琥珀色の戯言

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【読書感想】捨てる女 ☆☆☆☆


捨てる女

捨てる女

内容紹介
「なんでも貰う拾う集める貯める暮らしから、捨て暮らしに一転したあたしの人生。捨てるものがなくなったそのとき、雲水のごとく自在になるのか、それとも真っ白い灰になって燃え尽きるのか、さっぱりわからないまま、今はとにかく捨て続けるしかないのでありました」(本文より) 『身体のいいなり』の次は"気持ちのいいなり"となった著者が、生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本まで大放出する捨て暮らしエッセイ。「本の雑誌」大好評連載「黒豚革の手帖」、ついに単行本に!


おお、『世界屠畜紀行』の内澤旬子さんの「断捨離」本か……
などと思いながら手に取ったのですが、『本の雑誌』に連載されていた「黒豚皮の手帖」をまとめたものだったのですね。
あの連載、僕も楽しみに読んでいました(といいつつ、『本の雑誌』も毎月欠かさず読んでいた、というわけでもないのですが……)

 気がついたら、部屋も暮らしもなにもかもが、カオスになってしまった。その理由を考えてみる。仕事を内容どころか種類すら選ばずに請けていたことも、大きい。けれども、やはりあれだ。本も物もなにもかも捨てられない体質そのものが、いけないのではないだろうか。しかも捨てられないだけではない。古着や骨壺、がらくたやゴミまでを、買ったり拾ったりするのも大好きなのだ。
 博多人形の顔のかけらを大事そうに拾ってきて、母親の顔を着火した般若の面みたいにゆがませたのは小学一年生のときだったか。子どものときからこういう謎なものを拾い集めて箱に貯め込んだり、家の裏手にこっそり並べていたのである。ほら、ガラクタをみっしり家の外にまで並べている家があるじゃないですか。一歩間違えばゴミ屋敷と言われてしまうような家。あれを見かけるたびに、妙な親近感が湧いたものだ。あのわけがわからないけど、アートに見えなくもない感じ、吸い込まれるように惹かれてしまうのである。

もともと、内澤さんのお母さんが「なんでも捨ててしまいたい人」で、その反動からか、内澤さん自身は「なかなかモノが捨てられない人」だったそうです。
(ちなみに、お父さんは「捨てられない人」だったようです)
そういうのって、親が反面教師になるのかもしれない、というような話が出てきて、僕も自分のことを思い返してしまいました。
僕自身も「捨てられない人間」なのですが、うちの親も、そんなに「断捨離系」じゃなかったので、すべての親子にあてはまるわけではなさそうですが。


そんな内澤さんが「なるべく身のまわりのモノを少なくして生活すること」にシフトするようになったのは、乳がんにかかり、闘病生活をおくった後のことでした。
直接の「きっかけ」については、こう書かれています。

 きっかけは、ブックレビュー番組に出演するんで読まされた、村上春樹の『1Q84』。あの本でなにが一番印象に残ったかって、登場人物が自宅で飲みかけのビールを流しに捨てる描写。すごく当たり前に捨てていることに、衝撃を受けた。
 これまで自宅で缶ビールを開けようもんなら、どんなことがあっても飲み干してたから、ちょうど気持ちよくなったところで止めることができない。だって残すのももったいなくて、あとで豚肉でも煮ろと言われそうだが、自分にそんなマメなことができるわけもなく、冷蔵庫のゴミを増やすだけ。だったらと全部飲み干して、お腹が冷えすぎ、気分が悪くなる。

ああ、『1Q84』の、そこがいちばん引っかかった人もいるのか……
でも、どんなにお腹が一杯でも、喉が渇いていなくても、飲み物を流しに捨てることができない、という気持ちは、僕にもよくわかります。
それで高頻度にトイレに行きたくなって、かえって苦労することも多いんだよなあ。
飲んで具合悪くなるくらいなら、捨ててしまったほうが、はるかに「合理的」なのはわかるのだけれども……
そういう「短絡的な貧乏性」みたいなものって、いくつになっても変わらない人間は変わらない。
岡田斗司夫さんは「レコーディング・ダイエット」の説明のなかで、「ポテトチップスが食べたくなったら、少しだけ食べてあとは捨てればいい。あなたがそれをもったいないと全部食べようが一口だけで捨てようが、いずれにしてもそれがアフリカの飢えた子どものところにいまさら届くはずもないのだから」というようなことを書かれていました。
頭では十分すぎるほど、理解しているつもりなんだけど、「残す」ということへの抵抗感は、なかなか克服できないものです。


内澤さんは、病をきっかけに、ごちゃごちゃしたところや、風通しの悪い場所に息苦しさを強く感じるようになり、「モノが無い空間」を求めるようになるのです。
そして、内澤さんと同じく本が大好きだった、書物の蒐集家の元夫との生活も破綻。
男である僕にとっては、それまで自分と同じように「本などの好きなモノに囲まれた生活」を楽しんできたはずの配偶者が、急に「断捨離」に目覚め、家のものを捨てたがるようになってしまったというのは「なんだか突然降ってわいた天災のようなもの」だったのではないかなあ、と考えてしまうところもあるんですよ。
今後の収入の見通しもつかないところに「お金にならないことを楽しんでやっている」夫に嫌気がさした、というのは、ああ、それはわかる、という気がしました。
でも、夫の側の「病気がきっかけで、急にいろんなものを捨てたり、お金のことに煩くなってしまったパートナー」に戸惑う気持ちも、想像できるんですよね。
まあなんというか、人生には、どうしようもない溝ができることもあるのかな、とか、考えてみたり。


この本のタイトルは『捨てる女』なのですが、モノを捨てるためのノウハウ、とか、整理整頓のコツ、みたいなことが書いてあるわけではありません。
内澤さんの「細かいんだけど、やわらかいイラスト」を交じえながら、乳がんをきっかけに「捨てる生活」を志してから、東日本大震災を挟み、3匹の豚を育てて自ら食べ、蔵書やイラストの原本を売って「身軽に」なるまでの経緯が綴られているのです。


内澤さんは「捨てたい」というちょっとした強迫観念に駆られている一方で、「捨てることの効果」に、あまり期待していないようにも見えます。

 しかし部屋を整理するにはせっかく買ったモノ、読んだ本への執着を断たねばならない。執着を断てばいいことがあると断じる「断捨離」が、だからこそブームになっているんだろう。
 それにしても捨てることで理想の自分に近づくなんてことが本当にあるんだろうか。捨てたい病にとりつかれたあたしは、「断捨離」本を読みかけたんだが、途中で放り出してしまった。もちろん参考になる部分もあったのだが、なんていうんでしょうか、捨てることで得られる精神境地がワンランク上の状態かの如く書かれているのには、どうにも賛同できなかったのであった。
 今の自分の、捨てまくりたくてたまらん心境の先にあるものが、幸福(当社比)だとは、まるで思えない。さっぱりはするだろうけど、そのさっぱりってそんなに偉いものか?? それに本当に捨てるだけで、魂のステージがあがるか??

僕も「捨てるだけで偉くなるのか?」とは思うんですよ。
「捨てないと物理的なスペースがどんどん狭くなっていってしまう」という現実があるので、捨てないわけにもいかないのですが。
片付けるのはめんどくさいし、自分にとって捨てたくないものを捨てるためには、そのくらいの「思い込み」や「理由」を設定しないと難しい、というところもあるんですよね、たぶん。


それにしても、内澤さんが、これまで世界中で集めてきたという「さまざまな装丁の本」を手放す話は、読んでいて僕もつらかった。
御本人は、それこそ「感傷的になっていては、一冊も減らないので、あれこれ考えずに手放す」と決められていたみたいで、泣き言はなし、だったのですが。
それぞれの本の歴史や入手したときの思い出の話などを読んでいると、「こういうのって、電子書籍にはない、紙の本の魅力だよなあ」なんて思いましたし。


とりあえず捨てられそうなものを捨ててしまったあとの内澤さんは、こう書いておられます。

 会期後に売れ残った古本は、モリスの本のほか、ごく一部をのぞいて日月堂を通して市場に出し、イラスト原画は立石書店の岡島一郎さんに預けて引き続き売っていただくことにして、文字通り手元にはなにも残らないように、した。
 そうして気がついたら、結構重めな鬱状態に陥っていたのだった。この数年感、古本もイラスト原画もなにもかも、持ち続けていることが重荷で重荷で重荷で重荷で、放り出したくてしかたがなかったにもかかわらず、手放してみたら、すっきりしゃっきりどころか、ガックリしてしまったのだった。えーっ、なんでだ、自分。
 本当に必要なものだったとは思えない。いやどう考えても、持っていたくはなかった。それは事実。なのにこのガックリ感はなんなんだろうか。身内を失くしたかのような喪失感。あれ、離婚したときにもこんな喪失感は抱えなかったんだが?

「捨てる人生」も、一直線、というわけにはいかないみたいです。
「あの世までは持っていけない」ことは、わかっているつもりなんだけど。

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