琥珀色の戯言

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【読書感想】ツタンカーメン 少年王の謎 ☆☆☆☆


ツタンカーメン 少年王の謎 (集英社新書)

ツタンカーメン 少年王の謎 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
ツタンカーメンは、ほぼ未盗掘で発見された王墓により有名であるが、王自身の生涯とその時代については、長い間謎に包まれたままだった。しかし、20世紀の終わりになってツタンカーメン時代の建造物や重要人物の墓が次々と発見されたことや、2010年に最新のDNA鑑定がなされたことなどによって、ファラオの真の姿が明らかとなりつつある。本書では、いままで推測の域を出ることがなかった死因や親子関係の謎に迫るだけでなく、即位にいたる歴史的状況、死後の状況についても大胆な新説を示す。


僕は子どもの頃から歴史好きで、歴史関係の本もけっこう読んできたつもりなのですが(もちろん、「趣味レベル」ではありますけど)、古代エジプト史というのは、「世界史の授業で少し習った程度」だったんですよね。


それでも、「ツタンカーメン」という名前は、小さい頃から知っていました。
はじめて耳にしたのは、アニメ『ルパン三世』で、ルパンが盗んだ「ツタンカーメンの黄金のマスク」をかぶったら「ファラオの呪い」で心を支配されてしまう、というエピソードの回でした。
それ以来、「ツタンカーメン」=「呪い」という、本人にとっては不本意であろうイメージを持ちつづけていたのです。
発掘の関係者が、相次いで亡くなったという話も耳にしていましたし。


あとは、高校の世界史の授業で、ツタンカーメン父親アメンホテップ4世が、それまでの「アメン」を中心とした多神教から、太陽神「アテン」を唯一神とする「宗教改革」を行い、それに伴って自らも「アメン」ホテップから、「イクナートン」と改名したというのを習って、「信じる神様が代わると、名前まで変えなきゃならないなんて、大変なんだな」と思った記憶もあります。


この『ツタンカーメン 少年王の謎』では、ツタンカーメン王墓の発掘にまつわるさまざまな歴史的なエピソードが前半部で紹介されて、後半は、「ツタンカーメン王とその時代前後のエジプトの政治情勢、そして、ツタンカーメン王の死因や血縁関係についての最新の研究成果」が書かれています。
この時代に詳しい人にとっては、前半部は「常識」なのかもしれませんが、「地面を掘っていたら、いきなり未盗掘の王の墓が出てきた」というようなイメージを持っていた僕にとっては、ハワード・カーターを中心とする発掘のプロセスの話は、かなり興味深いものでした。
「ここに王の墓があるらしい」とわかってから、発掘が一通り終わるまで、10年くらいかかっているんですね。
そんななか、あの「黄金のマスク」を見つけたときの調査隊は、どんな気持ちだったのだろうか。
この新書を読んでいると、彼らの発掘は、世界的にも大きな話題となり、「エジプト考古学ブーム」を巻き起こしたようです。


ツタンカーメン王の呪い」について、著者はこんなふうに言及しています。

 カーナヴォン卿(ツタンカーメン王墓発掘のスポンサー)の死の周りで不可解な事件があったという。カーナヴォン卿が亡くなったその瞬間にカイロ全体が停電となり、その原因は不明だった。また息子で相続人であるボーチェスター卿第6代カーナヴォン伯爵によれば、カーナヴォン卿の邸宅ハイクレア城では、父の死の瞬間に愛犬が苦しそうに吠え、ぱったりと倒れて死んだという。
 世界中の新聞がカーナヴォン卿の死因をファラオの呪いとした。シャーロック・ホームズの生みの親として知られるアーサー・コナン・ドイルは、死の原因を「ツタンカーメンの墓を守る王の神官が作り出した、魂でも、霊体でもない要素のせいである」(ニコラス・リーヴス『図説 黄金のツタンカーメン』)とした。
 ある新聞は、王墓の宝庫にあるアヌビスの厨子の前にある土製の蝋燭台に記された「秘密の部屋を砂が埋めるのを阻むのは私である。私こそは死者の保護者である」という文章に「そして永遠に生きる王の神聖な領域に踏みいれる者はすべて殺す」(『ツタンカーメン秘話』)と付け加えて、呪いによる死因説を煽った。
 そして、カーナヴォン卿の死因にとどまらず、ツタンカーメン王墓調査関係者の死因はすべて呪いのせいにされた。しかし、1934年アメリカ、メトロポリタン美術館エジプト調査隊隊長のハーバート・E・ウィンロックが興味本位で調べた統計によると、墓の公式オープニングに出席していた26人のうち6人が10年のうちに亡くなっている。そして、石棺を開けた際に立ち会った22人(カーターは24名と記録)のうち、わずか2人しか亡くなっていない。ミイラの包帯を取り除いた時にいた10人のうち誰一人として死んでいない。ウィンロックによれば、死んだ関係者は高齢だったか持病をもっていたという。
 カーター自身は1939年、64歳まで生きていた。発掘調査隊の写真家ハリー・バートンも1940年に60歳で亡くなっている。そして、カーナヴォン卿の娘のイーヴリンは1980年まで生きていた。カーターは次のように記している。


「健全な人々ならばこれら作り話を軽蔑をこめてしりぞけるべきであろう」(『ツタンカーメン発掘記』)

ちなみに「ツタンカーメンの呪い」を広めたのは、カーターのライバルの考古学者と、発掘の報道独占契約を結んでいたタイムズ社のライバル、デイリー・メール社だったのだそうです。
1934年の段階で、ウィンロックさんがこの「呪い」の信憑性について調査していたにもかかわらず、21世紀になっても、「呪い」の存在は、「半信半疑」くらいで広まっていることを考えると、結局、「人は信じたいことを信じる」のだなあ、という気もします。
もっとも、それが迷信だとわかっているつもりでも、僕だってファラオの棺に手をかけるのは、「ちょっとイヤな感じ」がするとは思うのですが……


著者は、ツタンカーメン王の痕跡の大部分が消されている理由として、在位が10歳くらいからの10年弱で、有力者に実権を奪われ、親政を行う機会がほとんどなかったことや、後世の王たちが「アテン信仰を強要していたアメンホテップ4世に反感を抱いており、その流れをくむ後継者たちごと『いなかったこと』にしてしまおうとした」ことなどを挙げています。


僕はこの新書を読むまでは、「権力争いで、ツタンカーメン王は謀殺された」と思い込んでいたのですが(そういう内容の話を以前本やテレビで聞いたり見たりしたことがあったので)、21世紀になって、CTスキャンやDNA解析などで、ツタンカーメン王のミイラが調査され、新たな事実もかなりわかってきたようです。

 1968年に英国リヴァプール大学のR・G・ハリソン教授は、ツタンカーメン王の頭蓋骨のX線写真撮影を行い、頭蓋骨内に小さな骨の断片が認められることを明らかにした。ハリソン自身はこの点に関して十分な見解を発表する前に亡くなってしまったが、棍棒または剣の柄の頭部で打たれた痕跡である可能性が指摘され、長い間ツタンカーメン王は何者かによる他殺で亡くなったと言われていた。そして、多くの作家や学者が王の暗殺物語をつくり上げてしまった。
 2005年にザヒ・ハワスの指揮で実施したCTスキャンによるミイラの解析からは、他殺の可能性はないことが明らかになった。頭部には致命傷となるような外傷はなかった。X線写真で指摘された小さな骨の断片は、ミイラづくりの際に頭蓋骨内に詰め物を入れた時か、カーターがミイラを移動させた時に砕けたものと判断された。ハワスの調査団のメンバーの数人は、ツタンカーメンの左側の大腿骨のひびが王の左足の骨折とそれによる化膿で死にいたった証拠であるとしているが、大腿骨のひびはミイラづくりの際にできたものとも考えられており、はっきりしたことはわからなかった。ツタンカーメン王のミイラのもっとも不可解な点は、胸部の状態である。胸骨は失われ、肋骨の前部も多くが切りとられているという。ハワスは、ツタンカーメン王が戦闘で負傷して命を落とした証拠としたが、真相は謎のままである。

さまざまな調査で、マラリア感染の痕跡や、近親婚による遺伝性疾患、鎌形赤血球症(SCD)などによる死の可能性も指摘されていますが、いまのところ、「真相は謎」としか言いようがないみたいです。
それにしても、3000年以上前に亡くなった人のミイラから、これだけの「情報」が得られるということに、僕は驚かされるばかりでした。
ツタンカーメン王としても、こうして「研究材料」にされるとは、夢にも思っていなかったでしょうけど。


「黄金のマスク」やピラミッド、スフィンクスといった「定番のエジプト観光」だけでなく、各地の美術館や博物館で展示されている、さまざまな副葬品にも興味がわいてくる面白い新書でした。
普遍的なものだと思い込んでいた「古代史」も、どんどん更新されているのだなあ、という驚きもこめて。

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