琥珀色の戯言

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【読書感想】妻と飛んだ特攻兵 ☆☆☆☆☆



Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。

内容(「BOOK」データベースより)
「女が乗っているぞ!」その声が上空を旋回する十一機まで届くことはなかった。白いワンピース姿の女性を乗せた機体を操縦していたのは谷藤徹夫少尉(当時二十二歳)、女性は妻の朝子(当時二十四歳)だった。一九四五年八月十九日。満州で二十代の青年将校たちは、ある者は許嫁の自決を見届け、ある者は恋人を連れ、そして谷藤徹夫は妻を乗せ、空に消えていった。「妻と飛んだ特攻兵」、その衝撃の事実を追った歴史ドキュメント!!

サブタイトルの「8・19 満州、最後の特攻」というのを書店で見かけて、「ああ、日本が戦争に負けたあとも諦めきれずに、無謀な特攻をした自己満足な人の話なのかな、それにしても、妻も道連れにしなくてもよかろうに……」と、思っていました。
でも、この本を読み終えて、そんな「2013年の視点」で彼らの行為を「評価」しようとしていた自分が恥ずかしい。


この本、「日本が戦争に負けてしまった後に、飛行機で特攻していった夫婦の物語」なのですが、そこに至るまでの谷藤少尉の人生、そして、日本が満州国をつくり、太平洋戦争に敗れるまでの過程が、丁寧に描かれています。
著者も、途中で、「当時の満州の状況説明の記述が長くなるが、どうしても必要なことなので、了解していただきたい」と断っておられますが、たしかに、「なぜ、『終戦後』のはずの8月19日に、『夫婦で』特攻を選んだのか?」という理由は、この「背景」を抜きにしては理解できなかったと思います。
そこを端折っては、「美談」「夫婦愛の物語」としてだけで、消費されてしまったかもしれません。


谷藤少尉は、音楽や芸術を愛する、成績優秀な若者でした。
ですが、身体があまり強くなく、運動も得意ではなかったのです。
彼は、軍人ではなく、法律家として生きていくことを選ぼうとします。
しかし、時代の風向きは、彼にとって、あまりにも不運なものでした。

 徴兵検査の結果は、六段階にランク付けされた。身体強健である者は「甲種」、健康体であるが、筋骨がやや薄弱である者は「第一乙種」、健康体であるが、筋骨がかなり薄弱である者は「第二乙種」、身体が虚弱で健康体でない者は「丙種」、身体障害や知的障害などを持つ者は「丁種」、病中または病後である者は「戊(ぼ)種」。甲種合格者は即日入営させられ、甲種の召集だけでは兵員数が補えなくなった場合に第一乙種、第二乙種、丙種まで順次召集された。
 そして徹夫に対して下されたランクは「第二乙種」であった。当時の徹夫は身長159センチ、体重48キロ。身長は当時の二十歳男子の平均身長をやや下回る程度であったが、体重は平均より6、7キロも軽く、痩せ細っていたため、徴兵官から「軍人の適性が低い」と見なされたのだ。
 第二乙種という結果に徹夫はひどく落胆した。
「勇ましく皇国の理想を語っていた俺は、一兵卒としても皇軍から必要とされないのか……」
 おそらくそんな煩悶に苦しめられたことだろう。
 青森の徴兵会場には野辺地中の同期生たちも来ていたが、彼らの9割が甲種合格であり、第二乙種は同期生の間でも嘲笑の的になった。

東京で右翼思想の影響を受け、「お国のため」に尽くしたいと谷藤さんは考えていたようです。
ところが、徴兵検査で、彼は「第二乙種」。
「軍人に向かないから、徴兵の優先順位が低い」というのは、いまの世の中に生きている僕にとっては、そんなに悪い話じゃないような気がするのですが、青森からエリートとして東京の中央大学に入学した谷藤さんにとっては、大きな挫折体験だったに違いありません。


彼は、汚名返上を期して、陸軍の「特別操縦見習士官」の試験を受験し、見事合格します。
「体重が軽いこと」「バランス感覚に優れていること」が評価されたそうです。
これまで、コンプレックスを抱いていた「痩せ細った身体」は、飛行機乗りとしては長所になりました。
当時の日本は、戦局の悪化に伴い、熟練の戦闘機のパイロットが次々と失われていきました。
「特操生」(=特別操縦見習士官)というのは、大学や専門学校などの専門知識を持つ者なら、操縦を覚えるのも早いはず、ということでつくられた、パイロットの促成栽培プログラムだったのです。


「特操」を卒業した谷藤さんは、実戦にではなく、若いパイロットを育成するための教官として満州に赴任することになります。
当時の日本は、そうやって促成栽培されたパイロットが、指導にあたらなければならないほど、熟練のパイロットが不足していたのです。


この本を読んでいると、満州での日本の「野心」は、必ずしも日本の総意ではなかったことがよくわかります。
国際協調を維持し、全面戦争を避けようとしてきた政治家たちも、少なからずいたのです。
(むしろ、国民の熱狂のほうが、政治家たちよりも激しかったようにすら思われます)
そして、日本軍の軍事行動も、領土的野心に基づくものというよりは、居留民の安全を確保するためにやむをえず、という面もあったのです。
しかし、一部の野心的な軍人たちの行動に引きずられるようにして、日本は泥沼の日中戦争、さらに太平洋戦争に突入していきました。


満州は、太平洋戦争のほとんどの期間、平和でした。
少なくとも南方の戦線や空襲にさらされた日本の本土に比べれば。
そんな中に教官として派遣された谷藤さんですが、さらに戦局が悪化し、「特攻」に教え子たちを送り出すようになります。
「100%死ぬ作戦」なんて、人命軽視の酷いやり方だ。日本人はクレイジーだ……僕もそう思っていました。
しかしながら、この本を読むと、「特攻」がはじめられた当初は、それなりの戦果をあげていたようです。
アメリカ軍の対策によって、間もなく戦果はほとんど得られなくなってしまうのですが。

 では、海軍中欧ではどのような経緯で特攻作戦が決定されたのか――それを明らかにする証言や史料はないのである。海軍首脳は特攻に関して戦後に口をつぐみ、開始の経緯を語らなかった。たとえば、連合艦隊司令長官豊田副武は戦後の回想記『最後の帝国海軍』の中で、フィリピンに向かう途上の大西(瀧治郎・中将)と台湾で遇い、特攻作戦について話したと記述しているのだが、肝心な部分は触れずじまいである。大西は豊田にこう語ったという。
「今までのやり方ではいかん。戦争初期のような練度の者ならよいが、中には単独飛行もやっとこせという搭乗員がたくさんいる。こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くよりほかに方法はないと思う。しかし、これは上級の者から強制命令でやれということはどうしても言えぬ。そういう空気になって来なくては実行できない……」


「特攻」とは、なんと残酷な作戦なのだろう、と考えずにはいられませんし、いくら命令であっても、そんなことを実際にやった特攻隊員たちが大勢いたという事実に、僕はただ圧倒されるばかりです。
でも、人命軽視も甚だしい、ひどい作戦ではあったけれども、当時の日本の置かれた状況を考えると「数少ない、ささやかでも戦果が期待できる攻撃方法」でもあったのです。
ちなみに、軍の首脳部のなかには、「本土決戦」で一般市民を含む陸上での特攻作戦を企図していた者もいたそうです。
それで勝てる、というよりは、そうやってアメリカ軍に犠牲の大きさを思い知らせることによって、少しでも有利に講和できるのではないか、と期待して。
本当にひどい話だし、何のための軍隊なのか、とは思います。
しかし、「カミカゼ」がいまでもアメリカ人の心に刻まれているということを考えると、それは「作戦としては、残酷極まりないけれど、必ずしも不合理ではなかった」のかもしれません。
少なくとも、当時の日本には、そう信じていた人たちがたくさんいたのです。


平和だった満州は、1945年8月9日のソ連の侵攻によって、戦場となりました。
「戦場」とはいっても、一方的な虐殺の場です。
8月15日の「終戦の日」のあとも、ソ連の侵攻は止まりませんでした。

 興安総省参事官の浅野良三を先頭に、避難民は長い列をなしてホロンバイル草原を歩き続けた。しかし興安街から四十キロほど離れた葛根廟に差し掛かったとき、ザバイカル方面軍の戦車隊と遭遇してしまった。
 十四輛の戦車と二十台のトラックが丘の上に現れた瞬間、浅野参事官は即座に白旗を掲げて無抵抗を示したが、ソ連軍は機関銃で浅野を射殺し、丘の上から猛スピードで突進してきた。約二千数百名が悲鳴を上げて一斉に走り出すと、ソ連軍は草原を逃げ回る避難民の群れを追いまわした。次々に轢き殺されていく死体がキャタピラに巻き込まれて戦車の後方から飛び出し、宙に舞って草原に放り出された。
 約二時間におよぶ襲撃を終えてソ連軍が去っていくと、周辺で虐殺現場を見ていた中国人たちが暴徒化して生存者を襲い、下着に至まで身ぐるみ全てを奪っていった。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全て剥ぎ取られたうえに鎌で乳房を切り落とされた。
 そして中国人が去ったあと、生存者の自決が始まった。

多くの軍人ではない日本人が、奪われ、犯され、殺されました。
満州にいた関東軍は、こともあろうに「戦力を維持するため」居留民を置き去りにして、自分たちは「撤退」していったのです。
この本によると、当時の居留民には、ソ連兵や中国人による辱めを逃れるため「自決」した者が大勢いたそうです。


「その後」の平和な時代を生きている僕は、つい、谷藤夫妻の選択について「特攻か、生き残るか」と考えてしまいます。
でも、その時の彼らは、「太平洋戦争後、日本がどうなるのか」なんて想像もつかなかったにちがいありません。
ただ、そこにあるのは、迫り来るソ連軍の脅威と「このまま降伏しても、自分は殺され、妻は辱めを受ける」という絶望と、「多くの教え子を特攻に送り出しながら生きている自分」そして「一矢も報いないまま、居留民を置き去りにして逃げていった軍」という現実だったのです。


「特攻」するか、「虐殺や陵辱を受ける」か?
それしか選択肢がなくなってしまった人間が「特攻」を選ぶのは、そんなに愚かなことなのだろうか?
妻が無事に生き延びられると思っていたのなら、谷藤少尉は、たぶん、一緒に特攻機に乗ることはなかったのではないでしょうか。
軍紀でも、パイロットでもない者が勝手に戦闘機に乗ることは、許されていませんでしたし。
自分たちが「特攻」を行うことで、少しでも居留民が逃げる時間を稼げれば……というかすかな希望と、軍人としての責任感もあったのかもしれません。


そのときの状況や、背景について考えれば考えるほど、この「異例の特攻」は、「異様なもの」ではなくなってきます。


僕は「特攻」を賛美するつもりはありません。
でも、戦争というのは「特攻を選ぶしかないような状況をつくりだすもの」であることを、忘れてはならないと思う。
そして、良き父親だったり、優しい息子だったりしたはずの人々が、戦争という状況下では、虐殺や強姦や略奪をしてしまうのです。
もちろん、そんな中でも、人間的にふるまおうとする人もいるのだろうけれど、それは、平和な時代にそうするよりも、はるかに難しい。


戦争がなければ、音楽を愛する法律家として、穏やかな一生を送ったであろう男と、その妻の一瞬の光芒。
あれから68年の時間が経ち、タイムリミットが迫っているなかで、関係者の証言を地道に拾い集め、こうして「美談だけでは片付けられない事実」を可能なかぎり浮き彫りにした著者渾身のノンフィクションです。

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