な意義は……というような「歴史年表的な研究」だとばかり思っていたので。

 現代であれば、私が皆さんにお伝えしたいことは、こうして文字にすればすんでしまいます。しかし、たとえば昔の西洋世界で本など読めたのは社会のごくごく一部の層にすぎません。では大衆に伝えたいことがあれば何を用いたか――それが絵画だったのです。つまり絵画は、今よりもっと「何かを誰かに伝えるためのもの」という機能を強く持っていました。個人が、ごく私的な趣味のためだけに自由に絵を描くという行為は、ごく近代的なものにすぎません。であれば、私たちがもし過去の社会のことを知りたいと思えば、テレビやラジオの無い時代における最大のメディアだった絵画にあたる必要があるのは当然ですね。
 絵にこめられたメッセージを読みとってはじめて、私たちはその絵が描かれた当時の人々の考え方を理解することができます。つまり美術史とは、美術作品を介して「人間を知る」ことを最終的な目的としており、その作業はひいては「自分自身のことを知る」ことにいつかはつながるでしょう。だからこそ、美術史は哲学の側面を有しています。そのため、たとえば私は勤務している大学で哲学科に所属しています。もちろん、美術”史”というからには歴史学の一部でもあるため、大学によっては史学科に美術史教員が所属しているところも多いです。

こう言われてみれば至極当然のことなのですが、僕はいままで自分が見えていなかったもの、見なかったものの一端を垣間見ることができたような気がしました。
文字が読めない人が大部分を占め、テレビもラジオもインターネットもない時代、「絵」や「彫刻」というのは、声とならぶ、最高の「情報伝達ツール」だったんですよね。

どんな絵にも、それが描かれた「理由」や「背景」があるし、つきつめていけば、どの絵にも『ダヴィンチ・コード』みたいな「秘密」が隠されているかもしれない、ということなのです(それはちょっと極端かな)。
画家本人が伝えたいことではなく、スポンサーである教会や貴族が、画家に「描かせている」場合もあります(というか、昔の絵はそういう背景で描かれたものばかりです)。


この新書のなかでは、絵画を鑑賞するうえでの「お約束」(たとえば、「宗教画で鍵を持っている人物は、聖ペテロである」というような)が紹介されています。
それを知ることによって、「当時の人たちに、その絵は何をアピールしようとしていたのか?」に近づくことができるわけです。
逆に言えば、信仰も宗教的な予備知識も持たない現代の僕が、中世の宗教画をみても、それが描かれた時代の人と同じように見ることは不可能なのだ、という事実をつきつけられる面もあります。
「少年と頭蓋骨が描かれていて、それが人生のはかなさを示している」なんていうのは、いまの時代でも「共感」できるのですけど。


この新書を読んでいて、いままで僕がなんとなく「綺麗だなあ」「のどかだなあ」なんて眺めていた絵の「寓意」に驚かされました。
もちろん「宗教画」だけの話ではありません。
ミレーの『落穂拾い』という有名な絵があります(フランス・オルセー美術館所蔵)。
3人の農民たちが、農作業をしている「のどかな絵」だと僕は思っていたのですが、この絵について、著者は、こんなふうに解説しています。

 さらによく見てみると、画面右側の後方に、立派な馬に乗っている人がひとりだけいることがわかると思います。手前の農婦たちが腰をかがめて穂を拾っているのに比べて、なんだか一人だけ偉そうな感じがしませんか。
 そう、ここに描かれているのは、無情なまでの階級差にほかなりません。自分の家族だけを養うための小さな畑を各自が持っていた時代と異なり、ここでは広大な農地をひとりで所有する大地主がいて、農民を大勢雇い入れ、自分自身で、あるいは委託した管理人が指揮するような社会構造になっているのです。馬に乗って皆を監視している人は、ほぼ確実にそのような立場にあると考えられます。
 そもそも落穂拾いとは、刈り入れが済んだあと、地面に落ちている集め洩らした穂を拾うことであり、貧しい農民にのみ許されていました。この習慣は古くからあり、『旧約聖書』のなかにも出てきます。おそらくこの絵に描かれている三人の農婦は、この大農園の小作農か、あるいはここの所属ではない近隣の貧農家庭かもしれません。ちょっとやってみるとわかりますが、この姿勢で地面に落ちているものを拾い集めるのはかなり骨の折れる作業です。ミレーが描こうとしたのは、このような厳然とした階級差でもあったのです。

「それがいちばん言いたかったこと」なのかどうかは僕にはわかりません。
でも、この絵のなかに「馬に乗っている人」をあえて描いたということは、ミレーに何らかの「意図」があったというのは間違いないのでしょう。
2012年にこの絵を観る側とすれば、「のどかな絵だなあ」って思って観ているほうが、幸せなんじゃないかとも思うのですが……


最後に「現代美術が直面している問題」について、著者はこう述べています。

 ひとつは、誰もがネットなどに自由に投稿できる時代にあっては、芸術家の「プロ」と「アマ」の区別が失われていくという点です。プロフェッショナルである必要が、あるのか、そもそもプロの芸術家とは何者か。お金を稼ぐかどうかだけの差なのか――。なかなかやっかいな問題です。
 もうひとつは、識字率が低い時代において絵画が最大のメディアだったような、伝達手段としての必要性が失われつつあるという点です。美術は、当初与えられていた存在理由をほとんど失い、純粋に趣味的な表現の場、自己表現のツールとなっているのです。

もちろん、現代アートにも「社会風刺的な側面」はあります。
でも、「当初与えられていた存在理由」からは離れてしまって、「好きな人が描き、好きな人が観る」という時代なのは間違いないでしょう。
「自己表現ツール」となってしまった美術は、これから、どうなっていくのか?


190ページ(参考文献紹介含む)の手軽に読めるボリュームの本で、少し物足りない感もありますが、入門編としては、このくらいのほうが良いのでしょう。
「美術館に行くのは好きだけど、何を観ているのか、自分でもよくわからない」そんな僕やあなたにオススメの一冊。

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