琥珀色の戯言

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報道の脳死 ☆☆☆


報道の脳死 (新潮新書)

報道の脳死 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
なぜ「彼ら」はここまで無能で無力な存在になったのか。大震災と原発事故報道においても横並びの陳腐なネタを流し続けた新聞とテレビ。緊急時に明らかになったのは彼らの「脳死」状態だった。パクリ記事、問題意識の欠如、専門記者の不在…役立たずな報道の背景にあるのは、長年放置されてきた構造的で致命的な欠陥である。新聞記者、雑誌記者、フリーをすべて経験した著者だから下せる「報道の脳死」宣言。


 僕自身は「日本のジャーナリズムを批判した本」をけっこう読んでいて、最近はちょっと食傷気味なので、この新書の前半の「いまの日本のマスメディアの問題点」については、「いまさら100ページも使って、主要新聞の『似たような記事』の写真を並べてみせられても、みんなそんなのわかってるって!」という感じだったんですよね。

 こうした3・11報道で顕著になった、新聞テレビが陥っている粗悪な記事のパターンを私なりに分類してみた。

(1)パクリ記事
(2)セレモニー記事
(3)カレンダー記事
(4)えくぼ記事
(5)観光客記事

 著者が「どうだ、こんなに日本のマスメディアは腐ってる!」と熱く語ってみても、こういう新書を買って読む読者には、「もう聞き飽きたよ、そういう話ばっかりだから」ではないでしょうか。
 少なくとも、僕にとってはそうでした。


「反記者クラブ」の旗頭である上杉隆さんの最近の活動をみていると、「どっちもどっち」というか、「捏造コメントよりは、まだ『横並び』のほうがマシなんじゃない?」とか考えてしまいますし。
 それはそれで、あまりにも低レベルの争いではありますが……
「カレンダー記事」と著者は言っていますが、「あの事件から○月×日で何年……」みたいなのは、大きな事件と振り返り、風化させないためには、けっこう大事な気もしますし。
 そもそも、「ちゃんとした、各社のオリジナリティあふれる記事」を載せるには、日本の新聞はあまりにもページ数が多すぎるのかもしれません。
 隅々まで読もうとすると、数時間くらいはかかってしまいますから。
 逆に言えば、「ネットで大きなニュースを流し読みして、『新聞なんて要らない』と思うのが正しいのかどうか?」という面もあるんですけど。


 インターネットのおかげで、情報商品を流通させるのに重要だった「3C」(コンテンツ(ニュースの内容)、コンテナ(入れ物)、コンベア(流通))のうち、コンテナ、コンベアのマスメディアにおけるアドバンテージはかなり少なくなった、というのには頷けました。
 とはいえ、「フリージャーナリスト」が、そんなに信頼できるのか?という疑問もやはりあるのです。
 ネット上での「真実の検証」も、ほとんどは、大手メディアの記事への「反証」ですし。


 ただ、この新書の後半部、著者がアメリカのジャーナリストたちを直接取材してきた内容には、けっこう印象的なところもあったのです。
 カリフォルニア州政府記者協会の会長・ジョセフ記者へのインタビューに、こんな話がありました。

――フリー記者やブロガーを記者会見に参加させると、馬鹿な質問をするので困る、と反対する社員記者が日本にはいます。


ジョセフ記者「え!? 記者の仕事は質問をすることですよ。どんな質問はよくて、どんな質問はダメだ、なんて誰が決めるんですか? この世に『馬鹿な質問』なんてありえない」

 日本では「良い質問ですねえ!」という池上さんの言葉が流行しましたし、「まともな質問もできないヤツは、引っ込んでろ!」という雰囲気があるのですが、これが理想論、建前論なのだとしても、こう言い切れるアメリカのジャーナリストたちはすごいよなあ、と。
 「(自分たちにとって都合の)良い質問」ばかり求めてしまうところは僕にもあるので、これは、ひとりの大人として反省させられる言葉でした。
 アメリカにもFOXテレビなんていう保守派のかなり偏見に満ちあふれたメディアもあるので、アメリカのジャーナリズムは、みんな優れている、というわけでもないのでしょうけど。


 著者は、「今後のジャーナリズムのありかた」について、こう書いています。

「インターネットがあるから、もう新聞やテレビはいらない」という意見をインターネットでよく見かける。そのたびに「本当にそうだろうか」と自問してみる。媒体としての「新聞」や「テレビ」がインターネットに比べて構造的な弱点を持っている事実は、論じ尽くされている感がある。いわく、双方向性がない(=情報の流れが一方的だ)、リンクが貼れないので情報の広がりがない、などなど。その点だけ見れば確かに、インターネットのメディアとしての「比較優位」は動かないように見える。
 一方インターネット派から「既存マスコミ」と呼ばれる新聞社やテレビ局はこう言う。
「インターネットには報道はまず育っていない」「権力監視には報道が必要である」「よって新聞やテレビによる報道は依然必要である」。
 私には現実は、両者のどちらでもない、別のところにあるように思える。そして目指すべきところも、どちらにもないと思う。権力の不正監視をやってくれるなら、市民の自由を権力から守るための情報を運んでくれるなら、それは新聞であろうとテレビであろうとインターネットであろうと、何でも構わない。その機能を果たしてくれるなら、メディアは何でもいい。私はそう思う。権力がある限り、不正の監視が必要なのは、自明である。しかし、それが現在の「新聞社やテレビ局でなければならない理由」はない。

 本当にその通りなのだと思います。
 マスメディアが大きな権力を握ってしまったことによって、「マスメディアへの反感」も増幅してきました。
 大事なのは、「新聞かテレビかネットか」という「手段」の問題ではなくて、「いかにして、この情報の洪水のなかで、みんなが正しい情報を効率的に得ることができるか」なんですよね。
 それが可能なメディアであれば、僕も「手段は問わない」。


 「現在の日本のマスメディアについて、もどかしい気持ち」を抱いていて、これまで類書を読んだことがない人には、おすすめできる新書だと思います。
 
 

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