- 作者: 大山寛人
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/06/20
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
- 作者: 大山寛人
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/09/04
- メディア: Kindle版
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12歳で母を亡くした著者は2年後、衝撃の事実を知る。
母を殺したのは、父だった。
非行に走り、ホームレスになり、自殺未遂を繰り返す日々。
だが父の死刑判決を知り、父に面会した日から父を憎む気持ちに変化が生まれ……。
渾身のノンフィクション!
今でも頭に焼き付いて、 離れない光景がある――。
2000年3月2日未明、広島宇品港。
鳴り止まないサイレン音。
無数に光る赤色灯。
辺り一面に張られた黄色いテープ。
真っ暗な海を照らし出す大きなライト。
青ざめた父さん。
海面を漂う母さん。
そして僕。
全てはこの日から始まった・・・・・・。
以前から、書店でこの本の表紙は見かけていたのです。
でも、なかなか手に取ろうとは思えませんでした。
なんだか「こういう世界」を興味本位で覗き込みたくなってしまうことに、自己嫌悪を感じてしまうところもあって。
結局は、Kindleで読んだんですけどね。
読み終えたあと、僕はかなり複雑な気分になりました。
僕は、死刑存置派です。
「死刑に相当するようなことをする人がいなくなれば、死刑制度があろうがなかろうが関係ないだろうよ」と思っています。
戦争や過失であれば、仕方が無い部分はあると思う。
でも、計画殺人や快楽殺人、自分の都合だけを優先した殺人を行った人間は、どう償えばいいのだろうか?
「生きて罪を償ったほうがいい」と言うけれども、そもそも「人を殺した罪」というのは、償うことが可能なのだろうか?
遺族にとっては「殺した相手が生きていること」そのものが、苦痛なこともあるのです。
「なぜ、殺された側には、『償われる機会』は永遠に訪れないのに、殺した側には『生きて、償うこと』が許されるのか?」
人というのは、生きていれば、刑務所の中でも、空気が美味しいと思うことだって、面白い本を読むことだって、好きなおかずを口にすることだって、できるのだから。
もちろん、「反省」もするだろうけど、24時間365日反省し続けられる人間なんて、いないと思いますし。
母を殺したのは、父だった――。
それを知ったとき、怒り、悲しみ、憎しみ……様々な思いが湧き上がってきました。
当時まだ幼かった僕は、この事実を受け止めることができず、非行に走って荒れた生活を送りました。周囲からは、「人殺しの息子」と白い目で見られ、心も身体も行くあてがなく、公園のベンチや公衆トイレで眠る日々でした。僕から全てを奪った父を「この手で殺してやりたい」と思うほど憎み、恨み、爆発しそうな感情を抱えながら、精神安定剤を乱用し、自殺未遂を繰り返し、心も身体もボロボロになっていました。
しかし、父に死刑判決が下ったのをきっかけに、三年半ぶりに父に面会したことで、僕の中で何かが変わり始めました。何度も面会し、手紙のやり取りを重ねる中で、父を責める気持ちが薄れ、少しずつ親子の絆を取り戻していきました。
苦悩、憎悪、葛藤の果てにたどり着いた答えーー。
それは、父に生きて罪を償って欲しい、ということでした。
この本は、「子どもの頃、父親が母親を殺害した男性」によって書かれたものです。
その父親は、以前にも保険金目的で養父を殺害していました。
この本のなかには、著者が父親から聞いた「事情」も書かれていますが、僕にはその父親の言葉が真実だとは思えませんでした。
ちなみに、「本書は関係者が語る事件の物語であり、裁判所の認定事実とは一致しない部分があります」という断り書きも入っているのですよね。
この本をつくった人たちも、父親の証言を、少なくとも全面的には信用していないようです。
いや「物語」という言葉を使っていることを考えると、疑わしいと思っているのではないでしょうか。
絞殺と首吊り自殺というのは、検死官がみれば鑑別は難しくないそうですし。
さらに、生活苦があったとはいえ、母親を殺害したあとも、知人女性のクレジットカードを使って詐欺を行っています。
本人も自白していて「冤罪」の可能性は限りなく低そうですし、僕が裁判員だったとしても「死刑」に投票します。
しかし、この本を読んでいると、そういう「他人事として考えた場合の判断」が、少し揺らいでしまうのも事実です。
著者は子どもの頃、この事件に遭い、アリバイ作りに知らないうちに加担させられかけてもいます。
父親のことがずっと許せなくて、生活も荒れました。
しかし、それまでの「家族としての記憶」もあり、「どんな犯罪者であっても、たったひとりの父親は父親」だという気持ちが生まれてきて、父親への情状酌量を求める活動を行っていくようになるのです。
彼自身も「殺人犯の息子」ということで、決まっていた仕事をクビにされたり、交際していた女性の父親から「もう会わないでくれ」と言われたり、さまざまな迫害を受けてきました。
ただ、僕がその女の子の父親だったら、「そんなこと気にするな」と言えるかどうか、正直、自信がありません。
この本を読んでいると、著者も荒れた生活をおくり、いくつかの犯罪をおかしていますし、「同情すべきところはあるけれど、義父としてうまくやっていくのは難しそうだ」と。
距離を置いたところから振りかざせる「正義感」と、相手が身近なところにいたときの「処世」とは、なかなか一致しないのです。
正直、著者の考え方、行動規範って、僕には理解困難なところがたくさんあるのです。
強くなりたい。過去を乗り越え、受け止められるようになりたい。そのためにも、内面だけでなく外見から変えていきたいと考えるようになった。そんなときに出会ったのが刺青だ。刺青とは、ただ身体に絵を入れるものではない。思いを込めて身体に刻むものだ。僕は悩んだ末に、刺青を入れる決意をした。過去を背負い、強く生き抜いていく。その証が欲しかった。軽い気持ちで決意したわけではない。過去に囚われ、前に進むことのできなかった昔の自分に戻らぬよう、変わっていけるようにとの思いからだ。
なぜそこで「刺青」なのか……
僕はこれを読んで、ある本を思いだしました。
そう、『ハダカの美奈子』!
これ以上、子どもたちにつらい思いはさせられない。あたしの弱さは、あたしが一番良く知ってるはずだから。
もっと強くならなきゃ。あたしがこの5つの命を背負ってるんだから。なにか証を残さなきゃ。そう思った。
最初は日記を書こうと思ったんだけど、3日ぐらいで挫折しちゃった。あたしって身の回りの物、アクセサリーだってピアスだってすぐ無くしちゃうから、物じゃないほうがいい。じゃあなんだろうって考えたとき、「自分の身体に入れちゃえばいいんだ、その証を」って自然に思えたの。
誰かから勧められたとか、誰かの影響を受けたとかそんなんじゃなく、あたし自身がひとりで決めた。
「タトゥーを入れよう」って。
これを読んだときには「日記にしとけよ!」と呟いてしまったのですが、そうか、世の中には、こういう「刺青信仰」みたいな文化を持っている人も、少なからずいるのだな……と。
美奈子さんだけじゃ、ないんだなあ。
僕にはやっぱり、理解し難い世界なのだけれども……
そして、こんなことも書かれています。
今まで彼女くらいできたことはある。彼女ができたときには、父さんのこと、事件のことを全て隠さず話してきた。僕が背負っているものを伝えた上で、それでもいいなら付き合おうと告げた。覚悟のいることだったが、何も隠したくなかったし、自分の全てを受け入れて欲しいと思っていた。
彼女たちはみんな、神妙な顔をして聞いていた。わかった、大丈夫だよ、と言ってくれた。ところが、陰でこんなことを言っていたのだ。
「うちの彼氏の親父、人殺しじゃけぇマジやばいよ」
「寛人もキレたら半端ないから」
ヤンキー好きな、くだらない女たち――。
彼女たちは僕のことが好きだったのではなく、単に「悪いことをしている彼氏」が欲しかったのだろう。悪いことは強いことであり、カッコイイことであった。どれだけの悪さをしてきたかが、誇りになる。僕自身も散々悪さを繰り返し、それを仲間に自慢していたから人のことを言えた義理ではない。だが、父さんのことをそんなふうに語られるのは許せなかった。
それが原因で、しばらくの間は彼女をつくらなくなった。
それこそ、「同じ穴の狢」なんじゃないか?とも思うのです。
著者はそれなりの覚悟をして伝えたことなのに、それを、他の人に「悪さ自慢」みたいな感じで、けっこう気軽に話せる人もいる。
「くだらない人」だと、僕も思います。
でも、そういうのを「武勇伝」的に面白がる人や文化って、けっこう広範囲にみられているんじゃないか、という気もするんですよ。
少なくとも、深入りしなくてすむ範囲では。
「昔の悪さ自慢」は、テレビのトーク番組の定番です。
身近なところでは、飲み会とかで、「暴力団も幹部はしっかりしていて、良い人が多い」なんて話している人、見たことありませんか?
母親を殺され、父親は殺人犯。
彼は被害者の家族であり、加害者の家族でもある。
そして、被害者の他の遺族は、犯人に厳罰を求めている……
ものすごくシンプルに考えてしまえば「どんな酷い事件を起こした犯人にだって、人間として良い面はある」のでしょう。
そして、「殺人犯であっても、父親には生きていてほしい」と望む子どもがいる、というのもわかる。
でも、それならば「天涯孤独の人は、相対的に量刑が重くなる」のが正しいのかどうか?
量刑というのは、「やったこと」に対して決められるものであって、この父親の場合は、(裁判官が述べているように)息子の気持ちを考えて、多少の情状を酌量したとしても、極刑は避けられないと考えます。
それが「正しい」かどうかは、僕にもわかりません。
でも、僕にとっては「死刑もまた、人殺しです!」って叫ばれるよりも、「死で償うしかない罪もある」というほうが、しっくりくるのです。
いや、「死んでも償えないだろうけど、生きて償おうなんていうのは、あまりにもムシがいい話なのではないか」と。
死刑は残酷なものです。
ただ、「死刑囚の悲惨な境遇」について考える前に、「その死刑囚がやったこと」を再確認し、「その死刑囚に殺され、未来を奪われてしまった人」のことを思いだしてみてほしい。
「死刑にせざるをえないような犯罪がなくなれば、死刑制度なんてあってもなくても一緒」なんだと思いますよ僕は。
「死刑存置派」だって、なんでもかんでも死刑にしろ、なんて思っているわけではない。
僕自身は、死刑制度に反対しているわけではない。愛する家族や恋人を殺されたら、僕だって犯人の死を願うかもしれない。僕が言いたいのは、「被害者遺族が望まない加害者の死刑がある」ということ。そして、これはあくまでも僕と父さんのケースだ。
しかしながら、いまの量刑基準を考えると、この父親を死刑にしないためには「死刑制度そのものをなくす活動をする」しかないのだとは思います。
計画的犯行で、2人を殺害、その他にも余罪あり。
仮に減刑されて出所したとしても、ちょっと追い詰められたら、安易に他人を傷つける可能性が高いのではないか、と思ってしまいます。
ただ、この著者の話を読んでいると、結局のところ、「実際にそれでひとりの人間が確実に絶望する刑の執行を、いち傍観者でしかない僕が望むこと」のアンバランスさ、みたいなものも考えずにはいられないんですよね。
そう言い始めたら、直接「仇討ち」するしかないような世の中に逆戻りしてしまうのかもしれませんけど。
もちろん、よい反応ばかりではない。ネットには僕に対する悪意ある書き込みもあった。
「犯罪者の息子は、やはり犯罪者。息子も窃盗や傷害事件を起こしてる。そんな犯罪者に講演する資格はない」
「同情して欲しいだけだろ? 講演でどれだけ儲けてんだ?」
「殺された母親の気持ちは考えたことあんのか?」
「この息子も父親と同罪だろ」
「お涙頂戴ってか。パパ死なないで〜(笑)」
まったく傷つかなかったかといえば嘘になるが、こうした批判は覚悟の上だった。
こういう暴言を、ネットで吐く人たちもいる。
でも「殺された母親の気持ちは?」とは、僕も思う。
さまざまな事情があるとはいえ、著者は過去の荒れていた時期に事件を起こし、被害を受けた人もいる。
なんというか、たいへんモヤモヤする本です。
「ひとつの家族のなかで起こったこと」だけに、なおさら。
この父親が「善人」だったとは思えませんが、息子を不幸にはしたくなかったのだろうな、というのはわかるから。
でも、その場しのぎの対応を続けているうちに、にっちもさっちもいかなくなって、結局「いちばん家族を不幸にする道」を選んでしまった。
赦すのが、正義なのか。
それとも、赦さないのが、正義なのか。
ああ、でもやっぱり僕は、これを読んでも、著者の父親は「死刑」が妥当だと思っています。