琥珀色の戯言

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「いじめられる理由」を語ることの虚しさについて


高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)


この『高校生からのゲーム理論』という本に、「いじめ」についてのこんな記述がありました。

 社会がゲームだとすれば、子どもたちは子ども社会というゲームを自分たちの狭い経験の中から作りあげている。そのゲームに入れてもらえないことほど辛いものはない。仲間外れは転校するたびにぼくが恐れたことだった。


 大勢の中での孤独はたった一人で宙をさまよっているより性質が悪い。しかも、仲間外れの子をかばおうとすれば、今度はかばった子が仲間外れになる。仲間外れの子がいる状態というのは、そういうふうにして維持されているのだ。


 A、B、C、Dという4人の子どもがいたとする。ここで、A、B、Cというグループができて、Dが仲間外れになったとしよう。この状態は均衡として意外に安定だったりする。たとえば、仲間外れがいる状況は望ましくないと思ったCがDと遊んだとする。そうすると、今度はCが仲間外れとなってしまう可能性がある。最悪、DもCから離れて、A、B、Dというグループに代わってしまうかもしれない。その可能性が否定できないのであれば、CはAやBと仲違いとしてまで、Dをかばおうとはしないだろう。子どもは残酷なまでに合理的なのである。


 それにしても、なぜ、Dは仲間外れになったのであろうか。それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである。では、なぜDを仲間外れにしたのであろうか。決定的な理由はない。しいて言えば「他の子どもが仲間外れにする」からである。そして、「仲間外れ」という状況を説明するために、理由が探し出される。仲間外れになれば、無口になるのは当たり前なのに、「無口だから」とか、「ださいから」とかいったものが、後から理由として述べられたりする。状況を説明するために作り出された話がいつの間にか「本当の話」になる。人間関係においては、しばしば「真実」はみんなの意見で作られてしまうのである。


(中略)


 いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。


いじめは、誰のためにもならない。
もちろん、「いじめる側」のとっても。
そして、「いじめられる対象」って、実は誰でもいいのです。
この本に書かれているように、「状況を説明するために作り出された話が、いつの間にか『本当の話』になっている」だけで。
考えてみれば、子供時代は、学校や友達が世界のほとんどすべてなのだから、そのなかで「仲間はずれ」になっていれば、「無口になったり、おどおどしたりするのは当然」なんですよね。
いじめる連中は、自分たちが殴りかかってきながら、「お前も殴り返してきたら、俺たちと同じだからな」と言う。
いじめられる側は、まともな人間であればあるほど、「同じにはなりたくない、でも、このままではどうしようもない」というジレンマに苦しむのです。


でもさ、いじめる、いじめられるって関係は、いつだってひっくり返される可能性がある。
誰だって、次のいじめのターゲットになる危険がある。
もともと「誰かがいじめられる理由」なんて、いいかげんなものなのだから。
そして、だからこそ、「今いじめている側」は、「自分は常にいじめる側にいたい。さもなければ、自分がやられるかもしれない」と考えてしまうのです。


あの事件はたしかに残酷極まりないものだけれども、あのいじめの加害者たちが、この2012年に生きている人間のなかで、突出して酷い連中かと問われると、僕はそう言い切る自信が無いのです。
アウシュヴィッツホロコーストという歴史的残虐行為を行った人びとが、突然変異であの時代にだけ生まれた「異種」ではないのと同じように。
たくさんの非戦闘員が犠牲になった原爆については、「戦争犯罪」だと、日本人ですら大きな声では言いがたいものになっています。
日本は、戦争に負けたから。


「いじめは損だ」と言われて、頭では理解していても、「いじめをやめる」のは難しい。
やめられないうちに、どんどんエスカレートしていって、「もしこれを自分がやられる立場になったら……」と怖くなってくる。
そうなると、もう、「今のターゲットが変わらないように、いじめ続けるしかない」。


率直なところ、「いじめたヤツは死刑」という法律ができて、「いじめをやると不利益になる」ことが明確になれば、いじめは減るんじゃないかとは思います。
そうなると、「何がいじめか」みたいな解釈がまた難しくはなるんだろうけど。
「社会」ってヤツは、「いじめは悪い」と本気で思っているのだろうか?
「いじめている側」に社会をつくっている人間が多いから、「人がたくさん集まれば、いじめが起こるのもしょうがないだろ」って内心考えているのではないだろうか。


僕は正直、いじめをなくすのは、戦争をなくすのと同じくらい難しいんじゃないかという気がしているのです。
だって、みんな大好きだもの、いじめ。
「バラエティ番組」では、「真似しちゃいけませんよ」とアナウンスしながら、「芸人が後輩をいじめている光景」を日常的に流しているし、「昔悪かった自慢」をする人は大勢います。
僕だって、「お笑いウルトラクイズ」とか好きでよく観ていたんですよね。
だって、面白かったんだよ。
あれは、「いじめ」じゃなくて「芸」なのだ、と言い切っていいのかどうか?
当事者はお互いに了解のうえでやっていたのだけれども、だからといって、「いじめ的なもの」を「お笑いだから」と許してしまってよかったのかどうか。
「社会のガス抜き」だと認めるべきなのか。
「いじめに負けずに、何かを成し遂げた人」の「美談」が、いま、いじめられている人にとって、プレッシャーになっているのではないか。


みんな、自分がいじめられないかぎり、「いじめは悪いもの」って、本気で思えないような気がしているのです。
なかには、「加害者を全力で叩く」という「いじめ返し」みたいなのをネットではじめる人もいる。
「悪いヤツには、どんなことをしても良い」というのは、まさに「いじめの発想」です。


僕たちは、このゲームのプレイヤーである一方で、ゲーム全体からみれば、ひとつの駒でしかない。
「ひとりひとりが、誰かをいじめないようにする」
これができれば、いじめは終わるのです。
こんな簡単なことのはずなのに、ずっとずっと、それを実現することができないのはなぜなのか。


みんな、誰かをいじめたいんだ。
僕も、誰かをいじめたいんだ。
そして、正義の味方になって、スッキリしたいんだ。
それを認めることから、すべてははじまるのではないかと思うのです。


最後に、いま、いじめられている人たちへ。
あなたがいじめられているのは、あなたのせいではありません。
負けたくないかもしれないけれど、もし、本当に負けたくないのなら、なんとか生き延びて、「いじめない大人」になってください。
「いじめは悪い」って偉そうに言っている大人たちも、実際は、いじめたりいじめられたりしているんだ。
その負の連鎖を断ち切ってください。
もし、いま、どうしていいかわからないときは、そういうときこそ、いま、あなたの目の前にある、その機械、パソコンに、いま自分の身に起こっていることを書いて、発信してもらいたい。匿名でいいから。
有名な人たちにツイッターで「広めてください!」って言えば、誰かが拾い上げてくれる可能性が高いです。
インターネットは、いろいろめんどうなことも起こすけれど、地域社会のしがらみみたいなものを吹き飛ばす力もあるんだ。
いじめをなくすことは、いじめている側を「解放」することでもあるんだ。
僕はそう信じています。

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