琥珀色の戯言

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【読書感想】カッパ・ブックスの時代 ☆☆☆☆


カッパ・ブックスの時代 (河出ブックス)

カッパ・ブックスの時代 (河出ブックス)

内容紹介
前代未聞のベストセラー10か条とは!? 戦後最大の出版プロデューサー神吉晴夫とその右腕たちの奮闘から見る新しい出版文化史。知の大衆化を進めたベストセラー編集部の全貌が明らかに!


この本には、戦後の日本の出版界を席巻した「カッパ」の栄枯盛衰が描かれています。
オビには、こうあります。

 1961年には、日本の刊行物の売り上げベスト10の中でカッパの本が5冊を占めた……ベスト1位に『英語に強くなる本』(岩田一男)、ベスト4位に『頭の良くなる本』、ベスト5位に『記憶術』、ベスト6位に『砂の器』、ベスト7位に『日本の会社』が入っている。ひとつの新書の驚くべき記録は、今もって破られていない。


僕が生まれたのは1970年代のはじめで、物心がつき、「おとなの本」を手に取りはじめたのは、1980年代前半くらいです。
その頃は、カッパ・ブックスは衰退期にありましたが、まだ、かなりの勢力を保っていたような記憶があります。

 カッパは、日本の庶民が生んだフィクションであり、みずからの象徴である。
 カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧迫にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託のない闊達さ。
 裸一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実をもとめてやまない。たえず人びとの心に出没して、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒る。しかも、つねに生活の夢をえがいて、飽くことを知らない。カッパこそは、私たちの心の友である。
 この愛すべきカッパ精神を編集モットーとする、私たちの「カッパの本」Kappa Booksは、いつもスマートで、新鮮で、しかも廉価。あらゆる人のポケットにあって、読むものの心を洗い、生きる喜びを感じさせるーーそういう本でありたい、と私たちは願ってやまないのである。

この「『カッパ・ブックス』誕生のことば」は、それぞれの本にも載っていましたから、覚えている方も多いのではないでしょうか。
僕もなんだかすごく印象に残っているんですよね。
この本によると「カッパ・ブックス」「カッパ・ノベルス」「カッパ・ビジネス」「カッパ・ホームス」を合わせると、17冊のミリオンセラーの記録があるそうです。
「カッパという一つのブランドだけで、この記録を打ち立てた新書は日本出版界史上類を見ないと思われる」と著者は述べています。


ちなみに、カッパ・ブランドのミリオンセラーは、この17冊(本にはそれぞれの売り上げ部数も書かれています)。

『英語に強くなる本』(1961年)
『頭の体操 第1集』(1967年)
『頭の体操 第2集』(1967年)
『姓名判断』(1967年)
『頭の体操 第3集』(1967年)
『頭の体操 第4集』(1967年)
『点と線』(1958年)
ゼロの焦点』(1959年)
砂の器』(1961年)
民法入門』(1967年)
『冠婚葬祭入門』(1970年)
『続冠婚葬祭入門』(1970年)
日本沈没(上)』(1973年)
日本沈没(下)』(1973年)
『にんにく健康法』(1973年)
悪魔の飽食』(1981年)
『「NO」と言える日本』(1989年)

たぶん、僕が「戦後最大の出版プロデューサー」神吉晴夫さんの「『カッパ・ブックス』誕生のことば」を読んだのは、『頭の体操』あたりではないかと思うのですが、カッパ・ブックスは、松本清張さんを世に出して社会派ミステリブームを生みだし、『日本沈没』を大ヒットさせてもいるのです。
のちに、西村京太郎さんを見いだしてもいます。
僕が本を読むようになった時期には、かつての勢いは失われていましたが、最盛期には「10万部、20万部はあたりまえ」と内部では言われていたそうです。
いまの出版不況の時代を考えると、信じられないような話です。


この本を読んで驚いたのは、全盛期の「カッパ・ブックス」は、とにかく「編集者の力が強かった」ということでした。

 企画会議での長瀬編集長らの「そんなもの誰が買うねん」「何で10年も20年も前にしか通じないこんなものを出すんだ」「政治家の本なんか作るな」「どんな右翼でもどんな左翼でもいいから面白い者に書かせろ」といった厳しい批判に部員が全員きりきり舞いしていた。長瀬には直感的なところがあって、タイトル、著者、内容とまとまって整理された企画よりも、たった一言の企画を「よし。おもしろい」とほめることもあった。
 今と違って、売れた著者を追い掛けて書かせるなどいうことはいっさいなかった。「初めに企画ありき」で、著者探しは、その後の活動だった。


「まず編集者が面白そうな企画を出して、それに合った著者をあてはめていく」というのが、カッパ・ブックスの基本形だったのです。
 この本のなかにしばしば登場し、カッパ・ブックスの歴史において重要な役割を果たしている伝説の編集者、長瀬博昭さんは「3年連続で、年間ベストセラーの第1位を世に出す」という偉業を達成しています。
 おそらく、この記録が、今後破られることはないでしょう。


 企画を出しておしまい、というのではなく、編集者は著者と徹底的に「共同作業」を行い、「カッパ・ブックス」らしい本をつくりあげていくのです。
 ベストセラー『英語の学び方』の執筆過程について(神吉さんが書かれたものの引用だそうです)。

 仮題『英語の学び方』を全面的に担当することになった長瀬博昭君の情熱は、すさまじかった。先生と教え子ではない。執筆者と編集者とのたたかいだ。毎日毎日、長瀬君は岩田家の門をくぐる。なんべんもなんべんも話合いをかさね、企画をねりあげた。いよいよ、岩田氏が執筆にかかる。長瀬君は、その日に書きあげられた原稿を、十枚でも十五枚でも持って帰る。
 原稿の出来がいいと、夜中でも、長瀬君は岩田さんを電話で起こしてしまう。
「先生、今日いただいた原稿はいいですね。とくに…」
 これが、神吉学校のやり方であり、長瀬君は私の学校の若い優等生だ。岩田さんも、
「こんなに熱心に原稿を読んでくれるひとは、ほかにないじゃないか。」
 と感動したという。
 しかし、長瀬君は、たいていの日には、前日もらっていった原稿についての厳しい批判を、おみやげにもっていった。ややもすれば、学習参考書的・学校教師流になりがちな文体と発想を、いちいち、指摘したのである。長い学生時代の苦い記憶を呼びさますような学習参考書を書いてもらって、カッパ・ブックスに入れるのではないからだ。
 長瀬君は、岩田さんの二十五年にもわたるぼう大な英語のコレクションから、教室では学べないセックスやトイレにかんする面白い表現を、話し合いのあいだに引きだす。
「うん、それ、いけますね、それで一章つくってください。」
 適切な注文には、岩田さんはよろこんで応じてくれた。

 僕の記憶では、「『カッパ・ブックス』は読みやすいけど、俗っぽい感じ」なんですよね。
 しかし、これを読んでみると、それは「いいかげんな仕事をの結果」ではなくて、編集者は、多くの人の手にとってもらえるように、徹底的に「わかりやすさ」「興味を持ってもらうためのアプローチ」を追求していたことがわかります。
 おそらく、今はこんなやり方は、著者も編集者も、おそらく読者も「ついていけない」のではないかという気もしますけど。
『冠婚葬祭入門』は『バカの壁』に抜かれるまで、新書のベストセラー第1位の座をずっと保っていたそうですし、『カッパ・ブックス』が日本人に「常識」を植え付けていった面はあるのです。
『頭の体操』は、僕が中学生のときに図書館でみましたし、著者の多湖輝さんは、大ヒットゲーム『レイトン教授』シリーズにも監修で関わっておられるんですよね。
 そう考えると、「昔の一過性のブーム」で終わっていないところも、少なからずあるのです。


 1970年頃から、光文社は労使抗争が紛糾し、揺らいでいくことになります。
 多くの優秀な人材が離れていき、『カッパ・ブックス』の種子が、さまざまな出版社に拡散していくのです。
 その一方で、光文社は「普通の出版社」になっていきました。
 このあたりの経緯があまり詳しく書かれていないのは残念ではあるのですが、著者も自分がかかわっていた時期のことは、書くのに忍びなかったのかもしれません。


 カッパの全盛期を支えた長瀬博昭さんが、神吉社長とのこんな思い出を書いておられたそうです。

 マジメ人間に、よくお説教される、「ベストセラーばかり狙わないで、もっと良書をつくれ。出版には社会的使命がある」と。もちろんである。たしかにカッパ・ブックスは、戦後民主主義のために大きな貢献をしたのだろう。しかしそれは、結果として評論家先生から評価されたもので、制作者のほうで、はじめから意図されたものではないと思う。現代を呼吸する人びとの欲求にこたえる本を出版することが、後になって一つの文化をつくってゆくものだと思う。文化というものは、意識してつくろうと思っても、そう簡単につくれるものではあるまい。
 ある夜、社長と花火を見たことがある。「花火って虚無的ですね。ベストセラーを出版したあとの気分みたいですね。」こう私が言うと、即座に社長の返事がかえってきた。
「でも、きれいじゃないか、きみ。」

 カッパ・ブックスは、まさに「戦後の成長期の日本に打ち上げられた、大きな大きな花火」だったのかもしれませんね。

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