小泉県議は5日に更新したブログで、同県立中央病院を受診した際に番号で呼ばれたことに腹を立て、「刑務所に来たんじゃない」「会計をすっぽかして帰ったものの、まだ腹の虫が収まりません」などと書き込んだ。非難の声が殺到してブログを閉鎖。17日に謝罪会見を開いた(毎日新聞の記事より)。
僕はあのブログの内容をみて、「ああ、こういう人、たまにいるんだよなあ……」と思っていました。
いやほんと、「待ち時間が長い!」「忙しいから俺を先に診ろ!」「患者様と呼べ!」などなど。
病院というのは、基本的に「弱っているひと、困っているひと」が相手なので、「嫌なら他所に行け!」とは言えません。
病人を診察するのは「義務」でもありますし。
でも、マスメディアでの「たらいまわし」「医療ミス」報道の、あまりにもその現場の状況に無頓着な内容に絶望することばかりの僕としては「この人のブログにも、きっと内心賛同している人がたくさんいるんだろうな」とも思っていたんですよ。
しかしながら、僕が観測した範囲でのネットでの反応は、軒並み、この県議の非常識さを咎めるものばかりで、内心「ああ、ネットの人たちは、マスコミみたいに『とにかく医療サイドを叩いてやる』みたいな感じじゃなくてよかった」と安堵していました。
「そうだそうだ、番号で呼ぶな!」とか「そんなの金払う必要ない!」なんていう意見が噴出してくるのではないか、と危惧したんですよ、杞憂だったのかもしれませんが。
この件に関しては、「ひとりのクレーマー」として考えれば、「患者さんのなかには、自分が病気で通院していることを知られたくない人もいて、プライバシーへの配慮から、番号で順番を知らせるようになったんです」と説明して、納得してくれれば、そして、お金も払ってくれれば、「よくあるクレーマー騒動で、一件落着」のはずだったんですよね。
そういう事例は、病院ではけっこう日常的に起こっています。
でも、それをブログに書いたこと、この人が県議という公職にあったことが、大バッシングの原因となりました。
そして、それが引き金になって、マスコミでも謝罪会見がとりあげられ、この人は議員辞職も迫られていたのです。
それと、今回の自殺の直接の関連は、わかりません。
もしかしたら、メンタルの不調が先に存在していて、他者に対して攻撃的になり、その結果、こういう騒動を引き起こし、ブログに書いてしまったのかもしれません。
やっぱり、人の命が失われるのは残念なことです。
今回、ネットでの炎上が引き金になっての自殺が疑われるということで、今度はこの人に「死ね」「消えろ」などの言葉をネット上で投げかけた人たちが自省したり、晒されたり、ということになっているようです。
僕は以前から、「ネット上でのネガティブコメント」に関しては、かなり苦々しく感じていて、それに対してエントリを書き、さらに叩かれたりもしていたのですが、長年ネットをやっていると、いろいろと考えるところもあります。
正直、以前ほどネガティブコメントも気にならなくなりました。
それは、長年の積み重ねにより、「たぶん、わかってくれている人もいる(のではないか)」という自信ができたのと、「何かものを言おうとすれば、肯定的、否定的どちらの反応も出てくるのはしょうがない」という諦めみたいなものを持つようになったから、なのです。
「死ねばいいのに」も、8年くらい言われつづけていると、けっこう慣れる。
今回の事例に関していえば、亡くなられた方は、「なんでこんなことで、自分が否定されなければならないのだ?」と思っていたのではないでしょうか。
田舎では「地方議員」って、けっこう顔がきいて、チヤホヤされていることが多いので。
その地域の輪のなかでは、多少の暴言を吐いても「ホンネでしゃべる人」「やんちゃなんだから」って、かえって愛されていたりします。
ところが、その地域の輪の外、ネットの世界では、「顔がきかなかった」。
「なんでこんなに批判されるんだ?」と困惑したことでしょう。
おまけに、テレビ局まで登場してきて、「ニュース」になってしまった。
自分のブログのコメント欄やブックマークコメントに、否定的なコメントがずらっと並んでいるだけでも、言われている側はけっこうつらいものです。
僕自身も経験があるので。
「ネットとはこういうものだ」と慣れていないと、僕レベルの泡沫ブロガーでさえ、「世界を敵にまわしてしまったような」気分になるものです。
この亡くなられた方は、ネットだけではなく、結果的にはマスコミにも「紹介」され、自らのプライドのよりどころであった議員という身分まで失いそうなことに、絶望したのではないでしょうか。
この件に関して、「死ね」と書いた人、ひとりひとりに責任があるかどうか?と言われると、考え込まずにはいられません。
大部分の人は「本当に死ぬとは思わなかった」だろうし、あれだけ多数のバッシングのなかで、ひとつひとつのコメントの責任にどこまでの重さがあるのか、とも思う。
ただ、その塵みたいなものの集積としての「圧力」は、確実にあったはずです。
とはいえ、ストレスへの耐性というのは個人差が大きいものなので、「自殺という結果になったから、罵倒者には責任がある」のかどうか?
逆に、もっとひどいことを言っていても、相手が平然としていたら、「無罪」なのか?
僕はやっぱり、「死ね」は言い過ぎだと思うのです。
僕だって、その人が自分の大事な人を傷つけたのであれば、「死ね」って言いますよ、面と向かって。
でも、この人は「非常識」だけれど、「死ね」と言われるほどの罪をおかしたわけじゃないからさ。
(そのへんは個人個人の判断基準があるのでしょうが、僕は少なくとも「死ぬほどの罪」ではなく、単なる「無知」とか「歪んだ特権意識」レベルだと思う)
でもね、そうやって、「炎上」で他人を罰しようとする人たちのことについて、今回は、いろいろ考えさせられたんですよ。
医療の現場にいる人間としては、もし、あのブログの内容が「肯定」されるような世の中なら、やってられないな、と思っていました。
同調する人も、少なからずいるんじゃないかと。
(みんながどうかはわからないけれど、僕は医療関係者に対する世間の反応には、そのくらい悲観的なんです)
ところが、彼は大バッシングを受けた。
「番号で呼ばれるのには理由がある」「議員のくせに非常識すぎる」「金も払わないなんて泥棒だ」
こういう人はたまにいるので、無知と油断でブログに書いてしまったからといって(そして、県議だからといって)、ここまでバッシングされるのはかわいそうだな、とも思いました。
ただ、「こういう人が炎上することによって、何人かの顔を思い浮かべ、(クレーマーの)あの人やあの人もおとなしくなってくれるんじゃないか?」とも考えたのです。
この人が叩かれることによって、今後の同様のトラブルが抑止されるのではないか、と。
最近、『評判の科学』という本を読みました。
これは、人間の「評判」「うわさ」というものについての研究の成果を集め、紹介した本です。
この本のなかには、こんな話が出てきます。
すでに、カメラ付き携帯電話とウェブの力を組み合わせることで、悪い行動を暴露するサイトも登場しています。たとえばIhollaback.org(アイホラーバック、「大声あげるわよ」の意)のようなサイトでは、通りで女性に嫌がらせ(ストリートハラスメント)をしている男性の写真やレポートを投稿できます。Dontdatehimgirl.com(「彼とデートしちゃだめよ」の意)とiparklikeanidiot.com(「アホみたいな駐車をしています」の意)は読んで字の通り。とはいえ、こうした行動の監視方法には、利益だけでなく限界や落とし穴もあります。人々が自分の評価を誇張しようとしたり、こうしたシステムを悪意を持って利用したりする可能性があるからです。極端な評価を無視するシステムなどを設計すれば、武器代わりのフィードバックを防ぐことはできるでしょう。ただ、人間の複雑さは、そう簡単には修正できません。
ネットでのうわさは、現実世界でのうわさと同じように、セクハラをする人や暴力的な警察、ブラック企業、偽善に満ちた政治家といった、身体的、財政的、政治的な力を乱用する人々に対抗する武器として役立ちます。行動が暴露される可能性はどんどん増えています。グーグルではイメージ検索に顔認証ソフトを組み込もうとしているので、バスで性器をちらりと見せてきた男性の写真を撮れば、相手が誰なのかを突き止めてフェイスブックのページを見つけ、その人の友だちに知らせることができるようになるでしょう。
この本の著者は、さまざまな実験や研究の結果から、「うわさ」や「評判」というものの存在(あるいは、他人の目にさらされていること)が、人々の行動を制限し、「善行」に向かわせ、「利己的な行動」を控えさせる可能性が高いことを、この本のなかで紹介しています(もちろん、動物や、人間の場合は限られた条件下での実験ではあるのですが)。
「他人の顔色を気にする」というのは、集団全体の利益にとっては、けっして悪いことではないのです。
しかし、「過剰」になりやすいというのもまた事実で、こんな事例が紹介されています。
また、ネットの匿名性のために、人々は批判的で攻撃的になるし、学期末レポートの盗作や、他人の携帯電話を盗み見するといった小さな罪を犯した人が、辛辣な言葉でさんざん非難された例はいくらでもあります。何かばかなことをしている姿がユーチューブに流されると、皮肉なコメントが津波のように押し寄せます。その良い例が、ゴルフボールを回収するときに使う棒を、ライトセイバーのように振り回す自分の姿を録画した、ギスラン・ラザ、別名スター・ウォーズ・キッドと呼ばれる少年です。ラザの同級生がネット上に掲載した映像は、その後9億回以上も再生されました。その結果、彼は転校し、精神科の治療まで受けたのです。
ネット上での「炎上」というものには、ある種の「社会全体の意思」が反映されているのかもしれません。
それを口にした誰かが「炎上」することによって、満員電車にベビーカーで乗るな!という意見や、飛行機の中で子どもを泣かせるな!というような「非常識」を、言葉や態度に出す人は、ずいぶん減っているのではないでしょうか。
知りあいがいない電車のなかで、飲食店でのいちげんさんに対しての接客で、駅や病院や公園などの公共の場でのふるまいにおいて。
「ここにいるだれかが、自分の行為をネットで社会に『通報』するかもしれない」
それは、ものすごく息苦しい「相互監視社会」の入口なのかもしれません。
その一方で、「世間」が弱くなり、「何をやっても個人の自由」「犯罪じゃなければいいんだろ」という人が存在する社会では、「『炎上への恐怖』こそが、社会秩序の最後の砦」になっている可能性もあるのです。
あの人は、もしブログに書かなければ、「炎上」しなければ、病院で同じことを続けていたのではないでしょうか。
それとも、理性的に担当者が「説得」しようとすれば、聞く耳を持ってくれたのでしょうか。
僕は「炎上」が嫌いです。
対象が自分であればなおさらですが、他人の炎上であっても。
嫌なことも、思いだしますし。
事実無根にもかかわらず責められたり、誤解に基づいて叩かれることも多いのだけれども、叩いた側は、それが嘘の情報だとわかったら、「嘘教えやがって」と情報提供先を叩く。
自分には、絶対に刃は向かない。無敵です。
「反論すればいい」っていうけれど、「炎上」とはよく言ったもので、大火事になったら、1本のホースや1台の消防車で、どうこうできるようなものではありません。
ひたすら大人しくして、周りに燃え広がらないようにして、自然鎮火を待つほうが得策なことも多い。
人は、けっこう忘れっぽい生き物だしね。
「炎上」は、そのターゲットに、過剰な罰を与えがちです。
「炎上」のための薪を投げ込んでいるそれぞれの人が意図しているよりも、はるかに大きな罰を。
でも、そのターゲットになってみないと、その理不尽さを理解するのは難しい。
そして、投げ込んでいる側も「俺が投げた薪だけで、人が焼け死ぬわけがない」と思っている。
死人が出たら、「あいつは心が弱かった」。
「死ね」という直接的な言葉じゃなくても、人を落ち込ませる言葉や言い回しって、たくさんありますから、「死ね」だけ規制したら良いってものでもない。
(ちなみに僕は「お前の家族がかわいそう」とか言われるのが、とてもつらいです。もちろん、つらい気持ちにさせようと思って書いているんでしょうけど)
次の「スター・ウォーズ・キッド」は自分かもしれない、と不安にもなります。
彼は、罰せられるようなことをしたのでしょうか?
そして、彼を揶揄した人たちは、彼が転校したり、精神科に通院することを願っていたのでしょうか?
大勢の人が個人に対して「死ね」という言葉を投げつけるような「炎上」は、悪だと思います。
しかしながら、社会全体においては「こんなことをやったら、炎上するかもしれない」というのは、たしかに、ある種の「歯止め」というか「人を悪事に走らせるのを抑止する力」になっているのです。
「炎上なんて、起こらない世界のほうがいい」と思うんですよ。
その一方で、炎上っていうのは、発言力を奪われた人々にとっての、最後のよりどころみたいなものなのかな、とも感じてしまう。
ただ、その炎上は、暴走しがちで、過剰な罰を与えたり、無実の人を火だるまにしたりもする。
結局のところ、「うまくバランスをとりながら、やっていくしかない」という話になってしまうのですが、なんというか、「そんなふうにしか言えないのが、すごくもどかしい」のですよ。
「炎上」というような形ではなく、もっと穏便に世の中を少しでも良くする方法がないものか、とは思っています。
その具体的な形は、全然見えていなんですけどね。
こういう事例が続くと、権力者によって、「ネット免許制」みたいなものが、本格的に導入されるのではないか、と危惧してもいるのです。
「自殺した人もいるのだから」と。
もう少し、自制しなければならないな、とは思う。
「ネットの自由」を維持していくために。
- 作者: ジョンウィットフィールド,John Whitfield,千葉啓恵
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