琥珀色の戯言

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評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」 ☆☆☆☆☆

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

内容紹介
消しゴム版画家・ナンシー関の死から10年。だが、その文章は一向に色あせることはない。いとうせいこうリリー・フランキーをはじめ、ナンシーの文章に影響を受けたという宮部みゆきなど、多くのインタビューで重層的に希代のコラムニストの真実に迫る。


内容(「BOOK」データベースより)
青森から上京してきた18歳の予備校生は、どのようにして、消しゴム版画家にして名コラムニストとなったのか。他の追随を許さない鋭い批評眼は、いかにして生まれたのか。なぜ、魅力的で非凡な文章を書き続けることができたのか。ナンシーを知る人たちへのインタビューとともに、彼女自身の文章に垣間見えるいくつもの物語を紐解きながら、稀代のコラムニストの生涯に迫る。


そうか、ナンシーさんが亡くなられてから、もう10年にもなるのか……
この本を読みながら、僕は、ナンシーさんの訃報を耳にしたときのことを思い出しました。
実感がわかなかったせいか、「惜しい人をなくした」という悲しみよりも、「あの体格だからな……やっぱり身体に負担かかってたんだろうな……僕も気を付けなくちゃ……」というようなことを、不謹慎にも考えていたような記憶があります。
39歳で亡くなられたナンシーさん、生きておられたら(というか、まだ生きているべき年齢、ではありますよね)、今も、バリバリに仕事をされていたはずです。


ナンシーさんの仕事といえば、テレビに関するコラムが真っ先に思い浮かびます。
ナンシーさんが亡くなられて、「いま」を切り取ることができなくなったら、ナンシーさんの作品は「過去の遺物」として、忘れられていくのだろうな、と予想していたのですけど、ナンシーさんがいるときの「存在」よりも、いなくなってからのほうが「ナンシー関の不在」を感じるのです。
コラムニストやテレビタレントって、誰かひとりが消えても、ニーズがあるジャンルならば、「同じような役割を果たす人」が、その席を埋めていくものです。
ところが、ナンシーさんの席は、確実にニーズがあるはずなのに、この10年、誰も埋めることができていません。


僕はナンシーさんの本が文庫になったら買う、というくらいの読者だったのですが、この本を読んで、「ナンシー関」という消しゴム版画家が、いかに多くの人、とくに文章を書く人たちやタレント、テレビ関係者に大きな影響を与えたのか、あらためて知りました。


この本では、ナンシーさんの青森での学生時代、消しゴム版画との出会いや、ビートたけしオールナイトニッポン、「ビックリハウス」への傾倒から、上京後、コラムニストとして売れっ子になっていくまでの軌跡が、妹さんを含む多数の関係者の証言によって明かされていきます。
僕はこれを読んでいて、ナンシーさんが通ってきた道のりは、けっこうありがちな「サブカル系女子」のものだったのだなあ、と思いました。
にもかかわらず、ナンシー関は、同時代のコラムニストのなかで、唯一無二のポジションを築いていきます。


この本のなかでは、ある意味「禁忌」のようにも思われる、「ナンシー関の容貌・体型の作品への影響」にも少し触れられています。
2000年10月に「クィア・ジャパン」というゲイの雑誌での、編集長の伏見憲明さんとマツコ・デラックスさんとの鼎談の一部です。

伏見:ナンシーさんの書いているものを読むと、僕らの言葉で言う『クィア』な感じがするんですね。それは何なんだろうと考えると、物事を判断する基準が自分にあるというか、メディアの中にいる人たちからの距離ではなくて、自分からの距離で書いてらっしゃるでしょう。


ナンシー:私は小さい頃からこんなんでしたから、自分のことを規格外だとずっと思ってたんですよ。だから、他の女の子たちのように、自分も聖子ちゃんカットをしてどうのこうのみたいなところには行かなかった。それは逡巡してやめるんじゃなくて、最初から異なる場所にずっと身を置いていたという感じですね。

そんな「『恋愛』市場における規格外、としての諦めと矜持」の一方で、テレビにも最初から出なかったわけではないし、「大嫌い」だったはずのカラオケが大好きになってしまったりもする。
ナンシーさんは、「頑固」だったのかもしれないけれど、そんな柔軟な面もありました。
大ファンだったムーンライダーズ鈴木慶一さんに会ったときには、ほとんど自分からは話しかけられなかった、という「照れ」のエピソードもあります。

 1993年の吉田照美との対談で、話題がそのころNHKの好感度調査において数年間連続でナンバーワンとなっていた山田邦子のことになり、山田を呼び捨てにするナンシーに「勇気ありますね。だって、いま人気者なんですからね」と吉田が言うと、ナンシーはこう言い切る。
「わたし、山田邦子に会ったことないから呼び捨てにしてしているんですけど(笑)」(『無差別級』)
 ナンシーにとって、面識があれば礼節を持って接するが、テレビの画面に映っているタレントや芸能人に対しては何の気兼ねも遠慮もなく評論の対象としたということだ。
 ナンシーは知り合いの芸能人や、知り合いが放送作家としてシナリオを書いている番組についてほとんど評論の対象としていない。
 たとえば、ナンシーは「週刊朝日」の連載を橋渡しした松尾貴史をコラムの俎上に載せることは一度もなかった。松尾自身、ナンシーから「松尾さんのことは書かないっすよ」と何度か言われたという。


このエピソードに僕は「ナンシーさんは、知り合いのことは悪く書けないという優しさがあったのかな」と感じました。
当時のナンシーさんの立場からすれば、芸能人たちと仲良く付き合っていくことだって、可能だったはず。
そのほうが「芸能界」では、うまくやっていけたのかもしれません。
でも、ナンシーさんは、その道を選ばなかったのです。
「仲良くなってしまったら、その人のことが(コラムニストとして)見えなくなる」と不安だったのかな。


また、この本では、亡くなられる前のナンシーさんの仕事っぷりも紹介されています。
週刊文春」の「テレビ消灯時間」の担当者の斎藤由香さんの話から。

 担当者が入港当日の午前11時30分〜正午までに、ネタを決めるために電話を入れることからはじまる。
「だいたい決まってなくって、ウ〜ンとうなっているので、一緒にうなってみたりする。良さそうなのがあれば『これご覧になりました?』などと振ってみる。あまりにも決まらないようだったら、30分後ぐらいにまた電話」
 次は午後5時30分。「原稿が一枚も来ていないようであれば、催促の電話をする。『どうですか』と言うと『書いています』とあっさり言われるので、『すみませんが、できたところから送ってください』と言う」
 最後は午後8時。「原稿がすべて届いたら、すぐさま電話しイラストの仕上がり時間を聞く(だいたい一時間くらい)。バイク便を予約する。イラストは、だいたい予約時間の30分後くらいに社に届くので、そのタイミングでゲラをファクス。ゲラを送ったら10分後くらいに、ナンシーさんに電話をし、直しがあるかどうか聞く」――となっている。
 これを読むと、ナンシーのコラムの執筆はいつも一発勝負であり、テーマも決まっていない状態から数時間で、あれだけ完成度の高いコラムを生み出してきたことがわかる。しかし同時に一発勝負の連続のような日々が、ナンシーの心身に多大なストレスをかけていたことは想像に難くない。

週刊朝日」「週刊文春」という2つの週刊誌への連載と、『噂の真相』などの月刊誌での仕事。
こんなギリギリの状態での締め切りが、週に最低2回もある生活を続けていれば、きつかっただろうなあ、と思います。
それでも、「余裕をもって書いておく」っていうスタイルにはできなかったのでしょうね。
もちろん、そういうスタイルへの転換を試みたことはあったのかもしれませんけど。


ナンシーさんの大ファンだという作家・宮部みゆきさんは、こんなふうに語っておられます。

 宮部はまた、ナンシーから自分を客観視することの大切さも学んだ、と言う。
民俗学者の大月(隆寛)さんが、ナンシーさんとの対談で、みんな心に一人のナンシーを持とう、とおっしゃってるでしょう。その言葉に私自身、とても賛成しているんです」
 大月は「CREA」の対談で、ナンシーに向かって「ナンシーは街角で宗教に勧誘されたりしないだろ」と確認した後で、「勧誘するってのは相手の内面のどこかを揺るがせることだけど、あんた絶対そういう動かされ方はしないもん。もう盤石の如き自意識。全盛期の柏戸もかくや、だな。(中略)正直言ってどうしてそこまで揺るがずにいられるのか、ずっと謎なんだよ。そうなれるまでに何をあきらめて何に腹くくってきたのか、って思う。だから最近は『心に一人のナンシーを』ってな」と言う。
 ナンシーが「なんですか、それ」と突っ込むと、大月がすかさずこう答える。
「いや、みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」(『地獄で仏』)
 宮部は大月に賛同する理由をこう語る。
「ナンシーさんって、ご自分を相対化しているというか、冷静に客観視している部分があって、文章や対談でも舞い上がることのない人でした。私もナンシーさんの本を読んでいたおかげで、自分を見失わずにすんだところがあります。


この10年、とくに、東日本大震災以降は、あの衝撃の大きさから、あまりにも「真剣」になりすぎて、「不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったり」しがちな人が増えてきたような印象があります。
僕自身も「信じる」と「疑う」の両極を行ったり来たり。


これを読んで、いま僕に必要なのは「心に一人のナンシー」だったのか、と気づかされました。
こういう時期だからこそ、自分に自分をツッコミを入れるような「遊び」と「客観視」が必要なんじゃないかな。


この労作の最後は、こう結ばれています。

 2012年6月12日で、ナンシー関が永眠してから10年がたつ。

 ああ、今日が「その日」だったのか。
 

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