- 作者: 澤宮優
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/08/10
- メディア: 単行本
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【内容】(「BOOK」データベースより)
一試合で最も球数を投げ込むのは彼ら、「繋ぎの野球」のエースたちだ。ロングリリーフ、ワンポイント、敗戦処理。そして、勝利の方程式。故障と背中合わせに、今日もマウンドに上がる。いかなる時もプロの矜持をつらぬいて投げぬく、9人のセットアッパーの野球人生。
【目次】(「BOOK」データベースより)
はじめに 繋ぎの野球/第一戦 粘投伝説(石井弘寿ー日本人最速左腕/河原純一ー二度甦った“ミスターゼロ”/木田優夫ー国境を越え不惑も超えた145キロ)/第二戦 力投伝説(佐野慈紀ーピッカリ投法で中継ぎ初の1億円投手/鹿島忠ー“ケンカ野球”の鹿島大明神/篠原貴行ー14勝1敗、最高勝率の“不敗神話”)/第三戦 鉄腕伝説(吉田修司ー史上初の100Hが支えたダイエー黄金期/吉田豊彦ー流浪のサウスポー/福間納ー幻の最多登板日本記録)/おわりに 故障と背中合わせに生きる
「中継ぎ」に自分の居場所を見つけた投手たち。
いまや、リードしている、あるいは同点の場面で抑え投手(クローザー)の前、8回あたりを投げるピッチャーは「セットアッパー」として、チームの浮沈を左右する存在になりました。
巨人の山口投手や、今シーズンは怪我で苦しんでいますが、中日の浅尾投手などの「スター中継ぎ投手」も出てきています。
20年前くらいまでは、中継ぎ投手といえば、「先発にも抑えにもなれなかった、イマイチなピッチャー、または若手の試用のためのポジション」だという印象が強く、打たれても、「まあ、中継ぎにしかなれないピッチャーだしな……」と半ば諦めてしまうような感じでした。
あるいは(これは今も同じようなところはあるのですが)、いつもいつも同じようなリリーフピッチャーが投げていた、そんな記憶があります。
先日、『怒り新党』という番組で、ヤクルトの伊藤智仁投手のルーキーイヤーの酷使っぷりが採り上げられていたのですが(中四日で、延長14回、180球とか、いまのプロ野球でやったら「選手潰し」だと批判の嵐になるでしょう)、20年前は、そういう起用に対しても、いまほどの「違和感」はなかったんですよね。
いや、ヤクルトファンは当時から怒っていたのかもしれないけれども。
この本には、9人の「中継ぎ界のスターたち」が登場します。
僕も名前を聞いたことがある投手ばかり。
木田投手は、「中継ぎ」として扱うのには、少し違和感がありますが、あとの8人は名実共に「中継ぎの代名詞」と言っても異論はないはずです。
あとは巨人の鹿取かなあ、「中継ぎ」で僕がすぐに思い出すのは。
読んでいると、「中継ぎ」というのは、「先発」とは違う試合との関わり方をしなければならないポジションなのだな、ということがわかります。
石井弘寿投手は、「先発と中継ぎの投球の違い」について、こう語っています。
「先発というのはトータルで考えるのです。6回1失点。9回だったら3失点。先を読みながら試したい球を投げることもできる。だけど中継ぎは一球一球に魂を込めて投げる。遊び球がないのです。これ、本当にすごい生き甲斐なんですね」
先発投手には許される(というか、長い回を投げるのに必要な)「遊び」の部分がなくて、常に全力投球。
そして、「後に投げる投手ほど、前に投げてきた投手たちの好投や勝ち星を台無しにする恐怖との闘い」を要求されます。
なかでも「クローザー」には独特のプレッシャーがあって、「中継ぎで素晴らしいピッチングをしている投手でも、抑えに配置転換されたら毎日胃が痛くて吐き気におそわれていた」なんて話も紹介されています。
また、「中継ぎ」といっても、比較的長い回を投げて「試合をつくる」ことを求められるタイプと、後半の短いイニングを確実に0で抑えることを求められるタイプがいたりして、なかなかひとくくりにできないところもあります。
「敗戦処理」というのもありますしね。
「絶対に0に抑えることが自分の仕事」と言い切る投手がいる一方で、木田優夫投手の項では、こう書かれています。
そこではあまり0点に固執しないことも必要だ。大量リードしているときに投げて、1点を取られるのを怖がって、結果として3点、4点取られて、試合が締まらなくなると勝ったとしてもチームの士気を落としてしまう。敗戦処理で出て行っても、一人に本塁打を打たれ、残りの三人をきれいに片づけてベンチに戻って来たほうがいい雰囲気をもたらす。守る時間は短いほうがよいからだ。
「走者をためてぎりぎり0点で帰って来られると、チームの嫌な雰囲気を明日も引きずることになるんです」
「中継ぎ」には、先発やクローザーにはないクレバーさというか、「試合の流れを読む力」が必要なのだということが、この本を読んでいると伝わってきます。
それにしても、昔の「中継ぎ」への評価は低かった。
「年俸を上げてほしければ、先発か抑えをやってみろ」なんて言われる時代が日本のプロ野球では長かったのです。
今でもやはり、そういう意識があるのは否定できないでしょう。
プロ野球選手になるような人はみんなもともとアマチュア時代は「エース」や「4番」だったし、解説者になるような人は、選手時代は「先発の柱」や「クリーンナップを打っていた人」でもありますし。
阪神の福間納投手が、1984年、稲尾和久さんの1シーズン最多登板記録に並ぶ勢いで登板数を重ねていたときのエピソード。
あるプロ野球有識者は、阪神球団に<稲尾の記録は400イニング以上を投げて作られた中身のある記録。中継ぎの登板で形だけの記録更新はいかがなものか」という手紙を送った。中継ぎの登板は中身がなく、形だけのものなのか、反論の余地が出てくる。しかし、当時の世間の見方はそんなものだった。抗議の手紙は、70試合登板を超えてから増え続けた。
手紙の趣旨は、<中継ぎが、神様稲尾を超えていいのか>という意見であった。
記録更新が近付いた頃、ある首脳陣は福間に言った。
「お前、わかっとるやろな」
「わかってます。最多登板のことでっしゃろ」
「お前、最多登板ね、稲尾さんに失礼とちゃうか」
「何の話ですか」
「あの稲尾さんというのは、勝ちに貢献した投げた78試合や。お前はなんや。負け試合も投げているだろうが」
だから、それが自分の仕事なのだ、と福間は思った。勝ちであろうが、負けであろうが、チームのために投げるのが中継ぎのポリシーである。負け試合でも、試合を捨てるわけにはいかない。
「俺が、投げさせてくれと言いましたか。全部ベンチが”投げろ”と言ったから僕はこれだけの試合数を投げたわけでしょう。そら、おかしいのと違いまっか」
首脳陣も、福間の言い分はよくわかっていた。それだけに返事のしようがなかった。その幹部は、腕を組んだまま黙り込むしかなかった。
ファンや野球評論家だけでなく、同じチームの、自分をこんなに起用してきた張本人である首脳陣からの、この扱い……
この年、福間投手の登板は、77試合。
最終戦でもベンチ入りしていたにもかかわらず、起用されることはありませんでした。
「中継ぎ」という仕事へのプライドと、「きれいなマウンドで投げたかった」という心残りと。
この本に登場する選手たちの多くが、自分自身への評価と同時に「中継ぎという仕事の地位向上」を意識していました。
彼らは、相手バッターと同時に、自分のチームのフロントや野球解説者、そしてファンたちの「偏見」とも戦っていたのです。
この本、野球好きには、たまらない一冊だと思います。
著者は、観客として「こういう選手がいた」という思い出話をしているだけではなく、当事者に取材をして、その「ナマの声」を収録していますので、これまで歴史に埋もれてしまっていた「中継ぎの職人たち」の心のうちを知ることができる、貴重な本なのです。