琥珀色の戯言

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【読書感想】もたない男 ☆☆☆


もたない男

もたない男

内容紹介
断捨離ブームの中、これほどモノを捨ててしまう男はいない。 あの『じみへん』の作者である 漫画家・中崎タツヤは「捨てなくても捨てられない」どころが「捨てたくてたまらない」。 結果、部屋には何もなく、いつでも引っ越しOK。 常に無駄なものはないか考えている。 捨ててみてはじめてわかる大切なものがある。 人はどこまでモノをもたずに生きられるのか?


『じみへん』の中崎タツヤさんによる、「捨てずにはいられない生活」の記録。

 10年以上前、『じみへん』のなかで「仕事場にものがない漫画家、五本の指に入る」と書いたことがあったんです。
 それで、『ビッグコミックスピリッツ』の公式サイト「SPINET」で仕事場の写真を載せたんですが、けっこう反響がありました。
 写真は和室の六畳間にデスクと事務用椅子があって、壁にカレンダーが貼ってあるだけだったんですが、とても漫画家の仕事をしているようにみえなかったんでしょう。
 その後、出戻りも含めて仕事場を6回ほど引っ越しましたが、最近は10年前よりずっとシンプルになってきています。
 いまの仕事場は3年半くらいになりますが、引っ越すごとにものが減っていき、ものがない漫画家として1位、2位を争うことになっているかもしれません。


(中略)


 ただ、仕事場にやってくる人はみんなギョっとした顔をします。
 部屋にはほとんど何も置いていないから「不動産屋に内見に案内されたみたいだ」なんていう人もいるくらいです。
 仕事場にはパソコンも家電製品もないから、エアコンを使う時期以外の電気代はほとんどかかりません。春や秋は基本料金を除くと100円ぐらいですね。
 ですから、私はすごいエコ生活をしているんです。


僕は「ものを捨てられない人間」なので、この本で中崎さんの仕事場の写真をみて、「これ、引越しの荷物を運び出した後の、不動産屋に引き渡す前の部屋?」と思ってしまいました。
モデルルームだって、もうちょっとモノが置いてあるだろう、と。
いくら「仕事部屋」だからといって、ここまで物が無い世界、僕にはちょっと信じ難いものがあります。
僕の場合、「仕事部屋」のつもりでも、「ちょっと気分転換のための本」とか「資料」とかを持ってきているうちに、いつの間にかモノだらけになってしまっているので……
ちなみに、この本によると、パソコンは昔から無かったわけではなくて、一時はハマって原稿もインターネットで送っていたこともあったけれど、違和感が生じてきて、元の仕事のスタイルに戻し、パソコンも捨ててしまった」そうです。
最初から「買わない生活」なのではなくて、「買うのも好きなのだけれど、よほどの理由がないと、それをずっと所有しておくことに耐えられない」のだとか。

 私が捨てたいものとしては……例えば、ボールペンのキャップにはクリップが付いてますよね。シャツのポケットにペンをさしておくときは便利なんですけれど、私はシャツのポケットにペンをさすことはないので、必要ないと考えてしまう。
 そういう些細なことから「ああ、捨てたい」と思うんです。
 ボールペンのキャップのときは、結局、クリップを削っちゃったんですが机の上に置いておくと、転がってしまったんです。それが狙いかどうかはわかりませんが、ボールペンのキャップのクリップには、シャツのポケットにさす以外にも機能があることを知りました。捨てることによって、無駄だと思っていたものの大切さを知ることがあります。
 また、ボールペンのインクが減ってくると、減った分だけ長いのが無駄な気がしてきます。ですから、ちょっと書きづらくなるんですけれど、インクが減るごとにボールペンの本体も短く削っていきます。その作業はすごく面倒です。面倒ですがやり遂げると、精神的にはすごく落ち着きます。
 傍目からすると、真剣な表情でカッターでボールペンを削って、作業を終えると達成感でニヤニヤしているおやじなんておかしいでしょう。
 自分でもそう思います。
 ですから、かみさんがそばにいると、妙な目でみられているのを感じます。


ここまで来ると、「モノを少なくして、シンプルな生活を」というよりは、「モノを少なくしたいという強迫観念」みたいなもの、なのかもしれません。
それは、中崎さんも自覚しておられるようです。それでも、他の人の迷惑にならない範囲では、やらずにいられないのだとか。
ボールペンのキャップのクリップなんて、削るほうがかえって面倒くさそうですし、書きにくくなってまで、ボールペンの本体を削るというのも本末転倒のように思われますし。


でも、この本を読んでいると、たしかに「いまの僕の人生において、本当に必要なもの、身近に所有しておかなければならないものって、何だろう?」とも思うんですよね、たしかに。
何年かに一度しか開かない(あるいは、本棚に並べて以来一度も触ってすらいない)本とか、録画して、DVDに焼いたまま、一度も観ていないDVDとか。
極論すれば、いまの世の中、本は必要になったときにAmazonに注文すればいいし、DVDはレンタルショップでその都度借りればいい、はずなんですよね。
少なくとも「自分の生活空間の中に所有すること」の必要性は、僕が子どもの頃(30年前くらい)に比べたら、はるかに低下しているのに、なんだか捨てられない。

 この間、「断捨離」をすすめている方がテレビに出演しているのをみていたら、一番捨てにくいものは思い出の品、みたいなことをいっていました。
 誰かとの思い出があるものは一番捨てにくいそうなんです。
 私の場合も、いまから考えてみると、捨てる捨てないのターニングポイントになったのは、母親からの手紙にあると思うんです。
 上京して一人暮らしをしているときに、母親からもらった手紙をなかなか捨てられませんでした。それを思い切って捨ててしまったことで、それほどこだわりがなく、ものを捨てられるようになった気がするんです。
 ですから、テレビをみていてなるほどな、と思ったんですけれど、よくよく考えてみると、私は思い出のあるものにこだわりがありません。
 例えば小学校、中学校の卒業アルバムは卒業したらわりとすぐに捨ててしまいました。
 高校の卒業アルバムもとくに取っておくつもりはないのですが、就職して名古屋で一人暮らしをするため、実家を出たときに置いたままなので、いまでも実家にあるかもしれません。手もとにあれば捨てています。
 親から「邪魔だから捨てていいか?」と電話があれば「もちろん」と答えます。
 自分の写真、記録や日記などと自分の過去自体とは、私は関係ないと思っています。

 「卒業アルバムを捨てる」なんて、僕にはちょっと考えられないことなのですが、じゃあ、そんなに頻繁に見る機会があるかというと、結婚するときに披露宴で流すスライドに使う写真を探したときくらいしか、記憶にないんですよね。
 でも、「捨てるなんて、とんでもない」とは思ってしまう。
 ただ、これまでの僕の人生にも、何人か「卒業アルバム、すぐに捨ててしまった」という人はいました。
 僕はそのとき「なぜ?」と思ったのだけれど、中崎さんみたいな人は、程度の差はあれ、少なからずいるのでしょうね。


 いまの世の中だと「もたない生活」も、なかなか難しい場合もあるのです。

 ハンバーガー屋さんで断られたこともありました。ハンバーガーとコーラを買おうと思ったのですが、それぞれ単品で買うよりもセットメニューのほうが安かったんです。
 で、セットを頼もうとしたんですが、フライドポテトが付いてくる。
 フライドポテトはカロリーがすごく高そうですし、もともとジャガイモはそんなに好きではないので私はいらないと思ったんです。
 ですから、セットにしてもらってポテトはいりませんとお願いしてみたんですけれども、やっぱりそういうことはできないと店員さんに断られました。
 それならセットで頼むけれど、ポテトはそちらで捨ててくださいとお願いしたんですけど、それもできないといわれてしまった。
 私もちょっとムキになってしまって、「私がポテトを捨てろということですか?」と聞いてみると、即座に「はい、そうです」という答えが返ってきました。
 ちょっと口論みたいになってしまったんですが、食べ物を捨てるのは罪悪感があるので、結局値段が高くなってしまったけれど単品でハンバーガーとコーラを頼みました。
 私はものを捨てることは好きだけれど、食べ物を捨てることは生理的に嫌いなんです。
 家でも外食でも、食べ物はなかなか捨てられない。

「ポテトはいらないんだけど、セットメニューのほうが安い」という状況で、同じように困ってしまう人は、少なからずいるんじゃないかな、と思うのです。
僕の場合は、結局、ポテトも一緒に食べてしまって太りそうなんですが(ポテトも嫌いじゃないですし)、たしかにこういうのは、なんとかならないかなあ、という気がしますよね。
 個々の店員さんの裁量で決められるわけではなく、おそらく、こういう場合のマニュアルに従っているだけなのでしょうけど……
 「どうせ捨てられるのなら、『出したことにしておく』」というわけにはいかないのだろうか。
 それを許してしまうと「セットメニュー」の枠組みが曖昧になってしまうから、なのかなあ。


 この本を読んでいると、「極限までものを『もたない』生活」というのは、シンプルでスッキリしたものというよりは、ひたすら「これは捨てられないだろうか?」という執念との闘いなのだということがわかります。


 たぶん、「ゴミ屋敷」と「中崎さんの仕事部屋」のあいだのどこかに、大部分の人の「気持ちのよい空間」というのは属すると思うのですが、僕の場合は「ちょっと散らかっているくらい」が心地良くて、それはそれでラクなのかな、という感じがします。
 家族には、「あなたの場合は『ちょっと散らかっている』どころじゃない!」と言われそうだけど。

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