琥珀色の戯言

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【読書感想】住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち ☆☆☆


内容紹介
この本を読むだけで、われわれ日本人が夢のような国に住んでいることがよくわかる――ドイツ在住30年、現地で結婚し、3人の子供を育てた著者の集大成、空前絶後の日独比較論!!
日本人が憧れるヨーロッパの文化、街並み、そして生活レベル……特にその勤勉性が日本人に近いとされるドイツに対しては、工業製品のライバルでもあるため、不思議な愛憎感情を抱いている。では、ドイツ人の日常とは、実際のところどうなのか……実は、あまりに不便すぎて、日本人ならとても生きていけない!?


こういう「日本礼賛本」「日本人でよかった本」に関しては、眉にツバをベタベタつけつつ、書店で見かけても手にとらないようにしているのですが、この新書は読む本が途切れたときにちょうど目にとまり、読んでみました。
ドイツに30年住んでいる、という著者によるドイツと日本の比較論なのですが、僕のなかでの「日本人とメンタリティが近い、勤勉な国民」とか「時間に正確で、技術力が高い一方で、融通がきかない人々」というドイツ人のイメージは、これを読んでけっこう変わったような気がします。
ただし、「8勝2敗」という対戦成績については、個々の項目で星取表をつけているのかと思いきや、あれこれ比較をしてみて、「まあ、日本にも困ったところはたくさんあるけれど、『日本人が手本にしたがるドイツ』には圧勝していますよ」というニュアンスが「8勝2敗」という表現になったようです(具体的に「ここは勝ち、負け」というのは書いてありません)。


これを読んで考えさせられたのは「真面目さ」「勤勉さ」とは何か?ということでした。


ドイツ人の働き方について。

 ドイツでは、どんな零細企業でも、病休と有休がごちゃ混ぜになることはない。具合が悪くて休みたいときは、電話一本でOKだ。そのまま最低二日(会社によっては三日)は休める。
 ただし、それ以上休まなければいけない場合は、医者の証明が必要になる。親切な医者なら「五日の自宅療養が必要」などと気前良く診断書を書いてくれる。
 いずれにしても、病気のときに休むのは、労働者の当然の権利だ。「うちの夫は病気証明が出た途端に病気が治り、元気百倍になる」といっていた知人もいた。
 というわけで、有休を一日でも病気のために犠牲にするドイツ人はいない。近所の小学校教師でさえ、火急ではないが二週間ほどの入院が必要になったとき、わざわざ夏休みが終わり、新学期が始まってから入院した。
 ドイツの教師にとって、夏休みは全日が正式な休暇ではないが、実質的に登校することがないので、そのメリットをすべて消化してから病休を取ったわけだ。生徒にしてみればいい迷惑だが……

 これだけ休暇が多いので、ドイツの企業では、誰かがいなくても、業務が滞らないようにするためのシステム構築には抜かりがない。
 ドイツ人は整理整頓が恐ろしく上手で、どこの会社も棚にファイルが整然と並んでいる。私は、これはすべてをなるべくわかりやすくして、同僚の休暇中の代行業務をスムーズにするための知恵だと思っている。
 医者も夏にたいてい2〜3週間はいなくなるが、知らずに電話をすると、留守電が緊急時の代行の医者を教えてくれる。つまり、ドイツでは、常に誰かが休暇中なので、それを前提とした代行システムができあがっているのだ。
 一方、日本では、有給休暇の概念が、ドイツ、あるいはヨーロッパとはまったく違う。日本の有休は、いざというときに理由を明らかにしなくても休むことのできる予備の休日、といった感じらしい。

こういうのを読むと「ふだんの休日でも仕事の電話がかかってくる」ことも少なくない日本人の労働者としては、すごく羨ましい一方で、学校の話を読むと「それで大丈夫なのか?あまりにも『無責任』なんじゃないか?」という気もするんですよね。
もっとも「それが無責任だ」というのは日本人的な発想であって、ドイツの人にとっては、それが当たり前のこと、なのです。
そして、「医者だって2〜3週間の夏休みをとるのが普通」だけれども、そのために「緊急時の代行システム」がしっかり準備されています。
日本で休みがとりづらいのは、「休まずに働くのが前提」で、こういうシステムができあがっておらず、「他の人に仕事を任せて休むより、普段通り自分で仕事をしたほうがラク」だということが多いのと、「職場に、休まないのが美徳だと考えている人がいると、自分ひとりでは休みづらい」というのもあるんですよね。
まあ、どっちの国が良いか、なんてのは、なんともいえないところがあります。
(著者は日本の働き方のほうが好みみたいですが)

 ドイツには閉店時間法というのがある。1956年にできた法律で、それによると、飲食店とガソリンスタンドなどを除いたすべての店は、平日は夕方午後6時半、土曜日は午後2時で閉店し、日曜と祝日は終日店を開けてはならなかった。
 例外は第一土曜日とクリスマス前の四回の土曜日で、午後6時までの営業が許されていた。
 それにしても、不便このうえない法律だった。働いている人は、ほとんど買い物をする暇がない。美容院に行くこともできない。だから、土曜日のデパートや市場は、ぞっとするほど殺気立っていた。
 しかし、この恐るべき法律が、奇跡の経済成長期もなんのその、40年近くも頑迷に続いていたのが、ドイツという国なのだ。
 その後、閉店時間は少しずつ少しずつ緩み始めて、ついに2006年、各州に委ねられることになった。
 そんなわけで、たとえば私の住むバーデン・ヴュルテンブルグ州では、今日では24時間営業が認められている。
 ただ、認められたからといって、24時間営業の店があると思うと大間違いだ。私の知る限り一軒もない。

 ちなみに、現在でも日曜日は「年4回程度の例外を除き、終日すべての店を閉めなければならない」そうです。


 これを読んだときには、「ドイツって、こんなにキリスト教の教義を忠実に守りつづけているのか、しかしこれは不便だろうなあ」と思ったんですよ。


 こんなに休みがきちんとしていても、ドイツの労働者たちは、ものすごく幸福、というわけではなさそうです。

 ただ私の見るところ、ドイツ人は、自分で自分の首を絞めているようなところも多い。
 だいたい、働いている人が、自分の労働時間をあまりにもシビアに見張り過ぎている。たとえば、週38時間の雇用契約を結んでいる人は、自分の労働時間がそれを1分でも超えると損をしたと思い、とても腹を立ててしまうのだ。
 だから、何が何でも時間内に仕事をこなそうと皆が常に焦っていて、勤務中、極端に不機嫌だ。終業の10分前にかかってきた電話には絶対に出ない。すでに仕事を終えた人は、終業時間と同時に飛び出せるようウォーミングアップをしているし、まだ終えていない人は、あとの10分で終わらせようと死にもの狂いだ。
 これは、店でも同じである。閉店間際に店に入ると、店員が「なんでいまごろ来たんだ?」と言わんばかりに、あからさまに嫌そうな顔をする。こんな働き方では、自分でストレスを育てているようなものだ。

こうして比較してみると、日本人の労働時間に対する感覚は、けっこうアバウトなものではありますよね。
「始業時間30分前には出勤して掃除!」なんていう内規や、「就業時間前に朝礼」なんて企業もあります。
多くの日本人が、閉店時間になったから、と並んでいる人たちを無視して窓口を占める中国の接客を不親切だと考えます。
オーダーストップギリギリの時間に入店しようとして、イヤな顔をされるくらいのことは、日本でもありますけどね。
就業時間というのは、曖昧にしはじめると、どんどん長く、そして非効率的になっていきます。
そして、「とにかく遅い時間までいた人のほうが、昼間に効率的に働いて仕事を済ませた人よりも真面目で勤勉」だと評価されたりもするのです。


この本を読んでみて僕が考えたのは、ドイツというのは「労働者目線」でいろんなことを決めていて、日本というのは「消費者目線」で判断している国だ、ということでした。
どちらが真面目、不真面目というのではなく、ドイツは「真面目に労働者の権利を守っている」のであり、日本は「真面目に消費者の利便を優先している」だけのことです。
日本のほうがよくみえる、という著者の意見には、僕には「サービスの現場で働いているわけではない、消費するだけの側としては、そうだろうなあ」と感じただけでした。
著者が「幕末維新の日本人は勤勉だった」なんて語っているのを読むと「あーはいはい」とか、思ってしまいますし。
まあ、いまの日本っていうのは「おもてなし」される側にとっては良い国ですよね、たぶん。


ドイツでは「汚れ仕事は移民がやっている」というような、(日本人からすると)職業差別的な状況もありますし、「契約労働時間を守るために、短い時間に仕事が詰め込まれていて、余裕がない」というようなことも書かれています。
ヨーロッパの「勝ち組」であるドイツでさえこの状況なのですから、いまの世界全体での「働くことの厳しさ」も推して知るべし、ですね。


その他にも教育とか、悪名高き「ドイツ鉄道」についても語られていて、「ドイツでさえ」こんなものなんだから、日本というのは、まだまだ住みやすくて安全でチャンスの平等が保たれているほうの国なんだな、ということもわかります。

 たとえば、ドイツの学校制度は格差の固定化を生み出しやすいという重大な問題を抱えたままだ。
 ドイツの学校制度は、戦前の形をほとんどそのまま踏襲している。4年間の一斉教育のあと、進路が三本に分かれる。大学に進学する子供の行くギムナジウム、職人になる子供の行く基幹学校、そして、その中間の、職人にはならないが、学問をするほどでもないという子供のいく実業学校である。ドイツ社会が、アカデミックな柱と職人の柱という二本の柱にしっかりと支えられていた時代の名残りだ。

「ドイツの大学進学はどうなっていますか?」という質問をよく受ける。簡単にいうなら、日本のような大学受験はドイツにはない。ギムナジウム(日本の小5から高3までの一貫教育を行う学校。大学へ進学する子供が行く)の卒業時の試験「アピトゥーア」が、大学入学資格試験をも兼ねているからだ。
 無事にこのアピトゥーアを取れれば、ギムナジウムを卒業でき、大学に入学することができる。しかし、アピトゥーアを取れなければ、ドイツではどこの大学にも入れない。一度落ちると翌年もう一度チャレンジできるが、それでも駄目なら大学進学の道は閉ざされてしまうのだ。
 生徒たちは、大学に行くつもりで9年(最近は8年)もギムナジウムに通っている。その間、職業訓練もしていないため、もしアピトゥーアを取れなければ、非常に困ったことになってしまう。
「飲み屋の親父か、政治家にでもなるしかない」といわれる所以だ。

 
 小学校5年生で、おおまかな「進路」が決まってしまう子供たち。
 いまのドイツでは、「職人」の地位はあまり高くなく、職人になりたがる子供はあまりいないのだとか。
 そして、「大学に行くわけでもないが、職人になるわけでもないところに振り分けられた子供たち」というのは、日本人である僕からすると、そんな幼い年齢で「社会に出るまでのモラトリアム期を過ごすための学校」に入れられてしまうのか……と驚かされます。


 日本でも、小学校受験、中学校受験などで、「エリート校」に行く子供がいるのですが、それでも、地方の公立高校から東大や京大に入学してくる人もたくさんいます。
 教育の面では、たしかに、日本のほうが流動性があり、チャンスは多くみえるんですよね。
 もっとも、実質的には、日本だって、子供たちが「親の格差の壁」を乗り越えるのは、そんなに簡単ではないのだけれども。
 日本人である僕の感覚からすると「10歳の子供の段階で、大まかな進路を決めさせるなんて!」と憤りすら感じるのですが、「じゃあ、何歳だったら『適切』なのか?」とあらためて考えてみると、確信を持って応えられるわけでもない。
 

 海外に駐在すると、たいがいの日本人は、かえって「日本びいき」になる、と言われています。
 30年ドイツに住んでおられる著者が礼賛する「日本」は、「遠くからみる、美化された日本」「お客様、として過ごす日本」にもみえます。
 でも、あのドイツと比較しても、とりあえず「日本人にとっては、日本のほうが住みやすいと思えるところがたくさんある」ということは、とてもよくわかる新書でした。
 JR九州が「ドイツ鉄道」みたいな運行だったら、毎日博多駅で暴動が起こっていますよ……

 

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