琥珀色の戯言

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【読書感想】人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか ☆☆☆☆


人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
熟考したつもりでも、私たちは思い込みや常識など具体的な事柄に囚われている。問題に直面した際、本当に必要なのは「抽象的思考」なのに―。「疑問を閃きに変えるには」「“知る”という危険」「決めつけない賢さ」「自分自身の育て方」等々、累計一千三百万部を超える人気作家が「考えるヒント」を大公開。明日をより楽しく、より自由にする「抽象的思考」を養うには?一生つかえる思考の秘訣が詰まった画期的提言。


こんなふうにネットでものを書いていると、「もっと具体的に書いてくれないとよくわからない、役に立たない」なんて言われることがあります。
そういうとき、なんとなくモヤモヤとしながら、「たしかになあ、でも、なかなか具体的に書くのが難しいというか、具体的に書こうとすると、本当に言いたいこととちょっと違ってしまう場合があるんだよなあ……」なんて気がすることがあるんですよね。
この新書を読んで、そんなふうに感じる理由が、少しだけわかったような気がします。


ただ、「抽象的思考」から、現実に対して、臨機応変に対処法を引き出してくることができるほどの能力がある人というのは、そんなに多くはないのだと思います。
読みながら、「そうだよなあ」とか「そういうことだったのか」と頷くところも多かったのですが、こういう考えかた、生きかたを実践するのは僕にとってすごく難しい。
森博嗣先生のエッセイを読んでいると、すごく刺激を受けるし、自分も頭が良くなったような気分になるのだけれど……
結局これは、森先生だからこそ可能な生きかたではないのか、などと思うことも多いのです。
そういう声は、森先生のところにも少なからず届いているそうなのですが、だからといって、やってみようとしなければ、何も変わらないのですよね。

 小説というものを書いたことはなかったので、どんなふうに書けば良いのかわからないが、しかし、小説を読んだことはある。どういうものかもわかっている。だから、書いているうちに、効率の良い生産方法を見つけることができるだろう、と思い、とにかく書いてみることにした。書こうと思った次の日には、もう書いていた。
 長編を何作か続けて書いたが、自分なりの書き方がだいたい決まったのは、三作めだったと思う。その後も少しずつ修正を加え、十作めくらいには、ほぼ手法的に確立した。このあたりの詳しい経緯は、既に他書で記しているので、ここではこれくらいにしよう。

僕は「作家の自叙伝」的なものをけっこう読んできたのですが、実際、作家として成功した人でも、そのプロセスは千差万別です。
「なんとなく書いてみた作品が、賞をとってベストセラーになった」人がいれば、「何年も文章修業をして書き続けてきたけれど、なかなか上手く書けず、これでダメなら筆を折ろうと思っていた最後の作品で、ようやく認められた」という人もいます。
いろんな読者がいて、いろんな好みがありますから、いろんなタイプの作家もいる。
その中でも、森先生ほど「売れる小説を書く」という壁をアッサリ通り抜けてきたようにみえる人というのは、そんなにいないと思います。
先天的な才能が全てではないと思うけれど、後天的な努力で森博嗣にはなれないのだろうな、と。
森先生の場合は、その才能やライフスタイルを認めてくれるパートナーにも恵まれていますし。


ただ、「自分には手の届かない存在だから、森先生の思索に触れるのなんて意味がない」と考えることこそ、「思考停止」であり、「想像力を狭くしている」ということが、この本には書いてあるんですよね。


「自分とは違う」からこそ、「そういう人が世の中にいる」ということを、まず素直に受け入れてみるというのが大事なのでしょう。

 もう一つ、子供が突飛なことを言ったら、それを評価してやることが大事だと思う。
「馬鹿なこと言ってるんじゃない」などと無下に否定してはいけない。
 いつだったか、(たしか新聞の投稿で)子供が満天の星空を見て、「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して、「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが、とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい、と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が、明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。
 抽象的な思考力というのは、日頃から常に、既成観念に囚われないことを心がけて、少しずつ自分の中で育てるしかない。短絡的にこれを習得することはできない。つまり、抽象的にものを見る経験の蓄積でしか得られない能力なのである。抽象的な見方を縦軸にして、横軸に時間を取ったグラフの場合、抽象的思考力は、その積分に比例して育つ、といえばご理解いただけるだろうか(余計に難しいかな……)。

僕は自分の息子が「蕁麻疹みたい」って言ったら、どう反応するだろう?
「面白い」と感心したあとで、「でも、そういう発想だと、将来この子が苦労するんじゃないか」とか考えて、「うーん、でもお星さまって、キラキラして綺麗だよね」とか、「誘導」しようとするのではないかと思うのです。


森先生は、原発についての発言で、反対派からの批判を受けていたようです。
活断層の上に原発があるのが危険ならば、大地震の際により即時的に影響を受けそうな鉄道が活断層の上を通っていることに対して、

「どうして、原発は即廃止で、鉄道は廃止しなくても良いのか?」という「疑問」を書いただけで、「福島の人の気持ちをどう思っているのか?」と怒り出す人がいるのだ。

と書かれています。
森先生は「原発に賛成しているわけではない」と明言されているにもかかわらず、先鋭化した「原発反対派」のなかには、このような疑問に対して、「福島の人の気持ち」を持ち出してくる人がいるのです。
本来、そういう疑問に対しては、たとえば「鉄道は大地震で事故を起こしても命を落とすのは乗員乗客のみで、日常生活における鉄道のメリットを考えると、そのリスクは受け入れざるをえないと考えている。それに対して、原発は事故の際の被害が広範かつ長年にわたる可能性があり、日本、あるいは人類そのものの存亡にかかわることもありうるから」というような「答え」を返すべきなのでしょう(ただし、これはあくまでも僕なりの答えの一例であって、これで森先生が納得してくれるかは甚だ疑問ではあります)。


まあ、森先生のような弁が立つ人に対して、「この非常事態に、ああだこうだと重箱の隅ばかりつつきやがって!」と言いたくなる原発反対派の気持ちも、僕はわかるような気がするんですけどね。

 領土問題にしても、「あんな島、向こうにやれば良いではないか」という意見を、僕は何人かから直接聞いた。しかし、そういう意見を、マスコミは決して伝えない。何故だろう? 日本人だったら、絶対に言ってはいけないことなのだろうか。
 ロシアの学者で、北方領土は日本のものだと主張している人がいる。これを知ったときには、「ああ、ロシアというのは、さすがに先進国だな」と僕は思った。成熟した社会であれば、いろいろな意見が出て、それを公開できるはずだし、冷静に、喧嘩腰にならずに、議論ができるはずなのだ。それができないのは、僕には「遅れている国だな」としか思えない。マスコミはもう少し考えて、賢くなってもらいたい。いちいち「日本固有の領土である○○」なんていわず、「両国がお互いに領土だと主張し合っている○○」と言えば良い。それが客観的な報道ではないだろうか。
 もちろん、僕は日本人だから、「あの島が日本のものだったら良いな」とは感じる。でも、そんな希望で話をするわけにはいかない。注意をしてもらいたいのは、「願い」を「意見」にしてはいけない、ということだ。


「願い」を「意見」にしてはいけない。
これはたしかにそう思います。
ただ、それが「自分に深く関わること」であればあるほど、「自分の立場から集めた、偏りのある事実」を「客観的なデータ」だと判断してしまいがちなんですよね。


僕は最近、森先生の著作を読むたびに、「他人事だと思いやがって!」みたいな気分になることが多いのです。
でも、「親身になってくれているように見せかけて、他人を操ろうとする人」の多さを考えると、こんなふうに考える機会を与えてくれる森博嗣という存在は、やっぱり貴重なのではないかと思います。

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