琥珀色の戯言

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第147回芥川賞選評


文藝春秋 2012年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2012年 09月号 [雑誌]

今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった鹿島田真希さんの『冥土めぐり』と芥川賞の選評が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

高樹のぶ子
舞城王太郎『短篇五芒星』について)
 この中の一作を短編として成立されたなら、選考委員として格闘しがいがあったと惜しまれる。しかし同時に、覆面作家として存在する以上、顔を隠してしか書けない作品を書いて欲しいとも望む。覆面は「隠れ」ではなく、顔を晒す作家には真似の出来ない「攻撃」のために必要なのだと、納得させて欲しい。

堀江敏幸
 山下澄人さんの「ギッちょん」にはその凹凸がある。もっとも、流れと無関係なひとことふたことから滲み出る、遠くに見える大切な人を指で隠すような独特のさみしさの方に私は惹かれた。時空をゆがめる本作の書法には、「辻褄を合わせようとしない」進め方が、「辻褄を合わせようとしないことを意識した辻褄合わせ」と受け取られかねない危険性も潜んでいる。年齢にほぼ対応している章割りの数字がなければ、捻れは深いところまで、正しく届いたかもしれない。

小川洋子
 『ギッちょん』を最も興味深く読んだ。人の意識に流れる時間をありのままに追ってゆくと、そこに映し出される世界はこのようにいびつであるのだ、ということを改めて突きつけてくる小説だった。


(中略)


 鹿島田さんは奈津子の語りを上手くコントロールし、陳腐になりかねないテーマの壁を超えてもう一歩先の地点に到達している。奈津子は家族の記憶を標本にし、ガラスケースに納め、半ば無機物化した形で保存している。夫と旅をしながらガラスケースを一個ずつ取り出して眺めている。その行為と、夫と二人で美術館を見学する場面が重なり合うあたりから、物語は大きくうねりだす。言葉の通じない場所に生きているかのようだった夫が、重大な意味を帯びはじめる。夫の発作こそが、彼女の記憶を標本化するために必要な薬剤となったのだ。作品全体を覆う緊迫した不穏さは、独自の魅力を放っている。鹿島田さんにしか描けない世界だと思う。

奥泉光
 だが、一点において、自分はこの作品を推しきれなかった。というのは、小説中で中心的な役割を果たす「ギッちょん」なる人物の造形に、身体的な欠損を導入している点である。人物をそうした仕方で色づけるのは、最も陳腐な想像力の発露であり、それでないと「ギッちょん」がリアルに定着できないのだとしたら失敗だ。しかし本作は、そうせずとも十分に強度を保てたと思うので、非常に惜しまれる。

川上弘美
鹿島田真希『冥土めぐり』について)
 なんだかよくわからないのに、この小説はとても切実だった。その切実さは、作者が小説にこめた思いの強さ、などというものからきているのではないと思います。そうではなく、作者の書き方、技術の手柄なのです。技術という言葉は、「小手先」などという言葉と結びついて浅薄な印象をまま与えますが、書いている時の切実さを小説にこめるには、どうしても技術が必要になると思うのです。技術は、それぞれの作者が年月を積み重ねて独自に手に入れたものであり、決してマニュアル化のできないものです。

山田詠美
 『短篇五芒星』。まず思うのは、これは、候補作の対象にならないのではないかということ。この題名の許に五つのショートストーリーが集結し、ひとつの作品を形作っている……とは、私には、とても思えない。「四点リレー」という短編がつり合いを取ってひとつの世界を形造っている……という親切な読み方をするには無理がある。


(中略)


 『ギッちょん』。小説でしかあり得ないたくらみに満ちているのは認めるが、それも過ぎたるは及ばざるがごとし、だろう。時間軸をいじくり過ぎて、私には、主人公が変な人に見える。もしかしたら、病気かも解んないから病院行った方が良いよ、と勧めたくなるくらい。これほど、凝った構成にするのなら、そんなふうに感じさせないくらいに用意周到でなければ。


(中略)


 『ひっ』。候補作品に間に合わせようとあせって書きませんでしたか? 味のある風変わりな人物を慌てて配置した感じ。それ故、予定調和なちょっと良い話のレベルで終わっている。この作者は、もっと長いものをじっくり書いて、直木賞候補になるべき。

島田雅彦
(『ギッちょん』について)
 山下は、シャッフルしたい欲望と整理したい欲望のせめぎ合いを、各チャプターの冒頭にその出来事があった時点の年齢の数字を示してみせることで乗り切ったようである。


(『冥土めぐり』について)
 構造は極めてシンプルだが、背後に神話的原型が見え隠れし、また一人の労働者が三人の無産者を養わなければならないという今日の日本が置かれた状況のリアルな寓話にもなっている。福祉国家の破綻は不可避だが、実際にどのような事態になるのかは、これまであまり書かれることがなかった。

宮本輝
(『冥土めぐり』について)
 この己心のなかで繰りひろげられる劇によって、主人公は死から生へと舵を切ることができた。それをひとつの小説として完成させたのだから、私も手離しで褒めなければならない。
 だが、どうしても諸手をあげてとはなれないのは、鹿島田さんの小説につねに漂っているレトロな少女趣味が好きになれないからだ。
 けれども、そういう少女趣味的な世界に生理的我知らず惹かれる読者は案外に多いことであろう。


(中略)
(『ギッちょん』『ひっ』『河童日誌』について)
 ただ、今回の候補作は、小説を創りだすためにむりやり寄せ集めたエピソードと一風変わった登場人物たちを動かして、小説のようなものをでっちあげてしまっている。それは、いわば劇画やコミックを文章化したにすぎないのだ。
 劇画やコミックは、劇画として、あるいはコミックとして存在するからこそ価値があるのであって、それを文章化すれば小説になるというのは大きな錯誤である。書き手だけでなく編集者すらも、この錯誤に陥ってすでに数十年を経てしまった。

村上龍
 舞城王太郎氏の『短篇五芒星』について、わたしは選考を「棄権」したので、その理由を書く。まず、わたしの棄権に関して、作者は何の責任もないということを確認しておきたい。棄権の理由は、短篇連作という「形式」にあって、作者や作品そのものにはないからである。連作は、掌篇連作でも、短篇連作でも、もちろん中篇連作でも、それぞれの作品が何らかの形でお互いに響き合い、影響し合って、結果的に作品全体に、ある効果が生じる。
 だから、単一の作品で表現している他の候補作と同列に評価するのは、フェアではないと判断した。ピアノ・ソナタの作曲コンクールに、ピアノ・コンチェルトが出品されるのと同じだ。小説に限らず、表現において、形式というのは案外重要で、たとえば形式を破壊するという企みを持つ作品でも、形式の力を借りることになる。


(中略)


 『河童日誌』は、選考委員の中でわたしだけが△で推した。あとは全員×だった。


(中略)


 受賞作の『冥土めぐり』については、わたしだけが「ノー」だったが、テイストとモチーフに対する違和感があっただけである。


 今回の選評を読んでみると、やはり、石原慎太郎さんを失ったことは、「選評ウォッチャー」としては、ちょっと残念ではありますね。ある意味、「黒い愉しみ」ではあったわけで。
 それにしても、今回の選考は、鹿島田真希さんの『冥土めぐり』に関していえば、無風というか、あまり異論も出ずにすんなり授賞となったようです。
 村上龍さんだけが最初は「ノー」だったそうですが、それほど強い否定ではなかったみたいですし。


 僕も『冥土めぐり』を読んでみたのですが、なんというか「これは文句をつけにくい作品だな」という感じがしたのです。
 「新鮮さ」よりも「優等生的で、穴が少ない」。
 この「選評」では、受賞作がいちばん多く言及され、それに次いで「問題作」(外国人が日本語で書いたとか)が話題になることが多いのですが、『冥土めぐり』に関しては、あまり「熱い選評」はなかったんですよ。
 いや、それだから悪い作品だというわけではなくて、ものすごく読みやすいし、島田雅彦さんが書かれているような「一人の労働者が三人の無産者を養わなければならないという今日の日本が置かれた状況のリアルな寓話」でもあります。
 この作品の独自性というのは、そこで何か劇的な「状況の変化」が起こるわけではなく、主人公が、その理不尽を受容していくところにあるような気がします。
 個人的には、なんだか『置かれた場所で咲きなさい』みたいで、ひたすらモヤモヤする話だなあ、と思いながら読んでいたのですけど。
 川上弘美さんは、この作品は「気持ちではなくて、技術的にすぐれているのだ」と仰っていたのが印象的でした。


 問題になっていたのは、舞城王太郎さんの『短篇五芒星』について。
 この作品、連作短篇だそうなのですが、これが芥川賞の対象になるのかどうかについて、議論が分かれたようです。
 僕もこれは「レギュレーション違反」なのではないかと思うのですが、最終選考になって「候補にするのが妥当かどうか」が問題になるというのは、なんだかちょっと腑に落ちない感じではありますね。
 舞城さんも、「それなら候補にするなよ」と思ったのではないかと。
 

 『ギッちょん』もけっこう採り上げられていました。
 堀江敏幸さんは「年齢にほぼ対応している章割りの数字がなければ、捻れは深いところまで、正しく届いたかもしれない」と言い、島田雅彦さんは「山下は、シャッフルしたい欲望と整理したい欲望のせめぎ合いを、各チャプターの冒頭にその出来事があった時点の年齢の数字を示してみせることで乗り切ったようである」と評しており、同じ試みに対して、選考委員の好みが分かれていたのが興味深かった。
 あたりまえのことなのですが、こういうのに「正解」って無いんだよなあ、と。


 今回は「ちょっと特別な人」がアクセントとなっている候補作が多かったようで、それもまた、「震災後」の時代の空気なのかもしれません。
 それは「自分が特別ではないこと」を見直すためなのか、それとも、「すべてを受け入れて生きて行くこと」への讃歌なのか。


 今回の選評のなかでいちばん印象に残ったのは、宮本輝さんの「小説を創りだすためにむりやり寄せ集めたエピソードと一風変わった登場人物たちを動かして、小説のようなものをでっちあげてしまっている。それは、いわば劇画やコミックを文章化したにすぎないのだ」という言葉でした。
 「そうですね」と共感する面がある一方で、もはや小説にできてマンガには難しいのは文体のような「形式」か「叙述トリック」くらいしかないのでは、とも思えてくるのです。
 小説は「マンガ化」してきているし、マンガもまた「小説化」している。
 もう、差別化していくのは、意味がないことなのではないでしょうか。
 面白い小説、面白いマンガと、そうでない小説、マンガがあるだけのことで。


 正直、選評としては盛り上がりに欠ける回ではありました。
 それは、「順当な結果」だったからなのか、石原慎太郎氏を失ってしまったためなのか……

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