琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】一度、死んでみましたが ☆☆☆☆


一度、死んでみましたが

一度、死んでみましたが

内容紹介
重度くも膜下出血に倒れた、人気コラムニスト、神足裕司
絶望的な状態から奇蹟的な回復。
神足は命と正面から向き合う日々を綴ることで、コラムニストとして再生を遂げる!
「書くことは、生きること」。
涙と笑いのスーパー闘病エッセイ!


「どうしても書かなくてはならなかった。
ボクには唯一、書くという機能を神さまが残してくれていた。
脳のほうはさっぱりだけど、書くことができる。
書くことが生きていてよいと唯一、言ってくれている気がするから、ボクは書き続ける。
これからもボクはつまらなくても、忘れても、書き続けると思う。
だから、これからもずいぶん、おもしろい人生を送ることができそうだ。
迷惑をかけてしまうかもしれないが、これからが楽しみだ。
書くことが、生きることなのだ。
書いて、書いて、書きまくるぞ」(「あとがき」より)


僕にとっての神足さんとの出会いは、西原理恵子さんとのコンビによる週刊朝日の『恨ミシュラン』でした。
有名店に遠慮なく吠えかかる西原さんのマンガと、やたらと気取っていて、なんだか感じ悪いなあ、と思っていた神足さんの文章。
当時は「これ、西原さんのマンガだけだったらいいのに……」と考えていたのですが、最近ちょっと読み返してみると、神足さんは、西原さんのマンガとのバランスを考えながら書いていたのだなあ、という気がしました。
週刊朝日』的にも、有名レストランに噛みつきっぱなし、というわけにはいかなかったでしょうし。


『恨ミシュラン』の後も、僕は『週刊アスキー』などで神足さんの文章を読んでいたのです。
2011年9月に倒れられたときには「かなりの重態」であることが伝えられましたが、退院され、少しずつその後の経過も伝わってきました。
そして、今回のエッセイ集の刊行。

 どうやらボクは人格が変わったみたいだ。
 よく、温厚になったと言われるらしい。
 らしいというのは、家族が「お父さんの書く文章がやさしくなった」とか、「人が円くなった」とか言われたことを話していたからだ。自分ではよくわからない。
 言えることは、いろいろ面倒だから、話さない、言わない、動かないのだ。
 身体が動かないというのはこれほどまでに面倒なものとは、普通の人にはわからないだろう。当たり前だけどね。
 このまま眠り続けられればどんなにいいだろうと、真っ黒な天井を見上げて思うのだ。
 けれど、横でいびきをかいて眠っている奥さんの気配を感じると、ひとり笑いがこみあげてくる。まあ、頑張ってみようかという気持ちにもなる。
 朝の息子の顔、夜帰ってくる娘の顔、顔を出してくれる友人と広島みやげ――そんなのが、少し頑張ってもいいかという栄養剤だ。
 しかも、笑いが込み上げてくる。人格は変わってないぞ。面倒なだけだ。

読みはじめて、最初に感じたのは、神足さんが書く文章の変化だったんですよね。
そこにあったのは、以前の、キザというかちょっと勿体ぶったような文章ではなくて、ギリギリのところまで、研ぎすまされた言葉でした。
それはたぶん、神足さんにとって本意ではないのだろうとは思います。
この「本に収録できた文章」の陰には、その何倍、何十倍もの「下書き」というか「読んでも意味がわからないような文章」があったのだそうです。
「いまの神足さんのベスト」が、このエッセイ集なんですね。
技術的には、以前のほうが上だと思う。
でも、このエッセイ集には「魂」とか「願い」みたいなものがこめられている、そんな気がするのです。
生命の危機から、長いリハビリ、そして、ここまで文章が書けるようになったこと。
ただ、こうして本人の言葉を読んでみると、周囲が「温厚になった」と感じているのは、「性格が変わった」わけではなく、「面倒なので、いちいち細かいことを言わなくなってしまった」のだなあ、と。
僕が日頃接している患者さんにも、こういう苛立ちを抱えている人は、少なくないのでしょう。
僕は、神足さん自身の葛藤とともに、その「没になった草稿」を一緒に積み上げてきた御家族のことを思わずにはいられません。
家族とはいえ、重度の障害を持つ大人を介護しながら、自宅でともに生活するというのは、並大抵のつらさではありません。
神足さんはまだ50代後半。快復の可能性もあるけれど、介護が必要な生活がこれから長い間続いていくことも予想されます。
周囲の人は「施設に入ってもらったほうが良いのではないか」と勧めていたそうです。


病気の家族を持つ人がみんな、神足家と同じようにする必要はないし、できないとも思う。
家族にも、それぞれの人生があるのだから。
この本に書かれていることの大部分は、たぶん「善き人たちによる、善き面」だから。
神足さんとその御家族の物語に魅了されるのはわかる(僕もそうです)。
でも、だからといって、「さまざまな事情で、施設に障害を持つ人をあずける家族」を責めないでほしい、それだけは、あえて言っておきたいのです。


「ああ、神足さんというのは、本当に大勢の人に愛されていたのだな」と感じました。
この本の挿絵を描いているのは、『恨ミシュラン』でのパートナー、そして、多くの人にとっての「コータリン像」をつくった似顔絵を描いた、西原理恵子さん。
(その西原さんに対して、「元雑誌編集者としては、最近の西原さんの本のなかには、売れるからといって作りが雑なものがあると感じる。でも内容はやっぱり面白い」なんて、さりげなく苦言を呈しているのは、なんとも神足さんらしくて、僕はちょっと嬉しくなってしまいました)
小島慶子さんや水道橋博士などの芸能界の友人や、編集者時代からの友人に、地元・広島の仲間。そして、大事な家族。
この本のオビに、西原さんが、

「あれだけ好き勝手したのになあー!」
 なんて素敵な家族に恵まれたんだか。
 あんた、それ奇跡やでー!」

という言葉を寄せています。
アルコール依存症、そして癌に苦しんだ夫との生活を経験した西原さんには、これが「奇跡」であることが、よりいっそう切実にわかるのではないかと。
病人も大変だけど、その病人の気持ちをわずかな表情の変化で判断したり、「ひとりではできない、たくさんのこと」を日常の中で、こまめにサポートする。
変わってしまったのは、神足さん本人の生活だけではありません。


他人の幸不幸を決めつけるのは、好きじゃない。
でも、間違いなく、神足さんは「人の縁に恵まれている」と思うのです。
そして、神足さんは、こんなに多くの人に慕われるくらい、魅力的な人なのだな、ということも伝わってきました。

 脚が動かないというのがどんな感じかというと、夢のなかで一生懸命、声を限りに叫んでいるのに、近くにいるにもかかわらず、声が届かない。
 誰も気づいてくれない。そんな感じか……。
 そこにあって、届かない感じだ。
 昔、歩いていたのだから、歩く感覚はわかっているはずだ。
 しかし、だ。
 歩こうと思うと、歩くという指令は逆に脚に届かない。
 食べようと思って左手を口に持っていこうと考えると、手は動かなくなる。
 話そうと思うと、話せなくなる。自分が考えてやろうと思うと、動きは止まる。
 やはり、脳の指令はうまく末端に届かなくなってしまっている。
 逆に、考えずに自然に出てしまったようなときは、声も出るし、脚も動く。
 考えないというのは、むずかしいものだ。
 人は知らず知らずに考えることと動かすことの2つの動作を行っているが、それにずれが生じると、しようとしていることは何もできなくなる。
 できの悪いロボットのようなものだ。

 最近、身体がよく動くようになった。
 動くといっても、頭が少し前に倒せるようになったとか、そんなものだ。
 けれど、ボクにとってはかなりの前進だ。
 身体をおじぎするように前に倒せるということは、蕎麦やラーメンを啜ることができる。原稿も読めるし、ご飯もこぼさない。
 こんな少しのことができるようになるだけで、無限にできることが増えるのだ。人間の身体というのは、すごいものだ。よくできたもんだと、つくづく思う。
 意外と単純で、かなり複雑なものだ。

この本を読んでいると、神足さんの「身体感覚を言葉にすること」の鋭さに圧倒されるんですよね。
僕は、麻痺などの障害を持つ人と接する機会が多いのだけれども、「麻痺しているというのは、どういう感覚なのか」「他人からみれば『ほんの少しだけ』に見える機能の向上が、こんなにできることを増やしていくこと」を実感することはできていなかったなあ、と思い知らされました。
神足さんが、まだ重度の障害からの恢復の途中にありながらも、これだけの「言葉の力」を持ち、こうして言葉にして教えてくれていることに、僕は圧倒されました。
病気の性質上、「それを体験した人」が「それを言葉にして伝える」のは難しいんですよ、基本的に。
神足さんが持つ「卓越した言葉の力」があったからこそ、できたのかな。と。


いま、「書くこと」が、神足さんの生きがいになっています。
ここには、人と言葉の幸福な関係がある。
神足さんの文章を、これからも読んでいきたい、僕はただ、そう思っています。

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