琥珀色の戯言

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【読書感想】辞書を編む ☆☆☆☆


辞書を編む (光文社新書)

辞書を編む (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「右」「愛」「萌え」「キャバクラ」…。あなたなら、これらのことばをどう定義するだろうか。国語辞典を引くと、語釈の特徴が辞書によってそれぞれ違う。われらが『三省堂国語辞典(サンコク)』は、他の辞書とは違った視点で集めたことばに、誰にもまねのできない語釈をつけたい。でも、どうやって?―『サンコク』の改訂作業に追われる辞書編纂者が、辞書作りの実際を惜しみなく公開、「感動する辞書を作りたい」という情熱を語る。街なかでの用例採集、語釈をめぐる他辞書との競争など、知られざるエピソードを通じて、国語辞典がいかに魅力に満ちた書物であるかを伝える。


◎目次
第1章 【編集方針】――雑誌・新聞・単行本をどのように作るかという方針
第2章 【用例採集】――そのことばが実際に使われた例を集める
第3章 【取捨選択】――必要なものだけを選び取り、必要でないものを捨てる
第4章 【語釈】――語句の解釈・説明をする
第5章 【手入れ】――なおす、手を加える
第6章 【これからの国語辞典】――将来の国語辞典をどうするか/どうなるか考える

 「辞書編纂者」による、「どうやって辞書はつくられるか」を紹介した新書。
 三浦しをんさんの『舟を編む』の影響もあって(三浦さんもこの本のオビに推薦文を寄せておられます)、最近「辞書」があらためてクローズアップされているようなのですが、この本を読むと、「辞書編纂者は、実際にどんな日常をおくっているのか」が、より詳しく理解できます。


 著者は『三省堂国語辞典』の生みの親である、見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)という辞書編纂者のことを書いておられます。
 この人は『三省堂国語辞典』の初版から第4版の編集主幹を務めたそうなのですが、この人が本当にすごい。

 この人のどこがすごいか、どこが神様なのか。一言で言えば、生涯に145万語の日本語の用例を採集した、ということに尽きます。
 用例採集については、くわしくは第2章で述べますが、辞書編纂のために欠かせない基礎作業です。まだ辞書に載っていないことばはないか、あるいは、まだ載っていない用法はないかと、活字や音声、街の中などから、来る日も来る日も、ことばの実例を探します。見坊の場合、そうして集めた用例の総数が実に145万語に達したというのです。
 見坊豪紀は、1914年に東京に生まれました。岩手大学教授、国立国語研究所第三研究部長などを歴任し、1992年に亡くなりました。国語辞典編纂にたずさわったのは、1939年から亡くなるまでの約50年間です。
 計算してみましょう。集めた用語145万語を50年で割ると、2万9000語になります。実際には、用例採集に本腰を入れ始めたのは、1960年12月に『三国』初版が世に出た直後からだそうです。すると、正味は30年あまりということになるので、1年に4万数千語を集めた計算です。
 いったい、人間業でこれだけ集められるだろうか、ということです。
 私は採集してデータ化する用例の数は、どのくらいの規模になるか、記しておきます。1か月にがんばって500語ぐらい。ふつうは400語ぐらいです。単純計算で、1年に5000語ぐらいということになります。一方、見坊は4万数千語を集めていたのですから、その差は約10倍です。
 なんでそんなことが可能なんだ! 新しいことばなんて、1年間に4万語もないぞ!
 見坊の集めた145万語という数が嘘でないことは、三省堂の倉庫に行くと分かります。立ち並ぶ移動式書架の中に、その名も「見坊カード」という、七夕の短冊形の用例カードがぎっしりと詰まっています。それぞれのカードには、新聞・雑誌などから切りぬいた原文が貼りつけられ、見出し・出典・日付・ページなどが書きこまれています。1960年代から約30年間の日本語の膨大な資料が、丁寧に整理されて(晩年のものは未整理のものもありますが)、順番に並んでいるのです。
 これだけの成果を上げるためには、生活する時間のすべてを用例採集に充てなければならないはずです。事実、見坊は、晩酌もしなかったそうですし、家族との時間もあまり持てなかったと言います。さらには、用例採集に集中するため、53歳で国立国語研究所を辞めてしまったというのですから驚きます。

 こんな「辞書の鬼」みたいな人が、実際にいたんですね……
 辞書編纂を題材にした、三浦しをんさんの『舟を編む』のなかでも、日常生活のなかで、ひたすら用例採集に励む辞書編纂者たちの姿が描かれているのですが、145万語というのは、ちょっと信じられない数です。
 でも、実際に見坊さんが集めたことばのカードが、残されているんですよね。
 しかも、この人は、いまから20年くらい前まで、生きていたひとなのか……
 家族との時間も持たず、国語研究所をやめてまで、用例採集を続ける人生。
 こういう人がいればこそ、辞書はつくられたのです。


 辞書編纂者というのは、部屋にこもって本ばかり読んでいるのかと思いきや、著者は、街で積極的に新しいことばを集めているのです。
 八百屋やタレントショップで新しいことばの用例を写真に撮ったり、女子高生の会話をメモしたり……
 その一方で、「古い言葉」を次の版でも持ち越すかどうかも決めなければなりません。
 まさに「辞書は生もの」。

 国語辞典の編纂者にとって「カード」と名のつくものは、第一に「用例カード」です。現在はパソコンの時代ですから、「用例データ」と言います。国語辞典を作る基礎資料とするために、何年にもわたって新聞や雑誌、書籍、放送などから地道に集め続ける、あの用例を記録したデータです。「編纂者にとっての宝」と言えば、まずはこれです。
 たとえば、「家」なら、「そろそろ家を買おうか」「家の名誉を傷つけおって」など、「家」が実際の日本語の中で使われたものが「用例」。その使われ方と比較検討することで、ことばの意味が明らかになります。それを文章の形でまとめたものが「語釈」です。「用例」と「語釈」とは別物であることを確認しておきます。
 では、この「語釈カード」(語釈の原稿)は、編纂者にとって宝かどうかと言えば、これももちろん宝です。万が一失われたら、大泣きするしかないでしょう。
 ただ、語釈の原稿は、泣きながらでも、長い時間をかけてでも、書き直すことができます。一方、用例データは、一度失われてしまうと、もう取り返しがつきません。「こういうことばが存在し、いつ、どういう媒体に載っていた」という事実を記した。貴重な記憶です。この記録があってこそ、語釈も書けるのです。

 僕は、辞書をつくる人がいちばん重視するのは、「言葉の意味を、どう説明するか」=「語釈」だと思っていました。
全員が同じ、ではないのかもしれませんが、著者の場合は「用例採集」を重視しているのですね。
 「その言葉が、実際にどのように使われているのか」を確認しなければ、辞書には載せられない。「知っているつもり」ではなく、具体的な例が必要不可欠なのです。


 しかし、「語釈」というのも難しい。
 というか、言葉で説明するのが大変なものって、ありますよね。
 この新書のなかでは、「右」という言葉に対する、いくつかの辞書の語釈が紹介されています。
「『右』って、説明できる?」
 映画『舟を編む』でも、このセリフが出てきたのですが、「右」とは何かを、目の前にいる人に身振り手振りで説明するのではなく、言葉だけでわかるように伝えるのは、すごく難しいのです。

 では、どうすればいいか。多くの国語辞典は、方角を使って説明します。
 

 みぎ【右】(1)空間を二分したときの一方の側。その人が北に向いていれば、東にあたる側。⇔左。「――を向く」(『大辞林』第3版)


 みぎ【右】(ニギリ(握り)の転か)(1)南を向いた時、西にあたる方。⇔左。(『広辞苑』第6版)


 といったあんばいです(「左」の説明もこれに準じるので省略)。これですっきりしたようですが、では「南」はどうかと引いてみると、<日の出る方に向かって右の方向>などと、再び「右」が使われています。「左右」の意味を「東西南北」で説明し、「東西南北」を「左右」で説明するのは、循環論法です。
新明解国語辞典』は、この点、工夫しています。


 みぎ【右】(1)アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。(「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致)(『新明解国語辞典』第7版)


 この語釈は、なかなかイメージを喚起する力があります。「時計」「漢字の『明』という日常的な例を使っているところがいい。ただ、「アナログ時計」という言い方が、かえってむずかしいという難点があります。たしかに、デジタル時計全盛の現代、単に「時計」と言うわけにはいかないのは分かりますが、もう一工夫ほしい。
 そこで、『岩波国語辞典』の登場となります。『岩波』は、1963年の初版で、「右」について、簡潔な、しかも核心を衝いた語釈を施しました。


 みぎ【右】(1)相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方、また、この辞書を開いて読む時、偶数ページのある側をいう。⇔左。(『岩波国語辞典』初版)

 
 方角による説明は他辞書と同じですが、<この辞書を開いて読む時、偶数ページのある側>という定義は非常に斬新でした。「右」の説明が、「そこにいるあなた」「○○ちゃん」を基準にするしかないことをよく踏まえています。辞書を使う人は、この説明を見てからページ番号を確認すれば、「右」がどちらかが分かります。

 この『岩波国語辞典』の【右】は、名語釈として語り継がれているそうですが、電子辞書化されると、この説明では通じないという問題も出てきているそうです。
 それにしても、これを読んでいうと、「簡単なものほど、難しい」というのはありそうですよね。
 そもそも、「東西南北」がわかる人なら、「左右」はそれ以前に知っているのではないか、とも思うし。

 
 この本を読んでいて意外だったのは、著者が「電子辞書」に対して、「みんながそれを求めているのであれば、紙の辞書にばかりこだわる必要はない」というスタンスをとっていることでした。
 著者の場合は、日頃から「電子書籍世代」の学生たちに接している影響も大きいのだとは思いますが、つねに新しい言葉を受け入れるという姿勢は、こういう新しい媒体への適応力にも反映されているのかもしれません。
 その一方で、言葉の解釈の変遷を辿る必要性から、資料としての紙の辞書も残しておいてほしい、とは仰っておられますが。

 
 最近ちょっと「辞書ブーム」でもありますし、僕もあらためて「めんどくさがらずに辞書を引いてみようかな」なんて考えています。
 「辞書」に興味がある人にとっては、なかなか興味深い新書だと思いますよ。

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