琥珀色の戯言

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終戦のエンペラー ☆☆☆



あらすじ: 1945年8月30日、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の司令官としてダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が日本に上陸。彼は日本文化に精通している部下ボナー・フェラーズ(マシュー・フォックス)に、太平洋戦争の真の責任者を探し出すという極秘任務を下す。わずか10日間という期限の中、懸命な調査で日本国民ですら知らなかった太平洋戦争にまつわる事実を暴き出していくボナー。ついに最大ともいうべき国家機密に近づくが、彼と敵対するGHQのグループや日本人たちの一団が立ちはだかる。

参考リンク:映画『終戦のエンペラー』公式サイト


2013年21本目。
火曜日のレイトショーを鑑賞。
観客は20人くらいでした。
公開初週とはいえ、そんなに派手な映画ではなさそうだったので、思ったより観客がいるなあ、と。


 予告編では、アメリカ側からみた「天皇戦争責任」についての調査を描いた映画、という感じだったんですよ。
 僕も「歴史的事実を知りたい」というより、「アメリカ側はどう描くのか?」という興味から、この作品を観ました。
 でも、結論から言うと、アメリカは「天皇戦争責任」について検討したというよりは、「太平洋戦争後の日本を統治していくうえで、昭和天皇の処遇をどうするのがいちばん有効なのか?」を考えていたのだな、ということなのですよね。
 主人公のフェラーズ准将は、マッカーサー元帥に命じられて、「天皇を拘束・処罰すべきか?」について、関係者を尋問し、調査をしていきます。
 しかしながら、関係者はみな口が重く、証言を拒んだり、「天皇が戦争をはじめたのか?」という問いに対しては「わからない」と沈黙してしまいます。
 「天皇を、国体を守る」という信念もあったのでしょうが、彼ら自身にも「なんとも言いようがなかった」のかもしれません。
 ある側近は「陛下は、御前会議でも、自分の気持ちを直接口に出すことはできなかった。そこで、あるときには明治天皇作の短歌を吟じることで、平和を求める自分の意思を『ほのめかそうと』された」と語ります。
 アメリカ人たちは、「専制君主」は知っていたし、「置き物の皇帝が存在する傀儡政権」も理解していたと思われますが、日本の天皇制、とくに、明治期から太平洋戦争までの時期にだけ存在していた特殊な天皇制については、結局、最後までよくわからなかったのではないでしょうか。
 ただ、そこには「天皇を生かしておいた場合のアメリカ国内での反発と、罪を問うた場合の日本国内の混乱や占領軍への負担増を天秤にかけた」という合理的な判断基準があっただけで。
 もちろん、面談した際に、マッカーサー元帥が、昭和天皇に感じた「敬意」は、嘘ではないと思うのだけれども。

 
天皇は自分では何も決められる立場にはなく、周囲の開戦を求める声にイヤイヤ承諾したが、終戦の際には天皇としての禁を破って『終戦』の決断を下した」
 しかし、もしそれが事実であったとしても、国のトップとしての「責任」は無かった、と言えるのか?


 戦後、暗殺の危険もあるなか、あえて全国を訪問し、大勢の日本国民の前に姿をさらした昭和天皇は、日本の国や国民への愛着を持ち続けていた人だと思うのです。
 昭和という時代を生きた日本人にとっては、つらい戦争の時代と戦後の劇的な復興や平和な時代をともに歩んでくれた陛下、という敬慕の念は強いはずです。
 僕が子どもだった30年前には「天皇戦争責任」や「天皇制そのものへの疑問」を問う声も少なからずあったのですが、いまでは、大声でそういう議論はしづらい雰囲気になっています。
 もちろん、国政での「実権」はほとんどありませんが、「天皇制」そのものへの批判もほとんどなくなってしまいました。
 

 僕はこの映画を観ていて、「戦争責任」というものについて、あらためて考えずにはいられなかったんですよ。
 東京裁判で、東条英機には絞首刑が宣告され、この映画でも重要な役割を負った昭和天皇の側近中の側近、内大臣・木戸幸一は1票差で辛くも死刑を免れ、終身刑となります(のちに釈放)。
 しかし、昭和天皇は、裁かれなかった。
 昭和天皇の周囲で戦争をすすめた人たち(なかには、戦争に必ずしも積極的ではなかった人もいます)の多くは、罪を問われることとなりました。
 いや、いわゆるA級戦犯だけではなく、交戦地では、日本軍の将官や兵士が、まともな裁判を受けることもなく「処刑」されました。
 シベリアに抑留され、還ってくることがなかった人たちもいます。
 世の中って、理不尽だと思う。
 天皇陛下は、「戦争責任がなかったから罪を問われなかった」のではない。
 GHQの占領政策上の都合で生かされたのです。
 たぶん、この国には「なぜ、あなたは生き残ったのか?」と心の中で陛下に問うてきた人が、たくさんいたし、今もいるのだと思う。

 
 昭和天皇は「みんな罪を問われたのに、なぜ自分だけが、こうして許されてしまったのか」と、ずっと考えておられたのかもしれません。
 少なくとも、そういう「罪の意識」から無縁ではなかったはずです。

 
 日本人は、というか、僕自身も、現在、2013年の時点では「あれは歴史の流れでそうなったのだから、誰のせいと言いきれるようなものじゃないよ」とか、考えてしまいがちです。
 最近でいえば、東電原発事故についても、予測の甘さや不備もあったにもかかわらず「自然災害だから」という理由で、「誰か」の罪は問われていません。
 別に責任者を死刑にしろ!などと言う気はありませんし、いわゆる「道義的な責任」は、さまざまな形でとらされているのかもしれません。
 でも、「誰の罪も問わない文化」というのは、太平洋戦争を経ても、何一つ変わっていないのだな、と思わずにはいられませんでした。
 それは、果たしてプラスの面だけなのだろうか?

 
 まあ、あの戦争で「天皇陛下戦争責任は問わなかった」のですから、そう簡単に「責任者であるという理由で、『責任』を問われる」ことはないですよね。


 僕はこの映画を観ながら、すごく不謹慎なことを考えていたんですよ。
 もし、あのとき、日本から天皇制が無くなっていたら、どんな国になっていたのだろうか?
 GHQが心配していたように「共産化」してしまっていたのだろうか?
 それとも、まったく新しい民主主義の国ができていたのか?
 あるいは、ワイマール憲法後のドイツと同じような道をたどり、また戦争をやることになったのか?


 観る前までは、トミー・リー・ジョーンズマッカーサー元帥って、だいじょうぶなのか?
 などということしか考えていなかったのですが、観てみると、あのサングラスにパイプをくわえていれば、よほど面長の俳優さんでもないかぎり、けっこうそれらしく見えそうでした。


 あと、恋愛パートは上映時間を水増しする効果しか無かったような……
 アヤ役の初音映莉子さん、すごく佇まいの美しい人なのですが、いまひとつ役に恵まれてない……


 この映画のなかで、サイパンと沖縄で司令官だったという人物が、「あれは戦争の熱に侵されていたのだ」と述懐するシーンがあるのですが、そのシーンは、観ていてとても不快なものでした。
 たくさんの民間人が犠牲になった戦場の司令官が、まだ戦争が終わって間もない時期に、そんなに簡単に他人事のように「総括」できるものか、と。
 そういうのが「勝者・アメリカにおける軍隊の司令官像」なのでしょうけど。
 

 この映画を観て、アメリカ人はどう感じたのだろうか?
 日本人である僕のように、マッカーサーに面会したときの昭和天皇の覚悟に感動……しないだろうなあ……
 「結局、天皇って何なんだ???」と首をかしげ、日本人の考えることは、よくわからん、という結論に達したのではないか、と思えてなりません。
 
 
 この映画で描かれている、空襲で焼き尽くされ、見渡す限りがれきの山となった東京を観ていて、池上彰さんが「終戦直後の日本は、全土が東日本大震災後の被災地のような状況だったのだ。そこから、戦後の日本人たちは、いまの日本をつくりあげてきたのだ」と話していたのを思い出しました。
 その時代を生きてきた人たちの、戦争をやってはいけないという「子孫への遺言」を、戦争体験のない僕たちが「平和ボケ」だと嘲笑う。


 戦争は、一度起きてしまったら、もう、「どうしようもないもの」なのだと思う。
 「戦争責任」とか「平和への罪」は、勝者の都合で決められる。


「超大作」ではありませんが、「アメリカからみた日本のイメージ」を知るには、興味深い映画ではあると思います。
 多くの日本人にとっては「秘話、っていうか、そのくらい知っているよ」っていう内容なんですけどね。
  

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