科学嫌いが日本を滅ぼす―「ネイチャー」「サイエンス」に何を学ぶか (新潮選書)
- 作者: 竹内薫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/12/22
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
世界に君臨する二大科学誌「ネイチャー」「サイエンス」を舞台に、科学者たちは国家の興亡を賭けて、熾烈なる競争を繰り広げてきた。なぜ米国が「科学の覇権」を握ったのか?一流科学者が嵌った盗用・捏造・擬似科学の罠とは?福島原発事故を世界の科学者はどう見ているのか?知られざる“科学戦争”の最前線から、科学立国ニッポンの未来を読みとく。
ネットでの書評を見て購入。
『ネイチャー』と『サイエンス』というのは、「科学雑誌の二大巨頭」であり、この2つの雑誌に論文を載せるのは、少なくとも日本では、研究者たちの憧れです。
この2大雑誌は、自然科学系が主で、臨床医学系の論文の場合は、『ニュー・イングランド・ジャーナル』あたりが「頂点」なのですけど。
研究の世界では、雑誌の影響力は「インパクトファクター」という数字であらわされます。これは、「その雑誌に掲載された論文が、どのくらい他の論文などに引用されているか」などを指標とする数字なのですが、基本的には、この数字が大きい雑誌に載るほど、大きな業績になるのです。
『ネイチャー』『サイエンス』は、それぞれ30前後。
『ニュー・イングランド・ジャーナル』は、調べてみたら50点くらいあるみたいです。
(この「インパクトファクター=論文の価値」かどうかは異論も多く、自然科学系と医学系をこの点数だけで比較することに、あまり意味はないのかもしれませんが)
あえて比喩を使うのであれば、読者を楽しませる大衆文学路線のネイチャーと、文藝運動を広める純文学路線のサイエンスという感じだろうか。大衆文学がいいのか、非営利組織がいいのか、という議論も不毛だろう。最先端の科学論文を掲載してきた両誌が、世界の科学の発展に大きく貢献してきたことは、間違いないのだ。
この本では、「自然科学系雑誌の最高峰」である『ネイチャー』『サイエンス』という雑誌についての解説と、そこにどんな論文が掲載されてきたか、というのが紹介されています。
僕にとっては遠い世界の話なのだけれど、科学の世界も清廉潔白というわけではなく、むしろ理不尽な「ドラマ」がたくさんあるのだなあ、と感心しながら読みました。
とくに、「実験結果の捏造」とか、「DNAの二重らせん構造の発見をめぐるドロドロの人間関係」とか、「著者自身が科学者として『終わってしまった』経緯」についての話は、興味深いものでした。
本当に「狭量な世界」だよなあ、と思うのだけれども、そこで生きていくには、そのシステムのなかで、のし上がっていくしかないわけで。
韓国のソウル大学の黄(元)教授のES細胞をめぐる論文ねつ造問題について、著者は以下のような見解を示しています。
それにしても、なぜ、このような壮大なウソがまかりとおってしまったのか。そもそも、なぜ黄禹錫は論文を捏造しようと考えたのか。
黄禹錫の個人的な生い立ちや心の中の問題はさておき、現代科学全般が抱える問題がここにはある。
「パブリッシュ・オア・ペリッシュ」という言葉をご存じだろうか? 私はこの言葉をカナダの大学院で勉強していたときに何度も聞いたことがある。同様な言葉に「デモ・オア・ダイ」というのもある。前者は「論文が掲載されなければ滅びるしかない」という意味であり、後者は「(実験の)デモンストレーションに失敗したら死ぬしかない」という意味だ。ともに現代科学の研究者がおかれているプレッシャー状況をあらわしている。
具体的な数字を見てみよう。たとえば、日本の理科系の大学教授が年間に受け取る研究費は8000万円ほどだ。あくまでも全体で均した数字なので、実際には何十億円ももらっている人と、ほとんどもらっていない人に分かれるのだろうが、多額の税金が科学技術研究に交付されているのは事実だ。いったいどのような基準で研究費は分配されるのだろう?
実は「論文」の量と質が全てなのである。発表論文は多いほどよい。だが、名もない紀要よりも、世界的に権威のあるサイエンスやネイチャーに掲載されたほうが、高額の研究費を得る確率が高くなる。
科学界でのし上がり、億単位の研究費をもらうためには、世界が驚くような論文をサイエンスやネイチャーで発表するしかないのである。獣医学で成果を上げつつあった黄禹錫が、「次の高みに上るため」には、決定的な出世作が必要だったのだ。
そのために、彼はがむしゃらに研究したし、アカデミック・ハラスメントを犯してまでも部下に卵子を提供させたし、卵子の売買にも手を出したし、著名な教授(シャッテン)も引き込んだし、サイエンスとネイチャーへ論文も投稿した。
もちろん、データの「捏造」は、科学者として許されない行為です。
でも、実際のところ、人間の卵子をそう簡単に手に入れられるわけもなく、追試することも難しい。
それこそ、「研究者たちの良心と内部告発」に頼るしかない、という面もあるのです。
僕はつねづね、『ネイチャー』って、あれだけの有名雑誌なのに、けっこう思い切ったというか、「トンデモ」っぽい論文を載せているよなあ、と感じていたのですが、その点についても、著者は、『ネイチャー』の「商業雑誌としての矜持」と位置づけています。
「科学の面白さ」を一般の人々に伝えるのも、「使命」なのだと。
そして、「なんじゃこれは……と思うような、にわかに信じ難い「超能力」のような内容でも、その論文での実験や統計の経緯が正しければ『ネイチャー』が掲載することによって、さまざまな人が「追試」をして、事実かどうかを検証してくれる、という面もあるのです。
ネイチャーの疑似科学論文の取り上げ方の背景には「寛容の精神」があるように思う。そこには、最初から決めつけるのではなく、虚心坦懐に論文を読み、新たな可能性があるのなら、周囲の反対を押し切ってでも掲載に踏み切る、という強い意志を感じ取ることができる。
仮に、数十年後、「あの論文は疑似科学にすぎなかった」という烙印を押されるとしても、ネイチャーが論文を掲載したために、世界中の研究者たちが、その論文の結果の再現を試み、研究が進むことは確かだ。遠隔視の論文もホメオパシーの論文も、他の研究者たちによる追試がうまくいかなかったことから、最終的に「疑似科学」に落ち着いたのである。ネイチャーが最初から「これは疑似科学だ」と決めつけて、論文を掲載していなかったら、遠隔視もホメオパシーも、いまだに科学的な決着がついていなかった可能性がある。
もちろん、私は、あらゆる疑似科学の論文を掲載すべきだ、などと言っているわけではない。そうではなく、科学的な論争のあるテーマについて、積極的に論文として掲載することは、長期的には、科学の進展につながる、と言いたいのである。
ただし、このような英断は、老舗のネイチャーだからこと可能なのであり、科学の歴史が浅い日本で、同じようなことをしたら、混乱を助長するだけで、得るものはあまりないように思う。ネイチャーの信用と歴史あってこその「冒険」なのだ。
そう言われてみれば、「なるほど」と。
権威のある『ネイチャー』に載っていればこそ、追試する人もたくさん出てくるわけで。
追試をする人が出てくれば、その論文が正しいかどうか、研究がすすめられていきます。
逆に、マイナーな雑誌に載った論文だと、研究者たちは歯牙にもかけません。
それを「こんな論文が出ている」と自分の都合の良いように利用する人たちも出てきます。
ちなみに、著者によると、『サイエンス』は、そういう点においては、学術雑誌という色が強くて、「トンデモ系」は載らないそうです。
著者は、東日本大震災、そして福島原発の事故に対する『ネイチャー』『サイエンス』の論考をとりあげ、あまりに科学的ではない反応を示している人たちに、警鐘を鳴らしています。
「原子力発電」に対する知識も無いまま、ただひたすら「放射能怖い!」と言っているだけで良いのか?と。
まず、原発の燃料はあまりにも濃度が薄いため、宇宙の物理法則が変わらないかぎり、核爆発など起きない。そんなあたりまえのことが、意外と知られていなかった。
また、『チャイナ・シンドローム』という映画の題名にでも影響されたのか、原子炉内で燃料棒のメルトダウンが起きると、原発の底が抜けて、地球の裏側まで穴があく、という馬鹿げた話も耳にした。地球内部では、いまでも自然現象として核分裂は起きているというのに。原発事故で地球に穴があくことなどない。
さらには、スリーマイル島とチェルノブイリの事故のちがいも知られていないようだ。スリーマイル島ではメルトダウンが起きたが、格納容器は破壊されず、環境への影響はほとんどなかった。チェルノブイリは、まともな格納容器すらない、旧東側の原発であり、原子炉が爆発して(核爆発ではない!)、放射性物質が成層圏にまで吹き飛ばされた、未曾有の大事故だった。
(中略)
今回の福島第一原発の事故は、深刻であることはまちがいないが、スリーマイル島の事故を超え、チェルノブイリより被害が小さい事故、というのが世界中の科学者・研究者の見解だ。最悪の事態を迎えたとしても、格納容器が内部のm蒸気圧に耐えきれずに爆発し、高度500メートル付近まで放射性物質が飛散し、周囲に拡散するにとどまるという。4月12日に事故の深刻さが「レベル7」と認定され、「ほれみろ、チェルノブイリと同じではないか」という論調のマスコミもあらわれたが、政府が「チェルノブイリと同じではない」と主張しているのは、ある意味、正しい。
僕自身は、「スリーマイル以上、チェルノブイリ未満」というのは、「大事故」だと思いますし(そもそも、「どっちに近いか?」というのも重要です)、コスト的にも、事故が起こったときに「人類には手がつけられなくなるリスク」を考えても、原発はなくすべきだと考えているのですが、そう主張するにしても、そこで学ぶこと、考えることをやめてしまうのではなく、まだまだ勉強しなくてはいけませんね。
それにしても、科学の世界というのも、なかなか難しい。
要領が良い人、他人を押しのけてでものし上がりたい人が成功していく一方で、自分の好きなことを地道にやっていただけ、という人が、いきなり大スターになることもある。
「科学」は公平で普遍でも、「科学界」は、必ずしもそうではない。
結局、「象牙の塔」も俗世と変わらない、ということなんでしょうね。
所詮、人間がやっていることなんだから。