琥珀色の戯言

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恐山 ☆☆☆


恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

内容紹介
人は死んだらどこへゆく――。「恐山の禅僧」が語る、霊場のすべて。 死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えぬまま旅立った友、かけがえのない父や母――。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる人々、息子の死の理由を問い続ける父……。死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所、それが恐山なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。


「恐山」で起こった「奇跡」の数々、そして、「イタコ」のこと。
そういうスピリチュアル系の話満載か、あるいは、「恐山の歴史」を概説した郷土史のような本か。
そんな予想をしながら読み始めました。


冒頭の「イタコ」についての話で、僕はちょっと驚いてしまいました。

 一般に、恐山を思い起こしたときに、そのイメージから絶対に外せないのがイタコでありましょう。これはもう切り離せないものです。恐山といえばイタコ、イタコといえば恐山。みなさんもそう思っていることかと推察いたします。
 はたして、イタコとは何者なのか。
 もとは青森を中心とする北東北地方で霊媒をする女性のことを指すようです。まあ、霊媒師というか巫女さんのことです。「口寄せ」と呼ばれる降霊術を行い、死者の魂を呼ぶといわれています。しかしこれは起源がはっきりしていません。目の不自由な女性の生業として始まったのだろうと言われていますが、はっきりとした起源はない。古くからこの地域の民間信仰にもとづいたものだとは思うのですが、それについては一般に大きな誤解があります。
 それは「恐山のイタコ」というものは、元来存在しない、ということです。
 つまり、恐山がイタコを管理しているわけでも、イタコが恐山に所属しているわけでもないのです。両者の間に一切の契約関係はございません。そのことをまず申し上げなくてはいけない。


(中略)


 イタコさんというのは、個人業者です。本来は、自宅に人を招いて行うものです。それが、北東北地方の神社仏閣で大きな祭礼や法要があると、そこには人が多く集まるので、「出張営業」に来ているのです。例えはよくないかもしれませんが、縁日の出店みたいなもの、と考えていただいた方が妥当です。


「イタコ」=「恐山」というイメージを持っていた僕にとっては、意外な話でした。
でも、考えてみれば、両者が契約していて、「お墨付き」で口寄せをやっているというほうが、かえってヘンな話なのかもしれません。
ちなみに、著者は、「イタコ」が行っている「口寄せ」に関しては、やや懐疑的な気持ちを持ちつつも、この新書のなかでは、「イタコに自分の家族のことを言い当てられたカナダ人の話」なども紹介していて、「信じるも信じないもあなた次第です」というスタンスをとっておられます。


著者にとっては、「イタコは本当に死者の言葉を伝えているのか」よりも、「生きている人たちが、イタコを必要とするのはなぜか」のほうが、ずっと大事なことなのだな、と感じるのですけど。


この新書、読んでみると、禅僧である著者が「死者がいる場所」である恐山で、「生きることと死ぬこと」「生者と死者」について考えた内容が書かれている本、なんですよね。
僕は宗教関連の本を読むと、つい、「そう簡単には納得しないぞ」と身構えてしまうのですが(高価なツボとか買わされたら困るし)、著者の理系的というか、「とことんまで考える姿勢」には頭が下がりました。
ああ、この人は、ものすごく頭が良くて、誠実な人なんだなあ、って。


著者は、出家してから20年もの間、曹洞宗大本山永平寺で修行をされています。
永平寺は修行の厳しさで有名なのですが、多くの修行僧は寺の後継者で、彼らは数年間修行して、自分の寺に戻っていくそうです。
数年間の修行でさえ、僕にとってはものすごいことのように思われるのですが、著者は、「できれば、一生永平寺で修行していたかった」と語っておられます。
現実には、「永平寺内でのポストの問題」などもあって(長くいる人間にはそれなりのポストを与える必要があるのですが、ポストは限られている……というのは、宗教の世界でも同じなんですね……)、「出て行かざるをえないような、無言のプレッシャー」をかけられていたそうですが。

 実際私も、後輩たちからは恐れられていたようです。
 それもそのはず。早く修行を終えて下山したいと思っている人間が大半のところに、「永平寺で死にたい」と5年、10年居続けている。しかも修行について要求が厳格で、それができない後輩たちには峻烈を極める指導をしましたから。4年が経った頃には、永平寺の「過激派」「原理主義者」と呼ばれるようにまでなっていました。
 坐禅に励み、道元禅師のテキストを読み込む。任務に妥協しない。そうこうしているうちに、とうとう、「永平寺のダースベイダー」という、ありがたくないあだ名までつけられてしまったのです。
 ただ、私は周りからどう思われようと、そんなことはどうでもよかったのです。
 自分の抱えた問題を解決するすべがあるのかどうか――、そのことだけを思って出家し永平寺に入ったわけですから、それを試し切るまではここを出られないと思っていました。
 とにかく私は、自分の抱えている問題を明確に言語化したかったのです。
 すべてを言語化することができないのはわかっていましたが、でき得る限り言葉にしてみたい。言語化して、同じような問題を抱えている人に投げ掛けてみたい。あるいは、そのような言葉に出会ってみたいと、常日頃から思っていました。
 それが私の修行における最大のテーマです。


僕はどちらかというと、著者と「ダースベイダー」よばわりしていた「腰掛けの修行僧」たちに共感してしまうんですよね。
僕もそんなに一生懸命に修行できないだろうと思うから。
でも、著者が、自分の抱えている問題に懸命に立ち向かう、他人にも、そしてもちろん自分自身にも厳しい人だということは伝わってきます。

 
しかしながら、「宗教というのは、ここまで『自分で考えること』を要求すべきなのだろうか?」とも考えてしまうのです。
もちろん、著者は「僧侶」という、「突き詰めるべき立場」なのですが、その「理論」を共有するよりは、「ありがたいものだから、信じていれば救われる」というスタンスのほうが、人は「救われやすい」ような気もするのです。
それは本当の「救い」ではないのかもしれないけれど……


著者は「不粋な人」ではないですし、「人間の弱さへの共感」も感じられるのですけどね。
「理性的に突き詰める方法」で、自分の悩みも含めて解決しようとしているのはすごいな、とも思うのです。
「修行者」に対しては厳しいけれど、一般の人たちには、すごく温かく接しておられますし。

 生きている人間は誰しもが、誰かの遺族です。
 親でも兄弟でも友人でも、誰もが自分にとって大切な人を亡くした経験があるはずです。しかしその人たちがみんな死者への想いを引きずり、日常生活もままならない、ということでは当然ありません。
 それぞれが折り合いをつけながら、それぞれ生活をしています。誰もが恐山へやって来て、亡くなった人の名を叫び、供物をささげるわけではありません。
 だからといって、そのような人たちが死者を大事に想っていないかといったら、そういうことではないでしょう。身近な人の死を引きずり何事も手につかなくなってしまう人、引きずりながらも表面上は平気な人、全く引きずらない人、さまざまです。
 それは人に依るのです。死者へとつながる鍵を開けずに済むのであったら、それでいい。無理に鍵を開ける必要はありません。そのまま突っ走ればいい。そのことが死者を大切に想っていない、ということでは決してありません。
 ただ、それがいつまでも続くとは限りません。
 何となく死んだ人のことを想って恐山に来て、そこで初めて死者へつながる鍵を開けてしまい、その人が崩れ落ちる瞬間を、実際に私はここで何度も見てきました。近親者に限らず、自分にとって大切な人の死というのは、想像以上の衝撃を秘めているのです。


著者は、少し長い「あとがき」で、東日本大震災のあと、恐山でみた人々の姿を書いておられます。
それは、さまざまな「体験談」を読んできた僕にとっても、とても印象的な話でした。
「恐山」なんて、自分の人生とは、縁のないところだと思っていたけれど、それは、僕にとってはすごく幸運なことではあるのでしょう。
でも、この先もずっとそうであるとは限らない。


最後に、この新書のなかで、いちばん心に響いた言葉を御紹介します。

 25年以上もお坊さんをしていると、生まれてすぐ、あるいは2、3歳で亡くなってしまった子どもの葬儀をつとめることもあります。そのときに我々お坊さんも参列者も、ひょっとしたら親族も、「せっかくこの世に生をうけたのに……。これからいろいろと楽しいこともあっただろうに、何もできないまま……」と、ちらっとは考えます。
 しかしこれは間違いだと私は思う。
 子どもというのは、たとえ生まれた直後に死んだとしても、大きな仕事をひとつだけして死んでいくのです。その仕事というのは、一組の男女をお父さんとお母さんにすること。あるいは二組の男女を、おじいさんとおばあさんにすることです。
 たとえ死んでしまっても、残された家族がその存在を忘れるはずがありません。自分を父親に、そして母親にしてくれたことをありがたく思っているのであれば、あるいは、おじいさんやおばあさんにしてくれたことを嬉しく思っているのであれば、その存在を消せるはずがない。

もちろん、僕が自分の子どもを幼くして失ってしまったら(そんなことは想像したくもないのですが)、何を言われても慰められることはないかもしれません。
ただ、この言葉には、生きている人、そして、亡くなってしまった人への優しさがこもっていると思うのです。
興味を持たれた方は、「宗教の本」だからと敬遠せずに、一度読んでみてください。

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