琥珀色の戯言

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【読書感想】清洲会議 ☆☆☆☆


清須会議

清須会議

内容紹介
生誕50周年記念「三谷幸喜大感謝祭」のラストを飾る、満を持しての書き下ろし小説、遂に刊行! 信長亡きあとの日本の歴史を左右する五日間の攻防を「現代語訳」で綴る、笑いと驚きとドラマに満ちた、三谷印の傑作時代エンタテインメント!


日本史上初めての会議。「情」をとるか「利」をとるか。
本能寺の変、一代の英雄織田信長が死んだ。跡目に名乗りを上げたのは、柴田勝家羽柴秀吉。その決着は、清須会議で着けられることになる。二人が想いを寄せるお市の方は、秀吉憎さで勝家につく。浮かれる勝家は、会議での勝利も疑わない。傷心のうえ、会議の前哨戦とも言えるイノシシ狩りでも破れた秀吉は、誰もが驚く奇策を持って会議に臨む。丹羽長秀池田恒興はじめ、会議を取り巻く武将たちの逡巡、お市の方、寧、松姫たちの愛憎。歴史の裏の思惑が、今、明かされる。


三谷幸喜さんの「時代エンタテインメント」。
書店ではずっと平積みにされていて気になってはいたものの、なんとなく手にとりそびれていた作品でした。
今回、ようやく購入して読んでみたのですが、やっぱり面白い。
清洲会議」を「歴史を動かした日本史上はじめての会議」と定義する目のつけどころなんて、さすが三谷さんだなあ、と感心してしまいました。


しかしながら、「歴史小説好き」の僕は、この作品が「どこまでフィクションなのか?」というのが、ずっと気になって、なんとなく物語にのめり込めないところがあったんですよね。
これは三谷さんにとっては、「舞台の脚本」みたいなものなのでしょう。
三谷さんが脚本を書いた『竜馬の妻とその夫と愛人』という舞台があって、これは坂本龍馬の没後、未亡人となった「おりょう」を主人公にしたフィクションの喜劇です。
実際、龍馬は「失われてしまった偶像」として回想されるくらいの立場で、そのくらいであれば、別に不快感はないんですよ。
でも、この『清洲会議』では、三谷さんが歴史上の人物を、真正面から、好き勝手に動かしているのです。


信長の訃報を聞いたときのことを振り返っての、秀吉の独白。

 お館様の死は、オレにしてみれば、千載一遇の好機だった。まさに天が与えてくれたチャンス。ラッキーとしか言いようがない。
 立身出世を夢見て、三十年近くオレはお館様に仕えてきた。三十四歳で城持ちとなり、筑前守を名乗った。織田家宿老の一人となって、中国攻めの司令官に任命された。草履持ちからすると、考えられないほどの大出世だ。
 しかし、その後は? これからのオレはどうなる?

「チャンス」とか「ラッキー」なんていう言葉を平然と使うのが、この『清洲会議』の特徴であり、「だから軽々しくてつまらない」というわけではありません。いやむしろ、歴史上の人物がこういう言葉を使っても、そんなに違和感がないことに驚きました。
実際、歴史小説で「好機」「幸運」って書いてあっても、僕などは頭のなかで、「チャンス!」「ラッキー!」って翻訳しているようなものですからね。


そういう「言葉の軽さ」は気にならないのだけれど、歴史上の人物を茶化したり、無能な人のように描いたり、明らかな作り話を挿入したりするのが、僕は好きになれないのです。
本宮ひろ志先生の『夢幻の如く』(本能寺で死ななかった織田信長が、世界征服を目指すマンガ)くらい荒唐無稽になってくれていると、それはそれで面白がれるのですが、柴田勝家お市の方の「色じかけ」に骨抜きにされているような場面では、「ギャグ」というより、「そりゃちょっと勝家かわいそうなんじゃない?」と言いたくなってしまうのです。
その「境目」がどこらへんかは、僕自身にもよくわからないのですが……


会議を通じての参加者の心の動きとか、「舞台のシナリオ」としてみればすごく面白いし、結末を知っているにもかかわらず最後まで面白く読めたのは事実です。
羽柴秀吉柴田勝家の「主役2人」よりも、丹羽長秀池田恒興のような「結果的に会議のキャスティングボートを握ってしまった傍役たち」の心の動きの描写の巧みさは、さすが三谷さんだなあ!と唸らずにはいられませんでした。
それでも、やっぱり「史実とは違うんだよな、これ」って、つい考えてしまうのです。


秀吉の妻の独白。

 夫は本来暗い人間である。生まれながらに右手に障害を持っていたこともあり、本人の話では、子供の時は、人と交わるのが苦手だったそうだ。でも、出世には人脈作りが欠かせないことを知った藤吉郎は、ある時一念発起し、それ以来、見違えるように明るくなった。藤吉郎は必死に社交的になろうと努力し、自分を変えたのだ。だから彼の明るさには、無理がある。それが私には分かる。どんなにはしゃいでも、それが本来の姿ではないことを私は知っている。酒の席の彼を見ていて、たまに胸が苦しくなるのはそのせいだ。だから私も出来るだけお手伝いしたいと思う。お酒の席を盛り上げるのが、私の役目だ。
 今も夫は、ただ皆と飲んで騒いでいるのではないのだ。これがあの人の戦なのだ。こうして人々の心を虜にしていくのだ。ここにいる人たちは、直接会議とは関係のない人たちだ。でも藤吉郎は知っている。大衆の人気を掴んだ者が、時代を動かすということを。


こういう「本当らしいこと」が書いてあると、かえって「実際はどうだったのかなあ」なんて考えてしまうのです。
というか、「フィクションとはいえ、実在の他人の『本心』を決めつけること」に、抵抗があるんですよ。
いや、作者本人が「私はこう思う」という感じで書いているのなら「そういう考え方もあるよね」と受け入れられるのだけれど、「登場人物のひとりが、他の登場人物のことを語る」という形式だと、かえって「決めつけ」が鼻につくのですよね、僕の場合。


いやいや、お芝居だから。それに、歴史小説だって、みんな「フィクション」であることには変わりないだろ?
うーん、舞台の上で演じられていれば、たぶん僕も受け入れられると思うんだけどなあ……
歴史小説がみんな司馬遼太郎になる必要はないのだろうけど(司馬さんだって、かなりフィクションを書いているし)、「三谷ワールド」を実在の歴史上の人物に演じさせることには、面白さと同時に、「僕のイメージと違う!」という悲しみもあるんですよね。


むしろ、舞台や映画になったほうが、楽しめる作品なのかもしれません。
それにしても、これを「歴史小説」風に売り出している幻冬舎って、いろんな意味で「すごい」。
(よく見たら、表紙の絵で秀吉(?)がスマートフォンを持っていたりして、「フィクションですよ!」っていう表示はされているんですけどね、うーん……)

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