- 作者: 小田嶋隆
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2013/04/18
- メディア: 単行本
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内容紹介
読者をうならせる天才コラムニスト、その原点を語る。
ビートルズ、北杜夫、立川談志、ソニー……。
オダジマは、いかにしてオダジマになったのか?
「明日できることを今日するな」
(トルコのことわざ)……いや、でも締め切りは?by担当編集者
日経ビジネス オンラインの大人気連載、待望の書籍化!
『地雷を踏む勇気』『もっと地雷を踏む勇気』『その「正義」があぶない。』に続く、
切れ味するどいオダジマワールドがここに!
『日経ビジネスオンライン』での小田嶋さんのコラムは、しばしばネット上でも話題になるというか、論議を巻き起こしているのですが、この『場末の文体論』には、小田嶋さんのひとつの武器である「時事問題」を採り上げたものではなく、小田嶋さん自身のルーツ(そしてそれは、現在の「もうすぐ還暦世代」のルーツにも重なってくるはずです)を辿るようなものが多く収録されています。
この『日経ビジネスオンライン』での連載は、これまで何度もまとめられ、書籍化されているので、正直「また本になるのか……出涸らしみたいなコラムばっかりになっているんじゃないの?」と不安ではあったんですよね。これまでのコラム集に比べると、200ページくらいの薄い本だし、「小田嶋隆のコラムは売れる」ということで、これまで収録されなかった「つまらないもの」ばかりを集めているのではないか、とか。
ところが、この本、読んでいて、なんだかとても心にしみる文章が多かったんですよね。
「原発の巨大さ、パワーは、『男子マインド』をくすぐらずにはいられない」みたいな内容の文章に比べると、「セールス」という意味ではパンチ力不足なのかもしれませんが、そういう「時事性」を考えずに書かれた文章には、むしろ「普遍的なもの」がたくさん込められているように感じました。
小田嶋さんのたくさんのコラム集のなかで、いちばん長く読み継がれるのは、この本かもしれないな、と。
本書のために選ばれた文章は、2012年中に掲載された比較的最近のものが中心で、そういう意味では、最新のコラム集であるはずなのだが、実際に読んでみると、行間に浮かぶ情景は、昭和の時代に一世を風靡したあれこれが中心になっていたりする。不思議ななりゆきだ。
ともあれ、本書には、そういう後ろ向きの文章が多く選ばれている。この点が、先行する3冊のコラム集との一番の違いであるのかもしれない。
もっとも、ここでいう「後ろ向き」は、必ずしも「暗い」とか「否定的」だとか「消極的」といったネガティブな印象を意味するわけではない。
むしろ、「ノスタルジー」や「回想」を語る時のオダジマの筆致は、時事問題や政治経済について駄文を弄しているいる時に比べて、機嫌が良いかもしれない。なにしろ、書いている本人が、少年時代に戻っていたりするわけだから。
おそらく、私と同世代の人間は、共感しながら読んでくれるだろう。
若い人たちが、読んで、どういう気持ちを持つのかは、ちょっとわからない。
僕は小田嶋さんより干支で一回りくらい(十数年、ですね)年下なのですが、なんだかすごくここに収録されている文章に共感できました。
メディアの「進化」に伴って、LD(レーザーディスク)やビデオのコレクションを観ることができなくなり、実質的に「失われてしまった」ことについて
無事だったビデオをDVDに焼いたものが、いま、かろうじて残っている。
でも、SD画質のマラドーナやモハメッド・アリは、ハイビジョンが普及して以来、その魅力を半減させてしまっている。そうでなくても、私の人生には、コレクションに見合うだけの余暇時間がもう残されていない。この先、毎日2時間ずつ見ていっても、死ぬまでに全部見切れるかどうかわからない。思えば無駄なコレクションだった。
で、ほとんどは積んでおくだけで、見ないまま私の方が先に死ぬことになるはずだ。
遺族は、容赦なく捨てるだろう。
現在でさえ、彼らは、既に遺族の目線で、私のコレクションを見ている。
これを読みながら、僕も40過ぎにして、いままで自分が録り貯めてきたDVDや、積みっぱなしのゲームのコレクションのことを考えてしまいました。
「いつか時間ができたら観る」つもりなのだけれども、どんどん年を取ってきて、残り時間は減っているのにかかわらず、「いつか理由する予定のコレクション」は、ますます増えていっているのです。
これは、間違いなく、全部消化する前に死んでしまう。
最近になって、ようやく、「いちばん視たいものから視る」ようになりました。
とっておいても、いつ、どうなるかわからない。
いた、もしかしたら、どうなるかわからないからこそ、録っておきたいのかもしれません。
戦場に行くパイロットが、部屋を片付けないようにするように。
「大学」に関して、こんなふうに書いておられるのも印象的でした。
ある層の年寄りの心中には、若者を憎む気持ちが潜んでいる。優秀な若いヤツは勘弁してやるけど、優秀じゃない若いヤツは、牛馬みたいに扱わないといけないと思っている。そんな連中を大学に通わせるなんて、資源の無駄じゃないか。そう、彼らにとって、優秀じゃない若いヤツは、家畜と一緒などである。
私は暴論を言っている。
ご理解いただきたい。行きがかり上、ここは、暴論を並べざるを得ないところなのだ。
大学や教育をめぐる話では、マッチョでスパルタンでビシッとした人々の声ばかりが鳴り響くことになっている。
こういう場所では、せめて私のような男がなまぬるい意見を吐かないと、言論空間の多様性が失われてしまう。
だから、ここは無理にでもなまぬるい見解を開陳しないといけないのですよ。わかってください。
ごく一部のエリートの皆さんは、もしかして、象牙の塔や起業チャンスを求めて進学したのかもしれない。
が、非エリートは違う。
彼らは青春を延長したくて大学に通っている。
カラオケボックスで、歌い足りないと思った時に、備え付けのインターホンに向かって延長を申請する時の気持ちと一緒だ。
「あ、4号室だけど、とりあえず1時間延長でおながいします」
「大学? まあ、一応行くつもりだけどさ」
この点は、結果として偏差値の高い大学に進む学生の場合でもそんなに違いない。ふつう、10代の子供は、学問や就職について真剣に考えていたりはしないし、社会に出た後の自分のブランドについて確たる野心を抱いているわけでもないからだ。
僕が大学生だったのは、もう20年近く前の話ですから、いまの大学生が実際にどうなのかは、正直わかりません。
でも、実習などで接した印象では、「遊ぶことばかり考えている連中」でもないし、ネットで採り上げられるような「意識の高い学生」ばかりでもありません。いろんな学生がいます。
そういう比率は、たぶん、20年前と、あんまり変わらないんじゃないかな、とも思うのです。
20年前の僕には、この「とりあえず1時間延長」と言う気持ち(ちなみに、元の本にも「おながいします」って書いてあります)はよくわかっていたというか、僕もこんな感じだったと思うんですよ。
就職する前なんて、「社会人」になるのが怖くて仕方なかったし。
でも、いつのまにか、つい「大学って勉強しに行くところじゃないのかよ!」って憤りやすい大人に、なってしまった。
人って、忘れやすい生き物だと思います。
むしろ、厳しい就職活動や、「TOEIC○○点以上」なんて、数々のミッションを課せられているいまの大学生のほうが、僕たちの時代より、よっぽど大変なはずなのに。
小田嶋さんは、このコラムを、こう締めくくっています。
大学は、社会に役に立つべきなのかもしれない。
でも、通う身からすれば、大学の魅力は、役に立たない生き方が許容されているところにある。
就活はどうするのか、って?
大学で学んだことが職業に結びつかないような生き方こそが、豊かな人生だよ。
「時事問題を斬る小田嶋隆」を求めている人には、たぶん物足りないコラム集だと思います。
でも、僕のような昔からのファンにとっては、「ああ、こういうのを書いてくれるから、小田嶋隆のコラムはやめられないんだよな」とあらためて感じる一冊でした。