
- 作者: 朝井リョウ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/06/26
- メディア: 文庫
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Kindle版もあります。

- 作者: 朝井リョウ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/12/18
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「あんた、本当は私のこと笑ってるんでしょ」就活の情報交換をきっかけに集まった、拓人、光太郎、瑞月、理香、隆良。学生団体のリーダー、海外ボランティア、手作りの名刺……自分を生き抜くために必要なことは、何なのか。この世界を組み変える力は、どこから生まれ来るのか。影を宿しながら光に向いて進む、就活大学生の自意識をリアルにあぶりだす、書下ろし長編小説。
第148回直木賞受賞作(もう1作の安部龍太郎さん『等伯』の感想はこちら)。
すごく面白かった。
まともな就職活動をしたこともなく、「じゃあ大学に残ります」と言っただけで、20年近く流されてきた僕でさえ、なんだか自分が20代前半くらいのことを思い出して、胸がキリキリしてしまいました。
この物語の登場人物たちは、みんな「痛い」。
演劇とかボランティアとかバンドとか、「自分は他人とは違う」ことを証明したい人たちがやることは、20年前も現在も、そんなに変わっていないんだなあ、と、苦笑と感傷が入り混じった想いで、僕はこの物語を読んでいたのです。
主人公の拓人に、けっこう自分をシンクロさせながら。
「就活就活っていう人を見てると、なんか」
隆良の低い声を聞きながら、俺は思う。
「想像力がないんじゃないのかなって思う。それ以外にも生きていく道はいっぱいあるのにそれを想像することを放棄してるのかな、って」
やっぱり、想像力がない人間は苦手だ。
どうして、就職活動をしている人は何かに流されていると思うのだろう。みんな同じようなスーツを着るからだろうか。何万人という学生が集まる合同説明会の映像がニュース番組などで流れるからだろうか。どうして、就職活動をしないと決めた自分だけが何かしらの決断を下した人間だと思えるのだろう。周囲がみんな黒髪でスーツを着ているときに髪を染めて私服を着ていられるからだろうか。つまらないマナー講座を笑っていられるからだろうか。
(中略)
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。
僕はこの物語を読みながら、内心、最近の「意識高い系の学生」を嘲笑っていました。
こんな「○間×代さんの劣化コピー」みたいな、「自分は特別な人間」アピールをまき散らさなければならない人たちは、かわいそうだねえ、って。
「自分は他の人とは違う不思議ちゃんで、サブカル大好きなんです!』という女の子が、判で押したように「大槻ケンヂ大好き!』であるのを見たときのような失笑。
ところが、朝井リョウさんは、この物語のなかで、僕の「価値観」を、ぐるんぐるんと振り回しまくってくれました。
「そんなに背伸びして『就職活動』をするなんて、バカバカしい」
「どうせたいした才能もないくせに、SNSのプロフィールだけ立派な人間がなんと多いことか」
「自分は『何者』かになれるという幻想を抱き続けることで、現実を見ないようにしているのって、カッコ悪い」
「でも、そうやって、同世代やネット上の『意識高い系の痛い人』をバカにしている人こそ『自分では目立っている人の批判以外の何もできない、かわいそうな人』じゃないの?」
「そもそも、そうやって他人のことを嘲笑っているお前自身は『何者』なんだ?」
ちょっと年かさの僕としては、「まあ、こういうふうに『世界の見方』を変える人がいるならば、就職活動というのは、大学生から社会人になるための『通過儀礼』として意味があるのかもな」なんて感じてもいたんですけどね。
この本、いままさに就職活動をしている人が読んだら、すごくキツイかもしれないなあ。
ちょっと偏差値の高い大学から就職活動をしている人なら、この物語に出てくる「痛い人たち」に、自分にあてはまるところを見つけてしまうだろうから。
「そう言いながら、お前らは結局みんな一流企業にエントリーできる高偏差値の大学の『意識の高い学生』で、『うらやましい身分』じゃないか」と反感を抱く人もいるはずです。
いまの大学生のSNSの使い方がすごくリアルで(朝井さんは、つい最近まで大学生であり、就職活動もしていたんだものなあ)、こういう人、twitterにいるいる、とか、僕自身にもあてはまるところがある(あった)なあ、あれこれ考えさせられる作品でもありました。
ほんとうにたいせつなことは、ツィッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない。ほんとうに訴えたいことは、そんなところで発信して返信をもらって、それで満足するようなことではない。だけど、そういうところで見せている顔というものは常に存在しているように感じるから、いつしか、現実の顔とのギャップが生まれていってしまう。ツィッターではそんなそぶり見せてなかったのに、なんて、勝手にそんなことを言われてしまうようになる。自分のアイコンだけが、元気な姿で、ずっとそこにあり続ける。
twitterの便利さと、「誰かにとっての家族や友人としての自分」と、「twitterで語っている自分」は、こんなにも違って見えるものなのだな、とかね。
twitterって、「陰口を世界にばらまいてしまうツール」でもあるのです。
悪口って、言われる側になると、「直接自分に言ってくれれば良いのに」って思うことが多いのだけれど、言う側になると「本人が見ていないところじゃないとマズイ」と、なぜ思うのでしょうか?(僕もつい、そう考えてしまうのですが)
正直、これを読んで、twitterもうやめようかと、ちょっと悩みました。
あらためて、自分がとても「痛い」存在であることを再確認させられた気がして。
しかしながら、いまの世界では「ずっとやっていたtwitterをあえてやめてしまう」こともまた、ひとつの「自分アピール」になってしまうのではないか……
もう、考えれば考えるほど、堂々巡りです。
そんななかで、自分の立ち位置を決められるのは、結局のところ、自分しかいない。
この物語には「正解」がありません(たぶん)。
「意識高い系」がいて、その背伸びしている姿を「観察者」として笑う人がいて、その「観察者」が自分では何もしていないことを嘲る人がいて、その人を「ブーメラン」だと攻撃する人がいて……
どのポジションも、ラクじゃない。それだけが、確かなこと。
この作品のなかでは、まるでサッカーの試合のように、それぞれの登場人物が自分の「ポジショニング」を意識している姿が丁寧に描かれているのも印象的でした。
登場人物の身体と心の動きが、良質の解説を聴きながらサッカーの試合をみているように、読んでいて伝わってくるのです。
さすが『桐島、部活やめるんだってよ』で「スクールカースト」というやつを言葉にしてみせた朝井さん。
僕にとっては、就職活動の深刻さよりも、「現実の自分」と「ネットの中の自分」との乖離や葛藤について、すごく意識させられる作品でした。
それにしても、まだ23歳という若さで(若さだからこそ、かも)これを書いた朝井リョウさんの「時代と伴走する力」はすごいと思うし、それと同時に、SNSの話題が頻出してくるこの作品を『直木賞受賞作』に決めた選考委員の「見識」にも驚かされました。
『桐島』と同じように、「若者向けっぽい感じがする小説」なのですが、「ネット中毒の中年男」にも、かなり深く刺さりました。
「きっと『何者』にもなれない」あなたへ、そして僕自身へ薦めたい。
ただ、読んでも混迷が深くなるだけで、救われるわけじゃないんだよね、これ。
「ああ、自分だけじゃないんだ」とは思うけどさ……