琥珀色の戯言

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オリンピックと商業主義 ☆☆☆☆


オリンピックと商業主義 (集英社新書)

オリンピックと商業主義 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
オリンピックをテレビ観戦していると、他のスポーツイベントとは「風景」が違うことに気づく。それは「会場に広告看板がない」からだ。クーベルタンが理想を掲げて創始した近代オリンピックの「格式」は、そのような形で今も守られている。だが舞台裏では、莫大な放映権料やスポンサー料がIOCの懐を潤し、競技自体にまで影響を及ぼすという実態がある。一方で、その資金のおかげで税金の投入が回避され、途上国の選手が参加できるという現実もある。果たして、オリンピックが「商業主義」を実践するのは是なのか非なのか。本書は、五輪礼賛でも金権批判でもないスタンスで、この問題を深く掘り下げる。

 1908年に行われたロンドンオリンピックにかかった経費は1万5214ポンド。
 1948年に行われた二度目のロンドンオリンピックの経費は73万2268ポンド(1908年の約48倍)
 そして今年、2012年に開催される三度目のロンドンオリンピックの総経費は、93億ポンド(約1兆2000億円)と予測されているそうです。
 ちなみに、2012年のロンドンオリンピックで、スタジアムなどの建設物への経費を除いた純粋な運営経費だけでも、20億ポンド(2580億円)かかるとのことです。
 もちろん、物価が違うので、金額だけで比較はできないということで、著者はイギリスの卸売物価指数と、このオリンピックの経費の増大を比較しています。
 それによると、物価指数は、1908年を100とした場合、1948年は219、2007年は2059。

 この数字をもとに計算すると、2012年ロンドン大会にかかる運営経費20億ポンドは、1908年の大会にかかった経費の約6385倍ということになる。
 104年の間に、オリンピックは6385倍も金のかかる巨大イベントになってしまったということだ。
 だが、こうした運営経費の傍聴ぶりに比べ、オリンピックの規模自体は、そこまで大きくなっているわけではない。参加選手の人数は、1908年ロンドン大会が2008人で、2008年北京大会が1万942人だから、約5倍である。行われた競技の種目数を見ても、1908年の110種目に対し、2008年は302種目。これは3倍弱に過ぎない。一方で、運営経費だけが6385倍にもなっているのである。

 近代オリンピックの幕開けとなった、1896年のアテネ大会は、基本的に寄付金で開催されたそうです。
 その大会での最大の経費は、スタジアムの修復建設で、行われたのは、陸上競技、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニス、重量挙げの9競技。参加14カ国で、選手は241人。
 ちなみに、初期のオリンピックの参加経費はすべて自己負担で、日本から参加するのは大変なことだったようです。


 オリンピックの財源に企業からの収入が加わりはじめたのは、1912年のストックホルム大会から。
 最初は、映画化権や記念メダルの販売権、写真の販売権、大会プログラムに掲載される広告料などで、これら企業からの収入は、オリンピック開催の全財源の5%にも満たないものでした。

 
 ナチス政権下の1936年のベルリン大会から、オリンピックには、「国威発揚のためのイベント」としての意味が加わってきます。
 そして、第二次世界大戦後、テレビの普及により、オリンピックは「世界共通の人気コンテンツ」としての地位を確立します。
 テレビにより映像の配信が可能になったことが、「オリンピックの商業化」を加速させていったのです。


 オリンピックの商業化のターニング・ポイントとなったといわれているのが、1984年のロサンゼルスオリンピックです。
 このオリンピックは、大幅な黒字を計上したのですが、著者は、この黒字化の背景には、大会組織委員長ピーター・ユベロス氏を中心とする「徹底的なコストカット」があったことを指摘しています。
 「お金儲けに邁進して、収入が伸びた」わけではなくて、大きな支出となるスタジアムなどの建造費を極力おさえていったのが、「黒字化」の原因だったのです。


 このロサンゼルスオリンピックは、史上初の「完全民営化」されたオリンピックで、赤字は許されなかったのです。
 この「完全民営化」には、1976年のモントリオールオリンピックの大赤字と、1976年に開催される予定だったデンバー(アメリカ・コロラド州)オリンピックが、環境保護などの理由で住民投票によりキャンセルされたことが大きく影響しています。

 モントリオール大会は、公式報告書に示された概算によれば、9億9000万ドルの赤字だった。これは1976年の平均的なレート、1ドル293円で換算すると、約2900億円にあたる。カナダの消費者物価指数を見ると、76年から2011年の間に貨幣価値は約3.7倍になっているから、当時の2900億円は、2011年なら1兆730億円に相当することになる。
 この赤字のうち、2億ドル(586億円)はモントリオール市の負担になり、同市は不動産税の増税でこれを賄った。残り7億9000万ドル(2314億円)は、連邦政府による宝くじと、モントリオール市のあるケベック州のたばこ税増税によって賄われた。特にケベック州増税は30年にわたって続き、赤字を完済したのは2006年11月のことだった。禁煙文化の広がりでたばこの売り上げが落ちたため、返済が予定より長期にわたったのだという。

 これは、当時のモントリオール市長、ジャン・ドラボー氏が「見栄をはりすぎた」影響が大きいようなのですが、その他にも、ミュンヘンオリンピックでのテロ事件で、セキュリティ関係費用が高くなったこともあったそうです。
 それにしても、「借金」完済に30年もかかるとなれば、みんな開催に二の足を踏むのは、当然のことにように思われます。
 

この大赤字をみて、世界各都市は、オリンピックの招致に二の足を踏むようになりました。
1984年大会に立候補したのはロサンゼルス市のみで、それも「税金を投入しない、完全民営化オリンピック」という条件つきでした。
1988年の開催地に、名古屋とソウルの2都市しか立候補しなかったのも、この「オリンピック敬遠ムード」の影響があったのです。
(1988年の開催地決定は、ロサンゼルスオリンピック開催前でしたし)
ロサンゼルスオリンピックは、「金儲け」をしようとしたのではなく、「赤字が許されなかったため、できる限りの努力をして黒字化しようとしたオリンピック」だったんですね。


このロサンゼルスオリンピックの商業的な成功で、「お金になるイベントとしてのオリンピック」は、息を吹き返すことができました。
開催地争いも加熱しています。
テレビ放映権料も、どんどん高騰していったのです。


では、「オリンピックの商業化」によるデメリットは、どういったものなのか?
IOCの委員たちに対する接待や不正経理」なんていうのは問題外だとしても、「選手たちにへのデメリット」って、そんなに大きなものなのでしょうか?
著者は、実際に起こった、こんな例を挙げています。

 2004年アジア大会、2006年冬季トリノ大会は通常の競技スケジュールで行われた。欧州で米国のゴールデンタイムに合わせると競技時間は未明になってしまうため、これは議論の対象にならない。しかし、アジアで開催される場合は違う。2008年北京大会では、水泳の全種目と、体操の団体、個人総合の決勝が午前中に行われることになったのである。
 水泳は連日、午前10時から準決勝、決勝、午後6時30分から予選が行われるスケジュールになった。北京時間の午後10時は、夏時間の場合、米国東海岸で午後10時、西海岸で午後7時にあたる。
 しかし、通常のスケジュールはまったく逆である。過去のオリンピックも、世界選手権も、午前中に予選、午後に決勝が行われている。
 なぜ、通常は「午前予選、午後決勝」なのか。理由の一つは、午前中より午後の方が肉体的によりパフォーマンスを発揮できるからだが、水泳の場合、もう一つ重要な理由がある。多くの選手が複数の種目に出場するからだ。北京大会北島康介を例に取れば、100m、200mの平泳ぎ、400mメドレーリレーと三種目に出場している。選手によっては、午前中にある種目の予選を泳いだあと、午後に別の種目の決勝に出場することもある、午前中の予選で体を活性化して、午後の準決勝、決勝に向けて集中力を高めていく。これが水泳の大会の基本的なパターンである。
 これが逆だと、どうなるか。午前中の決勝で全力を尽くしたあと、消耗した状態で午後に別の種目の予選に臨むということがあり得る。長年懸けてきた種目の決勝に出てタッチの差でメダルを逃した場合など、精神的な切り替えがつかないまま、午後に別の種目の予選に出場する場合も出てくる。通常のスケジュールであれば、決勝のあとは一晩寝て、翌日午前の予選に向かっていくので気持ちを切り替えやすい。肉体的にも精神的にも、通常のスケジュールの方が、選手がよいパフォーマンスを発揮しやすいはずなのである。だからこそ、過去のオリンピックも世界選手権も「午前予選、午後決勝」で行われてきたのだ。
 体操も同じだった。北京大会の男子団体決勝は午前10時から。個人総合の決勝は午前11時からに設定された。女子団体決勝も午前10時15分、個人総合の決勝は午前11時15分の開始だった。通常の大会なら、決勝は午後に行われている。

 スポンサーとしてのアメリカの力が大きくなりすぎて、選手や、現地で生観戦している人たちの都合よりも、遠い国でテレビを見ている人たちの都合が重視されてしまうオリンピック……
 僕も「アジアの国」の人間ですし、こういうのは、なんだかなあ、とは思います。
 選手たちもコンディションの調整が難しいでしょうし、「選手のパフォーマンスが落ちても、テレビのゴールデンタイムに合わせる」というのが「正しいオリンピックのありかたなのか?」と疑問です。


 しかしながら、こんなふうに「スポーツがコマーシャリズムと結びつき、ゴールデンタイムに放送されること」で、選手への注目度が増し、スター選手には大金が転がり込むようになったのも事実なんですよね。
 オリンピックに参加する選手の「自己負担」がほとんどなくなったり、経済的に苦しい国の選手でも、援助を受けてオリンピックに参加できるようにもなりました。
 それはそれで、「競技レベルの低い国のナンバーワンがオリンピックに出られるのに、はるかに良い記録を持つ、競技レベルの高い国のナンバーツーが出られないのは正しいのか?」などという議論もあるのですけど。

 
 「オリンピックとコマーシャリズム」について、なるべく中立の視点で書こうとしている、なかなか興味深い新書でした。
 オリンピックがはじまってしまえば、そんな「背景」など、すっかり忘れてしまうのだとしても。



アディダスVSプーマ もうひとつの代理戦争 ((RHブックス・プラス))

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この本には、「企業側からみた、オリンピックの商業利用の歴史」が詳しく描かれています。これも面白いですよ。
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