- 作者: 小田嶋隆
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/12/04
- メディア: 単行本
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内容紹介
北朝鮮ばりのニュース原稿に説教くさい五輪招致コピー、野放図な自分語りはもはや私生活ストリップ。日本は「ポエム」であふれてる!
小田嶋隆さんのコラム集。
僕は小田嶋さんのコラムはいつも楽しみに読んでいるのですが、なぜか、この『ポエムに万歳!』は、読むのにふだんより時間がかかってしまいました。
多分、具体的な事件に対する意見よりも、今の日本の言論界に蔓延する「ポエム」への違和感など、やや抽象的な内容が多いためではないかと思うのですが。
私は必ずしも「詩」が高尚で特権的かつ特別な文芸であると考えているのではない。低俗な詩を「ポエム」と呼んでいるのでもない。
詩は、詩として書かれたものすべてを指す言葉だ。だから、ダメな詩でも、くだらない詩でも、近い困難な象徴詩でも、詩が詩であることに変わりはない。
一方、ポエムは、詩ではない。
散文でもない。手紙文でも声明文でも記事文でもルポルタージュでもない。
ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったところのものだ。その、志半ばにして、道を踏み外して脱線してしまった文章の断片が、用紙の上に(あるいは液晶画面の上に)定着すると「ポエム」になる。私は、そのように考えている。
だから、ポエムは、文章の行間に、突然顔を出すことがある。感情に流れて文体がブレてしまったり、語尾が舌っ足らずになったり、結論が、前提と関係なく屹立したりすると、文章は、ポエムの色彩を帯びる。
たとえば、書き手が冷静さを失っていたり、逆に、本当の気持ちを隠そうとしてまわりくどい書き方をしていたりすると、そこにポエムが現出する。最も典型的な例では、青年誌の水着グラビアページが、ポエムの黄金郷だ。
直視をはばかる画像と、それを眺める青年の劣情を詩的感興に似た場所に着地させるためには、ポエムという、論理に依らない、欲望と感情のレトリックがどうしても必要だからだ。
別の言葉で言うなら、照れているとき、人はポエマーになるわけだ。
「青年誌の水着グラビアページに添えられている文章」が、「ポエムの典型」なのか……
そういわれると、けっこうわかったような気分になりました。
あれをまともに読む人がいるのだろうか?と昔から思っていたけれど、ああいう「読んでいるほうが照れるような」文章が添えられていないと、青年誌のグラビアって、なんだか生々しすぎるところがあるのかもしれません。
ちなみに、小田嶋さんは、この本のなかで、中田英寿選手の引退時のメールを「ポエム」の一例として紹介しています。
俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
(後略)
小田嶋さんは、このメッセージが、本人のブログにただ掲載されていただけであれば、そんなに違和感はなかったそうなのですが、「これがたくさんのメディアによって大袈裟に採り上げられ、『国民的ポエム』になってしまったこと」を嘆いておられます。
いや、「ある意味で」という限定辞を添えて言えば、あれはあれで名文だった。でも、TPOを考えれば、中田の声明文は、恥ずかしい言葉だった。私は、30歳になろうという男が、感情を決壊させた文章を書いてしまったのだとしたら、その件については、表だった場所では触れずに済ますのが、大人のたしなみだと考えている。だって、多少上手に書けていたところで、書いてしまったことそのものが、本人にとっては、黒歴史であるはずだからだ。
ああ、この手の黒歴史を、ブログという場所で大量に生産し続けている僕にとっては、穴があったら入りたい気分になってきました。
正直、僕は「ポエム」を嘲笑することはできないし、みんなが「ちゃんとした文章」を書く必要もないのでは?と言いたくなったんですよね。
ただ、「ポエム化によって、いろんなことが曖昧になって、誤魔化されている」というのは、そのとおりなのかもしれません。
内容を責められても「だって、個人のポエムなんだから」って言われたら、どうしようもないところはあるし。
さらに大きな問題は、公的な場所でも「ポエム化」によって、問題の本質が覆い隠されて、「なんとなく反論しがたい雰囲気」がつくられてしまうことなのでしょう。
この本のなかで、小田嶋さんが、全柔連の暴力事件について、こんな話をされていたのが印象的でした。
全柔連が身内をかばってトカゲの尻尾切りをすることは、はじめからわかっていたことだ。あの種の競技団体が組織防衛を第一の行動原理として動くことは、善し悪しを言う以前に、そもそも、存在の前提だ。
自浄能力というのは、自らの中に多少とも「外部」を持っている組織がはじめて意識できることで、身内の人間が身内のために集まっている組織にそれを求めるのは、金魚鉢の中の金魚に滝登りを期待するのと同じで、そもそもが無理筋なのだ。
そういう意味でマスメディアが、全柔連の態度を「トカゲの尻尾切り」と言って断罪したのは当然のなりゆきではあった。
が、「トカゲの尻尾切り」という言葉をマスメディアの人間が言う資格を持っているのかというと、これはまた別の話になる。なぜなら、マスコミの記者は、半ば公然と展開されてきた畳の上の体罰に対して、見て見ぬふりをしてきたのみならず、その「熱血指導」を美化してきた張本人でもあるからだ。
そして、マスメディアは「自分たちの正当化」を、他者の口を借りて行っていくのです。
週刊文春は、(2013年)2月14日号でも、「柔道女子”15人の乱”全真相」として、内部告発の背後に全柔連内部の派閥争いがあることを示唆する記事を載せている。
思うに、体罰推進派ないしは容認派の主張は、堂々と主張できる内容でないだけに、こういうカタチで(「記事の実態と違う見出し」や「告発の意味をボカす記事」として)噴出する。
原発推進派の言論に似ている。
「きれいごとを言うなよ」
という声に対して、有効な反論を返すのは、実はとても難しい。
本当のことを言うと、ナマの議論では、この種の「現実主義者」には勝てない。
というのは、暴力を根絶やしにする以前に、われわれは、暴力とは別の根によって大木を支える方法を発見しなければならないからだ。
そんなことが可能なのだろうか。
「不満なら対案を出せ!対案もないのに批判だけするのは意味がない!」
結局のところ、暴力的な方法が続いている状況では、「それによる経験」しかないのだから、それ以外の方法は「そんなきれいごとで、やっていけると思うのか?何の実績もないのに」と押しつぶされてしまうんですよね。
結果的に「現状追認しか、ないじゃないか」と言い寄られてしまう。
「原発問題」も、まさにそんな感じになってしまっているのです。
小田嶋さんのコラムというのは、いまの日本では稀有な「長いモノに巻かれていないコラム」だと思うんですよ。
だから、それはマスメディアにとっては耳に痛いだろうと思う。
そして、マスメディアではないけれど、僕にとっても、読んでいて耳に痛いこともあるのです。
小田嶋さんは巻末の対談で、コラムとエッセーの違いについて、こう仰っています。
それはコラムとエッセーの違いについて、昔から思っていたことです。コラムというのは、話題やテーマといった対象寄りなんです。俺が俺がという話はあまり出ない。エッセーというのは、女優さんの副業だったり、作家の筆のすさびだったりして、俺の庭にとか、俺が俺がという思いの方が出る、私的なものです。
だから、自分としてはコラムと言いたい気持ちがある。
小田嶋さんは、いまの日本では数少ない「本物のコラムニスト」のひとりだと思います。
個人的には「素人が書くポエムくらいは、どうか大目にみてください……」とお願いしたいところではありますけど。