- 作者: マークトウェイン,Mark Twain,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/06/27
- メディア: 文庫
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内容(「BOOK」データベースより)
ポリー伯母さんに塀塗りを言いつけられたわんぱく小僧のトム・ソーヤー。転んでもタダでは起きぬ彼のこと、いかにも意味ありげに塀を塗ってみせれば皆がぼくにもやらせてとやってきて、林檎も凧もせしめてしまう。ある夜親友のハックと墓場に忍び込んだら…殺人事件を目撃!さて彼らは―。時に社会に皮肉な視線を投げかけつつ、少年時代をいきいきと描く名作を名翻訳家が新訳。
書店で、翻訳家・柴田元幸さんによる新訳(ちょっと前に『モンキービジネス』に全文掲載されたもののようです)が出ているのを見かけて購入。
『トム・ソーヤー』の冒険(というか、僕自身は『トム・ソーヤ』と伸ばさないほうが、なんだかしっくりきます)って、小学生くらいのときに「抄訳版」を読んだことがあるのと、テレビアニメで観た記憶があるくらいなんですよね(♪お前なら 行けるさトム 誰よ〜りも〜と〜おくへ〜)。
子どもの頃は「子ども向けの本」になんて興味がわかなかったし、大人になってみると、それはそれで「子ども向けだと言われる本」って、あんまり読みませんから。
というわけで、たまに思いついて行っている自分企画「あらためて歴史的名作を読み返してみよう」の一冊として、読んでみました。
正直、40男が読んで「時間を忘れるほど面白い」って本じゃないです。
むしろ、「ああ、『トム・ソーヤーの冒険』って、こんなことが書いてあったのだなあ」と以前読んだ抄訳やアニメの記憶を掘り起こす作業、といった感じで。
そういえば、インドア系少年だった僕は、トム・ソーヤーのことを「気持ちはわかるけど、自分にはこんな思い切った行動はできないなあ」なんて半分眩しく、もう半分は妬ましく思っていた記憶があります。
しかし、今読んでみると、人が死ぬ場面もあるし、トムの悪戯には悪趣味というか、「これに振り回された人たちは、たまらないだろうな……」というものも多いのですよね。
そして、トム・ソーヤーの「子どもらしい計算高さ」と「世渡りのうまさ」みたいなのが、けっこう鼻につく気がします。
ハックルベリー・フィンとも「親友」とあらすじに書かれてはいますが、作品中では「一緒にいるところをあまり他の人には見られたくなかった」なんていうトムの気持ちが書かれていて、「親友」っていうより、「トムがハックを利用している」ようにもみえるのです。
ただし、「だから汚れている」というつもりはないんですけどね。
子供の人間関係なんて、そういう「お互いの利害関係」に正直な場合が多いから。
「訳者あとがき」で、柴田元幸さんは、こんなふうにトム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの「違い」を述べておられます。
訳者自身も、これまでしばしば、トムとハックの違いを、「トムはいずれ大人になって、ちゃっかり出世して町の名士になって『わしも昔は悪さをしたものです。わっはっは』などと言いそうなタイプだが、ハックが大人になって社会のどこかに収まっている姿を想像するのは不可能である」などと説明してきた。
ああ、確かに「そんな感じ」なんだよなあ。
トム・ソーヤーって、「うまく大人たちを手のうちに入れて転がしている」ように見える。
それがなんだかちょっと感じ悪いといえば悪いし、「子どもには、そういう面がある」のをちゃんと描いているとも言える。
この文庫を読んでいて、あの有名な「塀のペンキ塗り」のエピソードは、トム・ソーヤーだったことを思い出しました。
トムは少しのあいだ相手をじっと見てから、言った――
「仕事って何のこと?」
「え、それ仕事じゃないの?」
トムは塀塗りを再開し、こともなげに答えた。
「ま、そうとも言えるか、言えないか。とにかく俺様には合ってるよ」
「おいおいよせよ、まさかこれ、好きだってのか?」
刷毛は依然動いている。
「好きかって? 好きじゃいけない訳でもあるのかい。塀に漆喰塗るチャンス、毎日来るか?」
新しい発想である。リンゴを齧るベンの口が止まった。トムは優美に刷毛を前後させ、一歩下がって結果を眺め、そこここに軽くひと刷毛加え、ふたたび吟味する。ベンはその一挙一動を見守り、ますます興味を覚え、次第に惹かれていった。間もなくベンは言った――
「なあトム、俺にもちょっとやらしてくれよ」
まあ何だかんだ言ってもこの世界そう捨てたもんじゃないな、とトムは独り想った。人間の行動をめぐる大きな法則を、彼は我知らず発見したのだった。すなわち、相手が大人であれ子供であれ、何かを欲しがらせるには、それを手に入れるのを困難にすれば事足りる。もしトムが偉大にして賢明なる叡智の――本書の著者のように――持ち主であったなら、<仕事>とは人が強いられるものであり<遊び>とは強いられないものだという真理を看破したことだろう。
「もったいぶってみせる」ことによって、自分の<仕事>だった塀塗りをみんなに「喜んで」やらせてしまったトム・ソーヤー。
まあ、こういう教訓的な話は、ある意味「ちょっと感じ悪いところ」でもありますが。
今読むと、手放しで「面白い!」とは言いがたいのですが、この小説が、さまざまな現代の物語の「源流」であるということはよくわかります。
柴田元幸さんの訳は読みやすいですし、これを機に読んでみたり、読み返してみるのも良いのではないかと思います。