琥珀色の戯言

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魚は痛みを感じるか? ☆☆☆☆


魚は痛みを感じるか?

魚は痛みを感じるか?

内容紹介
なぜこれまで問われてこなかったのか?!


痛みとは何か?
魚がそれを感じるとはどういうことか?
そしてわれわれは、魚とどのようにつきあえばよいのか?


魚類学者である著者は、痛みの認知構造などを明らかにしたうえで、魚の「意識」というやっかいな領域にも足を踏み入れ、数々の調査と自らの実験結果などから「魚は痛みを感じている」と結論します。
本書の後半では、その結論を受けて、動物福祉の観点から、釣りや漁業、鑑賞魚などにおける人間の魚への対し方が考察されます。


本書は、決して「魚を保護しなければならない」、「魚を食べてはいけない」、「スポーツフィッシングなどやめるべきだ」と声高に主張する本ではありません。
科学的根拠に基づいたニュートラルな視点から、すっきりと論理立て、わかりやすく解説する著者の主張は、「魚の福祉」という難題を読者に提示します。


「魚は痛みを感じるか?」
うーん、そんなこと考えたこともなかった……
と言いたいところですが、僕は子どもの頃、「お魚さんがかわいそう」で、魚を食べるのが苦手だったんですよね。
イカの活き造りなんて食べる大人はなんて残酷なんだと思っていましたし、「おお、まだ動いてる!新鮮だなあ!」なんて、身を切られたイカをつついてはしゃいでいる光景なんて、見ていられませんでした。
まあ、同じイカが天ぷらになって出てくると、「おいしいおいしい」って食べていたんですけどね。

 奇妙にも、最近になるまで魚が痛みを感じるかどうかについて問われることはなかった。すでに答えは明白だと思っているからだろうか? 魚は苦しみを感じるという結論が得られた場合に生じる影響について考えたくないからなのか? それとも、答えるにはあまりにも難しい問いだからか?
 確かに難問である。この問いは科学に対する挑戦であると同時に哲学への挑戦でもあり、それに答えるには一つのメカニズムとして痛みをとらえなければならない。つまり痛みとは何か、痛みはどのように作用するか、などについて考察する必要がある。
 私たちは痛みを感じるとき、痛いと思う。つまり苦しむ。好ましくない感情を経験するこのような能力を、ヒト以外の動物ももっているのだろうか?
 感情と情動は人類に特有のものだとし、動物が苦しむ能力をもつという考えを否定する研究者もいる。しかし近年私たちは、ペットや家畜に対して福祉を受ける権利を与えている。
 それに対し、魚が痛みを感じるかどうかについて問うことは、既存の考え方への挑戦であり、パンドラの箱を開けるにも等しい。この問いを発するやいなや、広大な未知の領域が出現するのだ。


・倫理的な観点からみた場合、どの動物を保護すべきだろうか?
・魚には意識があるのか?
・どこに線を引くべきなのか?
・魚は鳥類や哺乳類と同列に扱われるべきか?
・それともロブスターやイカやミミズと一緒に分類されるべきなのか?


率直なところ、食べたり釣ったりする側からすれば、「そんなことを想像するのは、メリットに比べてデメリットのほうがはるかに大きい」のではないかとも思います。


ただ、「魚は痛みを感じるのか」というのは、興味深いテーマではあるんですよね。
それが事実であるかに興味があるのと同時に、「それを、どうやって証明するのか?」
魚に「これ、痛いですか?」とインタビューするわけにはいかないし、ある種の刺激を避けたとしても、それが「痛み」によるものなのかどうか?
そもそも、「痛み」とは何なのか?
対象が「人間とは遠い存在」である魚なだけに、この問題へのアプローチの方法が、すごく難しいのです。


そして、この実験の性格上、実験に用いられる魚の取り扱いも、いいかげんにはできません。

 倫理的な問題についても、許可を申請するのに必要な作業の一つとして率直に議論した。そして実験全体を通じて、用いる魚の数を最小限にとどめ、与える痛みの刺激については、軽いものから適度のもので済ませられるように努力した。
 また、研究を基本的に三つの問いに集約する慎重なやり方をとった。すなわち、一つの問いに対して肯定的な解答が得られたときにのみ次の問いへと進めるよう、それら三つの問いを構成したのである。
 私たちは、痛みの検出に必要な受容体や神経繊維と、魚が備えているかどうか問うことから研究をはじめ、その次に痛みを引き起こす可能性のある刺激の適用によって、神経系に活動が引き起こされるかどうかを調査するという手順をとった。以上の二つの問いに対して肯定的な検証結果が得られた場合にのみ、痛みを引き起こす可能性のある刺激を与えると、魚の行動と決定にどのような影響が及ぶのかと調査する最後のテストを行うことにした。

この「三つの問い」を検証するために、著者たちがどのような実験を設定したのか興味がある方は、ぜひ、この本を読んで、そのプロセスを確認していただきたいと思います。
「科学」というのは、こんなふうに難問にアプローチしていくのか、と感動してしまいます。
それと同時に、「じゃあ、この『痛みらしきもの』が、人間が感じているものと同じなのか?」というのを証明するのは、やっぱり難しそうなんですけどね。
人間どうしでも、「他人の痛みはわからない」って言うくらいですし……


ちなみに、「魚」とひとまとめにされがちなのですが、この本によると、魚のなかにも、さまざまな「性格の違い」があるようです。
クイーンズ大学で、ビーター・ラミングさんたちが行った、こんな実験が紹介されています。

 マスは社会的に孤立することを嫌うので、個別の水槽に入れられると、たとえガラスの仕切りで隔てられていても、仲間のマスに強く引かれる様子をみせる。前回同様実験が繰り返されたが、今回は水槽の一方の端に設置された窓の背後に仲間のマスが配置された。そしてテスト対象のマスは、この仲間のマスに近づくためには、電撃を受ける領域に進入しなければならなかった。
 最初の実験では、魚はこの区画を回避しようとする強い態度を示していたが、仲間のマスが配置されると、電撃を受ける区画に侵入し留まったのである。同じ実験をキンギョに対して行うと、キンギョは電撃を受けるよりは仲間から遠ざかっているほうを選択した。
 これらの実験から、いくつかのことがわかる。
 第一に、他の個体の近くにいようとする動機づけの強さに関しては、種のあいだに相違がある。明らかにその点に関しては、キンギョよりもマスにとって、より大きな意味があるようだった。
 またマスは状況によって行動を変えることがわかった。マスは、一匹のみでいるときには電撃を受ける区画を回避する傾向を強く示したが、その区画を回避するか、それともそこに進入して仲間のマスの近くにまで泳いで行くかという選択肢が与えられると、電撃に耐えるほうを選んだ。つまり、マスは何を選択するかを状況によって変えるようだ。
 この観察結果を客観的な情動(行動的、生理的な状態)か、それとも主観的な情動(意識的な感情)かという見方によってとらえると、主観的な情動による説明のほうに、より適切にあてはまるように思われる。すなわちマスは、仲間がいるかいないかという状況の相違によって、「ネガティブ」なものとしてとらえられていた区画を再評価し、どこにいるべきかについての主観的な選択を行う能力をもっているのである。

ほんと、「魚もそれぞれ」なんですね。
そう考えると、「魚は痛みを感じるのか?」と、「魚」でひとくくりにしてしまうことにも、問題があるのかもしれません。
とはいえ、著者たちの研究は、まさに「パンドラの箱」をあけてしまったようなものではあります。
「魚が痛みを感じる」ということになってしまうと、精神的な負担や金銭的なコストがかかるようになるだけで、「誰が得するの?」って話になってしまいがちです。
もっとも、著者は、この結果に対して、現時点では、「魚を『安楽死』させなければならない」とか、「スポーツフィッシングは止めるべき」だと言うつもりはない、と書かれています。
そもそも、「魚が本当は何を望んでいるか」も、まだわかっていないのだから、と。
そして、魚のストレスを減らすことは、人間にとって「めんどうなこと」だけではなく、養殖の技術の発展においても重要なのです。


著者は、「釣り」に対して、次のような見解を示しています。

 また、レジャーとしての釣りのなかで、キャッチアンドリリースを実践することの倫理的な正しさを裏づける証拠があるのか? もしないのなら、レジャーを目的として釣りを行うべきではないのか? レジャーとしての釣りを禁止した場合、何が起きるのだろうか?
 釣りを禁止したところで、おそらく魚の福祉が改善させるわけではないだろう。現在実施されている、清潔で望ましい水路を維持するための努力や水質保存プロジェクトの多くは、釣り人たちによってサポートされている。レジャーとしての釣りが奨励されないというのであれば、釣り人たちの善意の恩恵を受けている河川、湖沼、そしてさまざまな野生動物の保護について懸念が生じるであろう。

 また実際のところ、釣りにはよい面がたくさんある。自然や野生動物に対する関心を喚起し、自然環境について配慮するよう、そして自然を汚染から守るよう人々を動機づける。若者を戸外へを誘い、いまやあらゆるところに浸透したゲーム機を一時的にではあれ手放すようにも仕向けられる。
 人々や社会に与えるこのような恩恵は、魚が経験しているであろう苦痛よりも重視されるべきか? それについては、魚が痛みを感じるということを受け入れても、そう簡単には評価は下せない、というのが私の見解である。

こういうのを読むと、欧米の人は、基本的に「人間が自然をある程度コントロールしていくのだ」という理念を持っているのだな、と感じます。
もちろん、それが正しいとか間違っているとか一概に言えるものではありません。
それでも、「とにかく自然に、生き物に接してみる」というのは、とくに子どもたちのとっては「良い経験」にはなるはずです。
人間には、「何かを傷つける経験」というのが、必要な面もありますしね。
釣った魚が弱って死んでいくのを見て、あるいはその魚を食べることによって、「命」というものを考える機会を得られるのも事実です。


「魚は痛みを感じるのか?」
痛みを感じるような「生き物」であってもらいたいのと、痛みを感じずに、釣られたり食べられたりしてもらいたいのと。
その問題を考え始めるとキリがないのですが、「そういう問題について、科学はどうアプローチするのか?」がわかる、非常に興味深い本でした。
「科学」に興味がある若い人たちに、ぜひ読んでみていただきたい一冊です。

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