- 作者: 太田光,NHK「探検バクモン」取材班
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/05/17
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
子どもの自殺をきっかけに、過去に幾度となく、いじめは社会問題となっている。どうして悲劇は繰り返されてしまうのか。そもそも、なぜいじめは起きてしまうのだろう?いじめられたことのある子どもたちや、“いじめ”を起こさない学校を、爆笑問題がNHK「探検バクモン」スタッフとともに現場取材、その深層を探っていく。さらに、尾木直樹氏らの専門家、いじめを乗り越えたゲストたちと徹底討論。いじめに対処する方法について真剣に議論する。
僕はこの番組を観たことがなかったのですが、書店でこの新書を見かけて買いました。
大津市の「いじめ」の話題もすっかり下火になってきたのに、「いまさら」こんな本を出しても、ちょっとセールス的には失敗なんじゃない?とか思いつつ。
読んでみて、なんだかものすごく考えさせられました。
これまでの「いじめについての、有識者の意見」には、正直、何か引っ掛かるものを感じていましたし、この新書の内容にも、100%満足、というわけではないのです。
それでも、この新書には、これまであまり語られることがなかった「視点」が含まれているのですよね。
それは、爆笑問題の太田光さんの存在。
太田さんは、学生時代「ずっといじめる側」だったそうです。
そして、高校生のとき3年間友達が全然できなくて、クラスメイトと会話を交わすこともない時期があった、とも。
(いじめられていたわけではないようですが)
「いじめ」について語られる場合、「いじめられる側」からの話になることがほとんどです。
「いじめ」を受けることのつらさ、「いじめ」を受けても、死んではいけないという励まし、「逃げろ」というメッセージ……
「いじめは良くない」「いじめるほうが悪い」(その一方で、「いじめられる側にも責任がある」と内心考えている人もいるようです)。
有名人やマスコミ関係者などには「いじめる側」にいた人も、少なくないはずです。
にもかかわらず、「なぜいじめたのか?」と語る人は、非常に少ない。
まあ、当たり前ですよね、そんなことを口にすれば、いまの世の中、ネットで「炎上」することは目に見えているし。
太田光さんは、芸人として大成功していて、多くの人に憧れられる存在です。
にもかかわらず、この番組のなかで、太田さんは、「いじめる側の立場」を、きちんと自分の言葉で語ろうとしています。
田中裕二:太田さん、いじめっ子だったでしょ。
太田光:そうですね。いまだにいじめをやってますから。
田中:毎日人をいじめてますから。今日、俺もいじめられたし、小島(慶子)さんも。
太田:人がつらい様子を見るのが好きなんですよね。
小島慶子:人がつらがっているのを見ると、自分のほうが上になった気持ちになれるから?
太田:うーん。いや、要は、人が困っている姿って、なんか見たくありませんか?
田中:それは誰の中でも実はちょっとはあるとは思う。いじめっ子とかそういうことではなくてね。
太田:自分が手を下さなくてもだよ。誰かがいじめられている姿。たとえばいじめを苦に自殺した事件が発生すると、誰もがいじめっ子たちには怒りを感じるわけですよね。すると、今後は誰かがあいつらの実名を暴いてやれとなっていく。あいつらを同じように困らせたいと。でも気がつくと、死んでしまった子と同じ状況に今度はそいつを追い詰めている。そこまで気がつかないんだよね。
「人がつらい様子を見るのが好き」なんて、ひどい話です。
でも、それは僕にとっても「建前」でしかなくて。
理性はさておき、感情において、たとえばネットでいけ好かない人が「炎上」していると、ディスプレイの前でニヤニヤしてしまう僕がいる。
自分でも情けないけれど、それが現実。
この本のなかで、国の教育政策の担当官が「いじめは30年くらい前からの問題と認識している」と話しているのを読んで、僕は絶句してしまいました。
そうか、それが「国の認識」なのか……
30年前といえば、僕が小学生〜中学生の頃。
でも、僕がこれまで読んできたさまざまな本のなかには、その時代より前の「いじめ」がたくさん書かれていました。
たとえば、太平洋戦争中の疎開先で。
あるいは、明治維新後、幕府側についた藩の人たちに対して。
もっと広い範囲での「いじめ」を考えれば、中世の魔女裁判やナチスのホロコーストも「いじめ」なのではないでしょうか。
「30年前」というのは、あくまでも「いじめが社会問題として、マスメディアに採り上げられはじめた時期」でしかありません。
正直、絶望的な気分にもなるんですよ。
だって、少なくとも、30年間、社会は「いじめは悪い」というメッセージを発し続けているはずなのに、「いじめが存在しない時代」が来ることは、一度もありませんでした。
もちろん、個々の学校や地域の範囲で、「いじめがない状況」をつくれることはあったのだとしても。
これって、人類にとっての「戦争」と同じなのかもしれません。
小島慶子さんが、この本のなかで、こんなふうに仰っています。
いじめに関する啓発の文言で、いじめはかっこ悪いことだと書いてあるのを読んで、違和感を覚えました。かっこ悪いどころか犯罪だと書いていいと私は思うんです。いじめはいけない、いじめられた人は助けてあげようというメッセージはすばらしい。ただ、気になるのは、いじめが語られる時に、いじめている人間がそこにいないこと。そこはアンタッチャブルで、出てこない。いじめている人間はどんな人間なんだろうと興味を持つことすら、まるで肩を持つみたいに言われてしまって、誰も触れられない。
ああ、確かにそうだなあ、と。
「いじめている側も子どもだから」「人権を尊重して」隠蔽され、アンタッチャブルな存在になってしまう。
そういう風潮への反発が、ネット上での加害者の「実名晒し」などにつながっている面もあるのです。
難しい問題ではありますが、「いじめている側」を、罰するためだけではなく、今後の予防のために分析していく必要はあるのではないでしょうか。
「いじめは悪い」「あってはならない」それは事実だと思う。
でも、「いじめは存在するし、おそらくこれからも根絶することはありえない。では、その中で、少しでもマシな世の中にしていくには、具体的にどうするべきか?」も考えるべきではないでしょうか。
この新書のなかで、不登校となった子どもたちのためのフリースクール、「東京シューレ葛飾中学校」が紹介されています。
そのなかで、こんな話が出てきました。
小島:トイレがとても綺麗ですね。
田中:なんでトイレがこんなに綺麗なの?
奥地圭子(「東京シューレ葛飾中学校」の先生):普通の学校のトイレと比べて、何かお気づきの点はありますか?
田中:まず綺麗。それから明るいし、広い。
奥地:はい。あと個室がたくさん作ってあります。やっぱり学校のトイレでいじめが起きやすいんです。
太田:うんこするといじめられたよね。
奥地:「大」に入れない子どもたちですね。ここはそういういじめを受けて来ている子もいるので、トイレはとても大事です。「小」のほうを少なくして、個室をいっぱい作ると、大でも小でも使うので実際に気にならないわけですね。
田中:そこまで考えているんだ。
奥地:それを考えたのは実は子どもたちです。どういうトイレがいいかとアンケートをとりました。色も希望が多かったものにしています。個室の上に壁みたいなものがついているでしょう。
田中:これは、上から水がかけられないようにですね。
いじめの問題って、どうしても「心の問題」として取り扱われがちだと思うのです。
もちろん、それは事実ではありますし、「心を入れ換える」ことができれば、いじめはなくなるかもしれない。
でも、それは、そんなに簡単なことじゃない。
だからこそ、こういう「環境を変えることによって、いじめる行為をやりにくくする取り組み」には、すごく意味があるし、「技術で改善できるところがあるのなら、それを利用する」ことをためらってはいけない、と思います。
もちろん、一般の学校では、トイレの数がたくさん必要でしょうし、改装費用の問題もあるでしょう。
それでも、「こういうアプローチのしかたもある」ことは、もっと広く知られるべきです。
この新書を読んでいて痛感するのは、「いじめ」について「共通見解」など存在しないのだ、ということです。
いじめた人、いじめられた人、傍観していた人……
いじめられた人のなかでも、それをバネにして成功した人は饒舌で、そのまま沈黙することを選んだ人の言葉は、なかなか表に出てきません。
いじめた人も、社会的に成功してしまえば、「いじめた体験」は封印してしまいます。
収録されている座談会で、「いじめを苦にして自殺すること」に対して、出席者はこんなふうに述べています。
太田:僕が引っ掛かっているのは、自殺でこれだけ問題になるわけだよね。これは俺の考えだけど、要は、誰も死にはかなわないんですよ、死を武器にされたら。攻撃は全部いじめた側にいってますね。社会はワーッといく。その時に、今度はいじめた側が死んだらどうするんだろうと、俺はちょっと恐怖がある。これは言いにくいけど、やっぱり自殺という選択の中に、もちろんこのままじゃいられないという本当につぶれちゃうという気持ちと、もう一つやっぱり思い知らせてやるという復讐心が。
春名彩花:自分が死んだら、いじめが発覚していじめた子たちはピンチに。
太田:傷つくだろうってね。仮に、そういう気持ちもあるとするならば、いわゆる自殺という行為もいじめじゃないですか。
これに対して、「尾木ママ」こと尾木直樹さんは、こう話しておられます。
尾木:いじめで自殺された時、ショックからいじめている加害者が次は自殺してしまうんじゃないかということを学校の校長先生は気にされる。だけど、僕は35年間ほどいじめを研究していましたが、いじめの加害者が、被害者が亡くなったからといって後追い自殺だとか、責任を感じて自殺したなんていう例は聞いたことがないんです。海外のケースを見てもない。なぜかというと、いじめの加害者は遊びだと思っているわけです。本当に遊びだったと思っているから。
大変なことをしたのだと気がつけば、とてもつらい思いをするでしょうけれども、そこへ我々も持っていかなければいけない。そう指導しなければいけないのですが、加害者側は残念ながら悪いことをした、いじめをしたとなかなか思えていないのです。
このアンバランスさが、いじめの大きな問題点なのかもしれません。
自殺までして訴えても、いじめた側には、ほとんど響いていない。
この話のあと、いじめられていた生徒側の心情を、ある生徒が代弁しています。
彦田:ちょっと話が戻るんですけど、どうしても自殺をするほかなかったわけです。私は、死んでしまった人のことを否定できない。やっぱりそれしか方法がないからで、反撃しようと思ったわけでもないし、相手を困らせようと思ってしているわけでもないと思う。いじめた子に対して仕返しをしたいって本当に思ったのかなって思う。
太田:それはわからないと思います。
彦田:いじめられてつらい人は、もちろん親に心配かけたくないし、親に知られたくないという気持ちはたぶんある。そういうふうに追い込まれて死んでしまったことを、どうしても否定できないんです。その気持ちを受け止めてあげたい。「死なないで」というメッセージはもちろんそうなんだけれども、「じゃあ死なない方法を教えてよ」と。
「復讐という面もある」
「復讐としては無意味だ」
「いや、誰かへの復讐じゃなく、ただ、追いつめられて自殺するしかなかったんだ」
「いじめ被害者の自殺」に対しても、人は立場によって、違うことを考えるのです。
この「違い」の存在を知ることから、まずは始めなくてならないのでしょう。
誰かを叩くためにではなく、いま、ここにある「いじめ」の現実の一端を知るためのテキストとして、ぜひ読んでみていただきたい新書です。