琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】誕生日を知らない女の子 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
心の傷と闘う子どもたちの現実と、再生への希望。“お化けの声”が聞こえてくる美由。「カーテンのお部屋」に何時間も引きこもる雅人。家族を知らず、周囲はすべて敵だった拓海。どんなに傷ついても、実母のもとに帰りたいと願う明日香。「子どもを殺してしまうかもしれない」と虐待の連鎖に苦しむ沙織。そして、彼らに寄り添い、再生へと導く医師や里親たち。家族とは何か!?生きるとは何か!?人間の可能性を見つめた感動の記録。2013年第11回開高健ノンフィクション賞受賞作!


「虐待」についてのルポルタージュは、僕もいくつか読んできました。
なぜ、親たちは子どもを虐待するのか、そして、その親たちに、「社会」は何ができるのか……


とりあえず、酷い親から引き離すことができれば、子どもたちは幸せになれるはず。
なんとなく、そう思いこんでいたので、この本を読んで、かなりの衝撃を受けました。
一度虐待を受け、傷ついてしまった子どもたちは、その後もずっと苦しみ続けるのです。
そして、その子どもたちと接する、「理想をもって、子どもたちを救おうとしている大人たち」も、理想と子どもたちの行動のギャップに、傷ついていく……


この本を読んでいて最初に驚かされたのは、親にとっての「子どもへの愛着」というものが、ものすごく理不尽な形であらわれることがある、ということでした。

 5歳で入院したある女児は、幼い頃からてんかんの発作でたびたび救急搬送され、いろいろな病院での入退院を繰り返してきたという。
「そうしたことが何回か続いたけれども、検査をしても脳波の異常はなく、入院中は一度も発作がない。それまでに、この子は歩行ができないということで、身体障害者手帳三級も取っていた。母親が『口から物が食べられない』とも言うので、鼻から胃に入れたチューブで栄養を獲っていたし、甲状腺も悪いといって薬も飲んでいた。そこで入院先の病院でMSBP(代理ミュンヒハウゼン症候群:親が子どもを病人に仕立て、不必要な検査や治療をさせる症例のこと)が疑われ、虐待通告されました」
 児童相談書(児相)で弁護士を交えて検討会を行った結果、一時保護が決まり、保育園に通園したところを職権で保護されて、児相職員に連れられ、あいち小児に入院となった。
「この子は突然連れてこられたんだけど、取り乱すこともなく素直に指示に従う子だった。食事をさせたら何の問題もなく口からむしゃむしゃ食べるから、その時からチューブは抜いたし、すたすた歩いて歩行にも問題はなかった」
 入院後、母親が訴えていた女児の異常はすべて否定された。てんかん甲状腺異常も、そして身体障害者手帳も女児には不必要なものだった。すべて母親によるねつ造だったのだ。
「このお母さんは、この子のためのブログもやっていました。子育て日記で、私はこんなにがんばってこの子を育てていますよって」
 高木香織も同じだった。育児ブログで「ヘリコプターで京大病院に搬送されて……、ICUに入って……、早くよくなりますように……」と書く一方、点滴ラインに腐った水やスポーツドリンクを入れていた。五女は母親の面会の後にその容態が悪化するということが続き、病院は警察に通報していた。つまり、警察官の監視下にあったからこその逮捕劇だった。

 なんでこんなことをする親がいるんだ?
 僕もそう思いました。
 

 著者も、このあいち小児の医師に「なぜ?」と問いかけます。
 それに対して、医師はこう答えたのです。

「こういう親が、現にいるわけです。説明ができないマイナスの部分にわれわれは直面していくしかない。言葉で説明できないけれども、こういう親がいる。そこからスタートしないと。虐待は何よりも、子どもの側から見るべきものです。子どもを含めた虐待全体の中で考えていかないといけない」


 ああ、僕も「虐待する親」の話を聞くたびに「なんでそんなことをするんだろう?どんな背景があったんだろう?」という「理由さがし」ばかりしていました。
 現場にとっては、「その親の異常さを浮き彫りにし、理由さがしをすることよりも、子どもをどうしていくべきかを考えなければならない」のです。
 実際に「こういう親が現にいる」ことと、「理由さがしをしているあいだにも、子どもの肉体はどんどん成長していく」ことは事実なのだから。

 2013年7月25日発表の厚生労働省のデータによれば、2011年度、虐待により死亡した子どもは99人、そのうち、心中を除く数が58人。その前年度は98人の子どもが亡くなり、心中以外の数は51人。虐待の末に多くの子どもたちが殺されているというのも紛れもない事実だ。
 でも一方で、「殺されずにすんで」児童相談所によって保護された子どもたちは、それで一件落着なのか。そうではなかった。
 ならば、保護された膨大な子どもたちの「その後」に何が待っているのか。そこに、きちんと光を当てなければいけないのではないか。何よりも、まずはこの目でありのままを見ていきたい。


 心中以外の虐待で亡くなっている子どもが、年間50人あまり。
 しかしながら、虐待を受けている子どもの数は、この何倍、何十倍、あるいはもっといそうです。
 「虐待を受けながら、生き残った子どもたち」には、その後の人生があるのです。


 2010年8月に、3歳7ヵ月の渡辺みゆきちゃんが杉並区の自宅の地下室で死亡する、という事件がありました。

 それから1年後、2011年8月20日みゆきちゃんの里親が傷害致死容疑で逮捕され、その死は全国ニュースとなった。遺体にあざや傷が多数あったことを不審に思った病院が警察に通報し、警視庁が虐待を視野に捜査を重ねた結果だった。
 逮捕、起訴された鈴池静(逮捕当時43歳)が声優だったこともあり、報道は加熱した。鈴池被告は2007年11月に東京都に里親の申請をし、みゆきちゃんと半年間にわたる面会や外出、宿泊などの交流を重ね、2009年9月に里子として引き取ったのだ。
 1年も経たずして、みゆきちゃんは「新しいお家」で命を落とす。この間、一体、何があったのだろう。
 手がかりを求めて、2011年9月11日にこども教育宝仙大学で開かれた「杉並里親傷害致死事件を考える緊急集会」に参加した。約100人の参加者は、ほとんどが全国から集まった里親だった。
 50代の男性が話し始めた。
「私は里子を預かるまで、子どもは愛情さえあればスクスク育つものだと思っていました。実子はそうやって育ちましたから。三歳の男の子が里子に来てから、妻は一年間の記憶がないと言います。私もまだつらくて話せない。ひょっとしたら殺してしまうかもと思ったこともあります。正直、子どもへの怒りが湧くこともありました」
 白髪の男性も話し始めた。
「私は里親になって三年目ですが、里子に来た女の子が学校で暴れるんです。かっとなると殴る蹴るが止まらない。彼女の胸倉をつかんで力で押さえたこともありますが、そうすると泣き出して止まらなくなる」
 里親たちが、これほど傷つき苦しんでいるとは思いもしないことだった。里親たちを苦しめるもの――それこそが「虐待の後遺症」なのだ。


 鈴池被告の事件は、ネットでもかなりの話題になりました。
「自分から里親になっておきながら、なんと酷い人間なんだ」と僕も思っていたのです。
 しかしながら、この本を読んで、「虐待の後遺症で、奇妙な行動をとったり、暴力をふるったり、言うことをきいてくれない子どもたち」の姿を知ると、「里親なのに酷い」というよりも、「里親になろうと思うくらいの善意がある人を『虐待』に向かわせてしまう、被虐待児を育てることの難しさ」を考えずにはいられなくなりました。


「子どもは愛情さえあればスクスクと育つものだと思っていました」
 たぶん、大部分は、それで「なんとかなる」のでしょう。
 ところが、「虐待されてきた子どもたち」は、「新しい家で、里親の愛情を注がれれば、すぐに普通の子どもになる」というわけではなかったのです。


 突然暴れ出したり、夜中にずっとブツブツ独り言を言い続けたり、カーテンの陰に隠れてしまう子どもたち。
 小さな生き物を「虐待」しはじめた例もあります。
 なかには、薬物療法が必要となった子どもたちもいます。

 友紀さんが最も戸惑ったのは、前章の美由ちゃんにも見られた”フリーズ”だった。実際、これが一番怖かったという。
「固まっちゃって、何も反応がなくなるのが、私には一番怖かった。なんで怒っているの? なんで固まっているの? って。そういうまさを見ていると、私は腹が立ってくるの。逆上して頭に血が上ってくるのがわかるんだよね。あたしをバカにしてんじゃないかって。これまで関わった子どもとの経験で、何も反応がないというのがなかったから不安になって、怒りが出てくるんだよ。なんか、内面の自分が出てくるの。カーッと頭に血が上って、叩いちゃうんじゃないか、蹴っちゃうんじゃないかって、それが怖かった。自分でどうしようもできなくて、とにかくまさがそうなったら離れることにしたんだけど、許せないわけよ、私には。相手の反応がないということが……」
 後に、雅人くんの妹の歩美ちゃんが泊まりにきた時のこと。歩美ちゃんのフリーズを目の当たりにしたことで、友紀さんの雅人くんへの怒りは収まった。
「『この服に着替えてね』って出した服が、あゆみちゃんには気に入らなかったんだね。その瞬間、固まった。『この服、嫌』って普通は言うでしょうに……。足を投げ出して座っているのだけれど、目はどっかへ行っている。耳も聞こえていない。思考も何もない。私は放っておいた。そしたら二時間でも二時間半でも、ずっとそのまま。まさがいくら、『あゆ、大丈夫か』って言ってもだめ。いやあ、すごいなって思ったの。これって別に、私を苛立たせようとしてやってることじゃないわって、本当にわかったの」
「解離」だった。
 雅人くんと歩美ちゃんのきょうだいも、こうやってフリーズすることで母親の暴力の嵐から身を守っていたのだ。

 どんな親でも「なかなか言うことをきいてくれない子ども」に苛立つことって、あると思います。
 この「フリーズ」の状態というのは、そうなってしまった経緯を里親は知らないだけに、「怖い」というのが正直な気持ちなのでしょう。
 この友紀さん、子ども思いの、すばらしい大人なんですよ。
 そんな人でさえ、被虐待児の「異変」に対しては、動揺を隠せない。
 「育児にある程度、経験と自信を持っているひと」だからこそ、その「違い」を受け入れるのが最初は難しい面もあるのかもしれません。
 それでも、粘り強く、「難しい子どもたち」に向き合って、心を開かせていく里親たちの姿が、僕にはとても印象的でした。
 だって、「里親のせいで、こんな子どもになってしまった」わけじゃない。
 にもかかわらず、その子が学校や家庭で問題を起こせば、「親」として対応していかなければならない。
 そこまでやっているにもかかわらず、被虐待児は「本物の親」のところに戻ることを望んでいることも少なくない。
 あんなに酷い目に遭わされた「親」なのに……
 愛情っていうのは、本当に、イビツで、どうしようもないものだということを考えさせられます。


 実際「虐待」っていうのは、そんなに僕たちに遠いところにあるわけでもない。
 「虐待を受けていた子どもたちを、癒してあげたい」と里親になるくらいの善意がある人でも、虐待をしてしまう場合もある。

「先生がポイントを付けるんだ。何かあったら減点されて、買い物にも行けないし、ごはんのお代わりもできなくなる。先生に調子のいいことをするやつばっかりが得をする」
 拓海くんの話で明らかになったのは、「ポイント」による支配だった。加点・減点の権限を持っている職員がポイントをちらつかせて子どもたちの行動を規制する。有無を言わせぬ、脅しに近い管理がされていた。

 この本の記述によると、養護施設のなかには、子どもを「支配」して問題が外に出ないようにするところもあるようです。
 もちろん、大部分は職員の献身的な努力で、良心的な運営がなされているのだと思うのですが……

 主任指導員の男性職員はこう話す。
「子どもたちは絶対的な味方である親から暴力を受けて、他人を信じることができなくなっています。だからここでは、安心感や愛される感覚を教えていきます。人が自分の味方になってくれることを体験することで、自分を大事にできるようになっていきますから」
 これが施設職員の共通の思いだった。
 だがそのために職員がどれほど骨身を削らざるを得ないのか、日々の奮闘を目の当たりにする取材でもあった。夜十時で勤務明けとなった若い女性職員が深夜の一時、二時までホームに留まり、小さい子たちが寝るまで待っていた高校生の話し相手となり、記録の作成に追われる。朝四時まで仮眠ができなかったという宿直明けの職員が、この日は結局、二時間の仮眠のあと午後三時まで休む間もなく仕事に追われていた。
「子どもたちは職員に愛情を求めています。だから職員は少しでも時間を作ろうと、時間外で働いています。勤務時間中は集団を維持することに力を注がざるを得ません。ホームが安心できる環境でなくてはなりませんから。国の職員配置基準では全然足りません。職員は疲弊し、次々に倒れていきます」

 これで良いのだろうか……良いはずがない、のだけれど……
 いまの日本で、「虐待を受けた子どもたち」に割かれている社会的資源は、あまりにも少なく、現場の人たちの善意を吸い尽くして、なんとかその形を保っているのです。

 
 子どもたち、そして、里親や施設の職員たちにとっては「ニュースになるような虐待」から子どもたちを引き離してからが、本当の「闘い」なのです。
 この本を通じて、その現実をひとりでも多くの人に知っていただければ、と思います。

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