琥珀色の戯言

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効率の悪い「自分探し」について

名騎手・岡部幸雄さんの著書を読み返していて、すごく印象に残った部分がありました。

 (シンボリ)ルドルフとの出逢いが、どうしてそれほど私の人生に大きな影響を及ぼすことになったのか。ひと言でいうならえ、ルドルフによって「最高」というものを知ったからである。

 それ以前にもグリーングラス(昭和53年の天皇賞・春を勝利)などの名馬に乗ることはできていたが、そんな歴史的な名馬とくらべてもルドルフは次元が違った。

 デビュー前の調教ではじめてその背にまたがった瞬間から「世の中にはこんな馬もいるのか」というくらいの衝撃を受けたのである。

 現役時代の私はよく、二歳のサラブレッドを幼稚園児にたとえていた。二歳や三歳の馬は、子供から大人へと成長していく過程にあり、ちょっと気に入らないことがあれば、泣き喚いたり暴れたりすることも珍しくないものだ。そしてこの時期には、1か月、2か月といったスパンで、違った馬になったかのように成長していく。そのため、二歳になったばかりの馬と二歳六か月になった馬、三歳になった馬などを比較すれば、その能力はまるで違ってくるのが普通のことなのだ。

 だがルドルフは同じ頃に生まれた馬たちとくらべると、半年以上も年上のような大人びた雰囲気を持っていた。競走馬として見ても、バネが強く、筋肉の質が良かった。少し専門的な話をすれば、他のどの馬よりも皮膚が薄くて、その質も良かった。皮膚が良ければ、いい汗をかいて、すぐに乾くので、新陳代謝が良くなる。そのため、皮膚が良いというのは一流馬の条件のひとつなのである。

 これだけの馬に乗ることができれば、大きなレースを勝つチャンスに恵まれるのは当然である。だが、それだけではない。最高の馬に乗ることによって、「最高の馬とはどんなものなのか」「最高のレースとはどういうものなのか」を知ることができるのである。

 短いスパンにおいて、その馬とともに実績を積めることよりも、そちらのメリットのほうが大きいくらいかもしれない。


 最高を知ってこそ、最高を目指せるのだ。

 どういうレースが最高なのかを身をもって知っているのと知らないのとでは、レースにおける乗り方そのものがまるで違ってくる。

 もちろん、その後も常に、最高の馬や最高を目指せる馬とコンビを組めるわけではない。だが、一度、最高を知っておけば、最高とはいえない馬に乗ったときにも、その馬には何が欠けているのかがわかるようになる。

 そうなれば、レースにおいてはその馬の欠点を補うかたちで乗ることもできるし、馬の成長を考えたときにも、足りないものを埋めていく方法を考えやすくなるのである。

 僕が自分のこれまでの人生について思い返してみると、いわゆる「自分探し」をしているつもりで、「アレじゃない、やっぱりコレでもない……」と、いろんなことをかじっては投げ出しているんですよね。
 もちろん、「速さ」が唯一無二の価値である競走馬の世界と、さまざなま価値観がある人生では個人差があるのでしょうが、それでも、「ひとつの完成形」に触れるというのは、自分のゴールを設置するうえで、すごく大切なことなんですよね。

 僕は「自分探し」において、浜辺でひとつの砂粒を見つけるように、ちゃんとしたビジョンもなく、概念的な「理想像」を目指していたのです。

 「一度、最高を知ったおかげで、最高とはいえない馬に乗ったときにも、その馬には何が欠けているのかがわかるようになった」というのが、岡部さんの実感だったのでしょう。

 「最高」を知らなければ、答えがわからないまま、とりあえず思いついた「足し算」を延々と続けなければなりませんが、「最高」を知っていれば、その「完成形」からの引き算で、「足すべきもの」が容易に見えてくるのです。そうなれば、「とにかく自分探し」をするよりも、「いま、やるべきこと」は明確になるはずです。


 僕たちには騎手が乗ってくれるわけではないので、自分で自分なりの「完成系」を設定しなければなりません。
 「自分探し」というのは、いろんな逡巡や迷走があって、最後に自分が理想とするゴールにたどりつくものだ、と考えてしまいがちなのですが、もしかしたら、そういうやり方は、ものすごく非効率的なのかもしれません。
 本当は、無理矢理にでも「自分が目指す完成系」を決めてしまって、「そこに辿り着くには、いま、自分に何が足りないのか」を追求していくべきなのではないか、と。
 それが、理想に近い人の生き方をトレースするような形であっても。

 
 「目的地もわからないまま、とりあえず歩いてみる」よりも、「目的地をまず決めてから、そこに向かって歩く」ほうが、はるかに目的地に辿り着きやすいはず。

 
 この「引き算の発想」って、意外とできないものなんですよね、僕自身もなんとなく「ゴールを決めてしまうのが、自分の限界を認めてしまうような気がしていた」ので。
 でも、「目的ごと自分探しをする」よりも、「無理矢理にでも、自分の完成系を決めて、足りないものを埋めていく」というのは、けっこううまいやり方なのではないか、と思うんですよね。
 あまりに「足りないもの」ばかりで、うんざりしてしまうとしても。


 

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