琥珀色の戯言

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【読書感想】日本文化の論点 ☆☆☆☆


日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

NHK ETV特集「ノンポリのオタク"が日本を変える時~怒れる批評家・宇野常寛~」』『ニッポンのジレンマ』などで話題の著者・宇野常寛の初新書。


ニコニコ動画食べログコミケAKB48ソーシャルゲームボーカロイドゲーミフィケーション……。本書はポップカルチャーの論点を抽出し、「今」という時代の地図を描き出す。僕たちは今、何に魅せられているのか? 僕たちは今、どんな時代を生きているのか?
サブカルチャーやインターネットといった陽の当らない〈夜の世界〉から、日本の今とこれからを問いなおす。政治も経済も行き詰まった〈昼の世界〉を変えるために、人間と情報、人間と記号、そして人間と社会との新しい関係を説く、渾身の現代文化論!


【本書で扱うトピックス】
・マスからソーシャルへの地殻変動 ・情報技術の生む新たな「中間のもの」
・人間をどのようなものとしてイメージするか
・新しいホワイトカラーと東京
・地理と文化とインターネット
・「夜の東京」を夢想する
クール・ジャパン戦略会議
・二次創作のインフラと日本的想像力
・音楽ソフトはなぜ売れなくなったのか
・カラオケとJ‐POP
ゲーミフィケーションと社会
・「反現実」とファンタジー
・「虚構の時代」の終わりと東日本大震災
・〈夜の世界〉から社会を変えるために


【目次】
序章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉へ
論点1 クール・ジャパノロジーの二段階論――集合知と日本的想像力
論点2 地理と文化のあたらしい関係――東京とインターネット
論点3 音楽消費とコンテンツの「価値」
論点4 情報化とテキスト・コミュニケーションのゆくえ
論点5 ファンタジーの作用する場所
論点6 日本文化最大の論点
終章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉を変えていくために
あとがき
付録 『日本文化の論点』を読むキーワード

ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011年)などで知られる、宇野常寛さん初の新書。
前半部はかなり興味深く読みました。

 たとえばインターネットの普及以降、誰もが情報の発信者になった。この変化は一見シンプルですが、実は僕たちと情報、「文字」や「数字」との関係を根本から書き換えています。僕たちは、おそらく有史以来はじめて日常的に「書かれたもの」でコミュニケーションを取っている。これは、長く「書かれたもの」が仕事上の書類(つまり専門家がその分野について記したもの)か、「手紙」という非日常的なコミュニケーションに限られていたことを考えると、とても大きな変化だと言えます。

あらためて言われてみると、たしかにその通りで、「インターネット以前」は、見ず知らずの人と「書かれたもの」でコミュニケーションする機会なんて、(ごく一部のラジオパーソナリティやメディア関係者以外は)ほとんどありませんでした。
それが、今となっては、こうして僕が「書いたもの」を読んでくれる、面識のない人たちがいるわけです。
いまから30年前、いや、20年前でさえ、そういうコミュニケーションは、ほとんど行われていませんでした。
そもそも、「書かれたもの」の大部分は「それなりに完成形として清書されたもの」であり、今みたいに、未完成の思考経路がtwitterで垂れ流される、なんてことはありえなかったんだよなあ。
それは、本当に「劇的な変化」なのだと思います。


クール・ジャパン」の海外進出が難しい理由と、その対策について、著者は、2012年4月の『ニコニコ超会議』のなかで行われたシンポジウムで、こんなふうに述べています。

 壇上に登った僕はこう主張しました。この種の議論が陥りがちな罠ーーそれは国内のアニメやゲームというソフト「そのもの」を輸出してしまおうとするところにある、と。では何を輸出すればいいのか。それはソフトウェアではなくハードウェアーー作品そのものではなく作品を楽しむ(消費)環境そのものーーマンガやアニメやゲームではなく、コミックマーケットコミケ)やニコニコ動画といったコミュニケーションのインフラそのものに他ならないのだ、と。

これには「なるほど」と唸らされました。
もう、「作品そのもの」では、あまりに多様化してしまった多くの人々の好みには、対応できない。
それならば、それぞれの人々が、自分たちの好きな作品を簡単につくり、やりとりできるようなインフラを「輸出」するべきなのではないか?
とはいえ、現時点では、『ドラゴンボール』や『ドラえもん』みたいに、日本のアニメでも世界で観られているものはたくさんあります。本当に優れたものは国境を超えるのも確かです。
それに、システムの輸出というのは、おそらく、「夜の世界」の人たちにとっては、世界中で新しい作品が生まれるきっかけになるのだから有意義なはずですが、日本経済の枠で考えると、個々の作品を輸出するのに比べると、そんなに「儲からない」ような気はします。
うーん、そうやって土壌をつくることができれば、日本初のサブカルチャーも、受け容れられやすくなる、ということなのだろうか。


ちなみに、この新書では、著者の友人の濱野智史さんが提唱している<昼の世界>と<夜の世界>という言葉が頻出してきます。

 奇跡の復興をとげ、世界にほこる「ものづくり」の技術と高い民度を誇る戦後日本ーーそしてそれゆえに21世紀の現在においては決定的な制度疲労を起こし、ゆるやかに壊死しつつある「高齢国家」日本という姿は、この国の、この社会の「表の顔」いわば<昼の世界>の姿にすぎません。
 しかし「失われた20年」と呼ばれるこの世紀の変わり目に、戦後的なものの呪縛から解き放たれたもうひとつの日本、もうひとつの世界が生まれ、育ってきています。
 それはサブカルチャーやインターネットといった、この国に生まれたあたらしい領域の世界です。この陽の当たらない<夜の世界>こそ「失われた20年」の裏側でもっとも多様で、そして革新的なイノベーションとクリエイティビティを生み出してきた領域だと言えます。

著者は<夜の世界>に属するものとして、

 ソーシャルメディア動画共有サイト、匿名掲示板、アニメ、アイドル、コンピューターゲーム……。これらの文化はこの20年で日本独自の、いわゆるガラパゴス的な発展を遂げています。

と書いています。


たしかに、この「失われた20年」は、これらの文化にとっては「熟成の時代」だったんですよね、それはよくわかる。
でも、著者より少し年上の僕からみても、10年前ならともかく、いま、この2013年において、これらを「日陰の文化」的な文脈で<夜の世界>と呼んでしまうのは、あまりにも「マイノリティ意識過剰」なのではないかという気がします。
ソーシャルメディアなんて、すでに「現実そのもの」になってきていますし、アニメもコンピューターゲームも「一部のコアなマニアを除けば、ごく普通の趣味」です。
動画共有サイト」とか「匿名掲示板」は、実際にアクセスしている人の数を考えれば、もうマイノリティのものではないかもしれませんが、それが趣味であることを公言しにくいという意味では、まだ「夜のもの」かな。


正直、これをわざわざ<夜の文化>だと区分けする意味そのものが、現在では薄れてきていると思うのです。
そういう、「アンダーグラウンドの消失」こそがまさに「日本文化の特徴」となっているのではないかと。


この新書、途中までは、あれこれ考えながら興味深く読んでいたのですが、「論点6」のこの文章で、ちょっと拍子抜けしてしまいました。

 本章では本書のまとめとして、現代日本文化最大の論点ーー「AKB48」ーーについて考えましょう。

……ごめん、もう「AKB48論」飽きてきた……
濱野さんの『前田敦子はキリストを超えた』と同じような内容だし。
いや、いままでまったく「AKB48が起こした革命は、CDやDVDといった「形」ではなく、推しメンと握手できるというような『体験』を前面に押し出したものだった」というような話を読んだことがなければ、新鮮な気持ちで読めるのではないかと思うのですが……
あるいは、僕がそういう本ばかり選んで読んでいるために、飽きてしまっているだけなのかもしれませんが……


「AKB大好きな著者が、思い入れをこめてAKBを語る」というのは、この新書が「日本文化論」と題されている以上、ちょっと特定の対象に入れ込みすぎているような感じなんですよね。
AKBが「いまの日本らしいコンテンツ」であることは、多くの人が認めると思うけど、これまで「日本文化論」として読んできて、こんなふうにジャジャーーンと「AKB論」をはじめられると、「なーんだ、結局AKBの話がしたいだけで、いままでのは『前置き』だったのか……」と、がっかりしてしまうんですよ。
しかも、そこで書かれているAKB論は、とくに斬新なものではないし。


うーん、でもこうやって「もうAKB論にも飽きた」と思われてしまうことが、AKBにとってはひとつの「転換期」なのかもしれませんよね。


とか言いつつ、この新書のなかで、僕がいちばん印象に残ったのは、この文章でした。

 現代の情報社会は、ひとりの天才の仕事(エリーティズム)よりも、100人の凡才の部分的な才能を集約した仕事(ポピュリズム)のほうが精度が高く、クリエイティブなものを残しやすくなっている(集合知)。その代表が初音ミクニコニコ動画であり、その象徴がAKB48であると言えます。そして、こうした集合知を機能させるには、すぐれた作家=天才ではなく、すぐれたシステム設計者=天才的な詐欺師の存在が必要不可欠なのだ
ーーそう僕は語りました。
 そして、この僕の回答はそのままAKB48の弱点を表していると考えています。それは秋元康がひとりしかいないことです。たとえばいま秋元康が暗殺された場合、この未曾有の文化現象はたちまち空中分解することは間違いありません。
 前述の濱野智史は、AKB48の拡大を「スケールアウト」という概念で説明しています。スケールアウトとは、コンピューター用語で、ひとつの巨大なスーパーコンピューターをつくるのではなく、サーバーの数を増やすことでサーバー群全体のクオリティやパフォーマンスを向上させる戦略のことです。そして現状において、AKB48以外にSKE48NMB48HKT48とまさにスケールアウトで拡大を続けています。このとき足かせになっている最大の問題が「秋元康はひとりしかいない」ことです。

これを読みながら、「これからの時代は、カリスマ的な『ひとりのクリエイター』を必要としない時代なのかな」と思ったんですよね。
もしかしたら、「生身のアイドル」すら不要なのかもしれない。
まずシステムがあって、そこにみんながそれぞれ得意なものを部分的に持ち寄り、特定の作者の名を持たない「ツギハギだらけの傑作」が主役になる時代。
クリエイター、あるいは、「クリエイターとして食べていける人」というのは、もう「絶滅危惧種」なのかもしれません。


いくつか気になるところはあるのですが、「いまの日本文化についての、興味深い一考察」ではあると思います。

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