琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】わかりあえないことから ☆☆☆☆☆


内容紹介
日本経団連の調査によると、日本企業の人事担当者が新卒採用にあたってもっとも重視している能力は、「語学力」ではなく、「コミュニケーション能力」です。ところが、その「コミュニケーション能力」とは何を指すのか、満足に答えられる人はきわめて稀であるというのが、実態ではないでしょうか。わかりあう、察しあう社会が中途半端に崩れていきつつある今、「コミュニケーション能力」とは何なのか、その答えを探し求めます。


内容(「BOOK」データベースより)
近頃の若者に「コミュニケーション能力がない」というのは、本当なのか。「子どもの気持ちがわからない」というのは、何が問題なのか。いま、本当に必要なこと。

この新書のサブタイトルは「コミュニケーション能力とは何か」です。
この「コミュニケーション能力」というものの重要性は、飽きるほど語られているにもかかわらず、「じゃあ、コミュニケーションって何?」という問いに明確に答えることは、とても難しいんですよね。
人によって解釈はまちまちで、ある人にとっては「とにかくたくさん言葉を交わすこと」で、別の人にとっては「一緒にお酒を呑むこと」だったりします。
僕のなかでは、「コミュニケーション」≒「人付き合い」という解釈をすることが多いのですが、極力他人に面倒をかけたりかけられたりしないで生きたい、というのは、「コミュニケーション下手」なんだろうなあ、なんて悩むこともあります。
やたらと面白くもないことを大声で話しかけてくるだけの「自称・コミュニケーション上手」なんて人もいますしねえ。


この本、「コミュニケーション至上主義の呪縛」から逃れられない僕にとって、非常に興味深い内容でした。
第一章で、著者は、こう述べています。

 現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。OECD経済協力開発機構)もまた、PISA調査などを通じて、この能力を重視している。


(中略)


「異文化理解能力とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。
 異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を近いし、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。
 まぁ、なんと素晴らしい能力であろうか。これを企業が求めることも当然だろうし、私もまた、大学の教員として、一人でも多く、そのような学生を育てて社会に送り出したいと願う。
 しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
 日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
 いま就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求されている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。

 ああ、そうだ、こういうことを日々感じていたんだけど、自分では、うまく言葉にできなかったんだ……
 相手を説得して、自分の意見を通そうとするのも「コミュニケーション」で、自分を抑えて、他人の邪魔をしないようにするのも「コミュニケーション」。
 もちろん、状況に応じて、うまくスイッチを切り替えられる人もいるのでしょうけど、あまりに「コミュニケーション」という言葉が便利に、万能になりすぎていますよね。
 巷にあふれている「コミュニケーション」という言葉を耳にするたびに感じる、嘘くささと疲労感の原因は、こんなところにあるのかもしれません。


 著者は、日本、そして西洋の演劇、さらに「ロボットに人間らしく演じさせる」という研究をも通じて「言葉で伝えること」を考え、実践し続けてきた人です。
 いや、僕も最近まで著者・平田オリザさんのことを、ほとんど知らなかったのですが、この新書を読んだだけでも、「この人の演劇を観てみたいなあ」と思いました。

「冗長率」という言葉がある。
 一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを、数値で表したものだ。


(中略)


 私たちが、「あの人は話がうまいな」「あの人の話は説得力があるな」と感じるのは、実は冗長率が低い人に出会ったときではない。冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。
 たとえばNHKでも、午後7時のニュースと9時のニュースでは、明らかに冗長率が異なる。7時のニュースには、限られた時間内に確実に情報を伝えなければならないから、冗長率は低くなる。9時のニュースでは、必ずしもプロのアナウンサーが進行するとは限らず、そこに、「あれ、これはどうでしょう?」とか、「あぁ、これはすごいですね」といった個人の感想も入ってくる。
 民放10時の「報道ステーション」となれば、さらに冗長率は増す。しかし一部の方に古館伊知郎さんの評判が良くないのは、少し視聴者の想定以上に冗長率が高いのかもしれない。そういった視聴者には、「余計なことを言うな」と感じさせてしまうのだろう。その点、やはり久米宏さんは、トピックに応じた冗長率の操作が天才的だった。
 さて、この「冗長率」という考え方と導入すると、これまでの国語教育、コミュニケーション教育の問題点がより明瞭になる。
 日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」……だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。
 だとすれば、国語教育において、本当に今後、「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、少なくともスピーチやディベートばかりを教えて冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの教育方針は、大きな転換を迫られるべきだろう。

 これなども、まさに「目からウロコが落ちる」感じです。
 そうか、「ムダ話」そのものが問題なのではなくて、「TPOにあわせたムダ話」じゃないのが問題なんですね。
 でもまあ、「適切なムダ話のしかたを教えること」というのは、「ひたすら冗長率を低くすることを目指す」より、はるかに難しいだろうなあ。
 古館さんの場合でも、プロレスやF1の視聴者だって、そんなに「冗長率が高い実況」を望んでいたわけじゃないと思うんですよね。
 でも、これらの中継で、古館さんの喋りは受け入れられ、むしろ支持されていたわけで、「このくらいの冗長さが適切です」なんて簡単に数値化できるようなものでもないのです。


 この新書の中で、僕はいちばん好きだったのは、この一節でした。

 遠回しの話になってしまったが、言いたいことは簡単なことだ。
「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない」
 この当たり前のことが、なかなか当たり前に受け入れられない。
 しかし、これを受け入れてもらわないと困るのは、日本人が西洋人(のよう)になるというのには、どうしても限界があるからだ。もしこれを強引に推し進めれば、明治から太平洋戦争に至るまでの過程のように、どこかで「やっぱり大和魂だ!」といった逆ギレが起こるだろう。
 身体に無理はよろしくないのであって、私たちは、素直に、謙虚に、大らかに、少しずつ異文化コミュニケーションを体得していけばよい。ダブルバインドダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり、「アメリカでエレベーターに乗ったら、『Hi』とか『How are you?』と言っておけ」と言う程度でいいはずなのだ。
 私たちは、西洋料理を食べるためにナイフとフォークの使い方を学ぶ。しかし、ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークが上手く使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。丁寧とか、人に気を使えるとか、多少の相関性はあるのだろうが、現実世界では、とても性格は悪いけれどナイフとフォークの使い方だけはうまい奴などざらにいるし、またその逆もあるだろう。
 繰り返し言う。コミュニケーション能力は、人格教育ではない。

 この「コミュニケーション能力は、人格教育ではない」という言葉、昔の僕にも教えてやりたかった……
 「コミュニケーション能力」が重視されるあまり、「コミュニケーション能力」=「人間性」だと考えてしまう人は多いのです。
 いや、僕もそう思っていました。
 でも、「演じること」を考え続けてきた著者は、「コミュニケーション能力というのは、必ずしも人間性に相関するものではない」と述べています。
 もしかしたら、「演技はすごく上手いけれど、人格に難あり」という役者さんを、たくさん見てきたからなのかな……なんてちょっと想像していしまいます。
 コミュニケーション能力を高めるのに必要なのは「高潔な人格者になること」ではなくて、「コミュニケーションに必要なルールを学び、テクニックを磨くこと」なのです。

 この「いい子を演じる」という問題を、私は10年以上、各所で語り、書き連ねてきた。しかし、その中でもショックだったのは、秋葉原の連続殺傷事件の加藤智大被告の発言だった。報道によれば、犯行前、加藤被告は、携帯サイトの掲示板に、以下のように記していたという。


「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れてる」


 私は、「演じる」ということを30年近く考えてきたけれど、一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」、なんという「乖離感」。
「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的ではなかったか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
 日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた、「騙すのには慣れてる」と書いている。彼は、人生を、まっとうに演じきることもできなかったくせに。
 人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

「演じること」と「子どもたちと教育すること」をライフワークとしてきた著者にとって、加藤被告の言葉は、衝撃的なものだったのでしょう。
 僕にとっては、「演じることに疲れた」という感覚は、「ああ、なんだかわかるな」というものだったのです。
 もちろん、「疲れた」からといって、絶対にやってはいけないことを、加藤被告はやってしまったわけで、それを許容することはできませんけど。

 
 そもそも、「演じる」ことなしに、生きていける人間なんているのだろうか?
 家族っていうのも、上司・部下っていうのも、医者と患者というのも、ある意味「お互いの役を演じているからこそ、成り立っている面」があるはずです。
 演じてもいいのだ。むしろ、人生という舞台を、まっとうに、最後まで演じきれ。
 良い演技をして、喝采を浴びることを、楽しめ。
 この舞台からは、生きているかぎり、降りられないのだから。
  

 ここでは紹介しきれませんでしたが、著者の「演劇論」や「演劇で使われる言葉についての、新しい試み」なども興味深かったです。
 
 僕にとっては、勇気と気づきを与えてくれる本でした。
 いま、オススメの新書です。

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