琥珀色の戯言

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【読書感想】植村直己・夢の軌跡 ☆☆☆☆


植村直己・夢の軌跡

植村直己・夢の軌跡

南極大陸単独横断の夢半ばにして、マッキンリーの氷雪に植村直己が消えて30年―。


日本人初のエベレスト登頂、犬橇による北極圏1万2千キロ走破、北極点単独行とグリーンランド縦断。数々の偉業を達成してきた植村直己とは、どのような人間だったのだろう。


目次(抜粋)
「単独行」
「冒険家の食欲」
「先住民に学ぶ」
「現地から届いた手紙」
「エスキモー犬」
「公子さんのこと」
「南極の夢」


目次からわかるように、本書は時系列に植村の生涯を追うのではなく、彼を語るうえで欠かせないキーワードで人生を多面的に切り取り、稀代の冒険家の光と影の部分を鮮やかに浮かび上がらせている。
16年間、植村の活動を支え、夢を共に追い続けてきた著者にしか書けない、知られざるエピソードが満載。ウェブナショジオの人気連載を、単行本化にあたり大幅に改稿しました。
植村に憧れた人も、植村を知らない世代も、間違いなく楽しめる「植村」伝・決定版です。


 植村直己さんが、マッキンリー単独登頂後に消息を絶ってから、30年。
 もうそんなに経つんだなあ、と感慨深いものがあります。
 それは、1984年、植村さんが43歳のときのことでした。

 
 僕は当時、植村さんの著書を何冊か読み、メディアでその「冒険」を断片的に知っていたくらいだったのですが、なんとなく「そのうち、ひょっこり帰ってくるんじゃないかな」って思っていたんですよね。
 それまでの植村さんの活躍が、あまりにも「超人的」だったので。
 そして、そのわりには、常に飄々とした生きざまを見せてくれた人だったので。


 この本は、1968年、5年間の世界放浪から日本に戻ってきたばかりの若き日の植村直己と出会い、1984年まで、16年間植村さんをサポートし続けてきた文藝春秋の編集者によって書かれたものです。
 植村さんの人柄や冒険家としての特質、奥様のことなど、プライベートでも深い交流があった著者ならではの視点で、この「大冒険家」の素顔が紹介されているのです。


 はじめて出会ったときのことを、著者はこんなふうに書いています。

 十一月半ばのある日、植村は文藝春秋を訪ねてきてくれた。意外に小柄というのが最初の印象だった。しかし体はがっしりと厚みがあるのが一目で見て取れた。けっこう寒い季節なのに、彼は長袖の白いYシャツ一枚で、腕まくりをしていたのに少し驚いた。
 用意していた小部屋に彼を請じ入れ、話を聞きはじめたとたんに、これは大変な男に取材することになったと思った。話の内容が大変というのではない。話の内容にまで行きつくのがひと通りのことではなかったのである。
 彼は一言、二言話すたびに、顔を赤らめ、大汗をかいた。比喩としていっているのではない。上気した顔面に、汗が噴き出し、頬や顎にそれが流れ落ちた。言葉がうまく出ないのである。一言いってつっかえ、つっかえたことで顔を赤らめ、顔を赤らめながら、できるだけ誠実かつ正確に自分の体験を伝えようとする。そういうことなのだろうとすぐに推測がついたが、しかし私がそう思ったところでどうにもなるものではなかった。
 世の中には訥弁の人だっている。また、とつとつとよくわからない話し方をする人でも、後でテープを起こしてみると、いいよどんでいる部分が飛んで意外に話の筋道が通っていることだってある。私は編集者として少しばかりはそういう体験をしていたので、ふつうの口下手には驚かないつもりでいた。
 しかし植村は、度外れていた。言葉がほんとうに出てこないのだった。当人自身、そのことに困惑して、ウー、ウーと唸った。一節ごとに、「あのう」「このう」「そのう」「今の」を連発した。言葉よりも手ぶり身ぶりが先に立ち、それでも言葉が出ないとなると、ほんとうに身をよじった。


 これほどまでに「口下手」な人だったのか……
 それでいて植村さんは、全く生活様式が違う人たちのなかに飛び込んで、犬ぞりの技術を教えてもらったり、山に身体を馴らしたりもしているんですよね。
 もしかしたら、僕たちは、コミュニケーションの手段として、「言葉」を重視しすぎているのかもしれませんね。


 著者によると、植村さんは冒険中きちんと日記をつけていて、それ以外にも日頃から熱心にメモを残していたそうです。本人は「文章を書くのは嫌い」だと仰っていたそうなのですが、「記録魔」的なところがあったのです。
 これは、植村さんに限ったことではなく、歴史上の偉大な冒険家の多くは「冒険すること」と同じように「冒険を記録に残すこと」にも情熱を注いでいたのです。
 たしかに、記録に残さないと、どんな冒険でも後世に伝えられません。
 なかには「記録することをつくるために、冒険した人」もいたんじゃないかなあ。

 
 植村さんは、原則的に「単独行」の冒険家でした。

 ひとりで何事かをなすことが、何よりも楽しいのだ。そこに何にもまさる充実感を感じてしまうのだ。それが植村直己という男のありかたなのだろう。
 植村はいつもニコニコして、礼儀正しく、人当りがよかった。十分に協調的、さらにいえば社交性さえある男だった。チーム編成の登山を拒否しているのではない。彼は五年にわたる世界放浪の時代に、特に呼ばれてヨーロッパから明大山岳部ゴジュンバ・カン遠征に参加しているほどなのだ。
 さらに世界放浪から帰国した直後から、日本山岳会エベレスト遠征隊の一員にもなっている。そのような経緯を見ても、登山や冒険において何が何でも単独でなければならない、と考えていたわけではないことが明白だ。協力して何かを成しとげることができる男が、できればやはりひとりでやりたい、と思うのである。そして、ひとりでやりたい、と思ったとき、南極や北極の氷の世界、水平の世界が、彼の目の前に現れた、といえないだろうか。


 著者は、植村直己が生きた時代の「冒険家であり続けることのむずかしさ」にも言及しています。

 植村の北極点単独行は、北極探検史上どのような位置にあるのか。
 北極点に初めて到達したのは、先にもふれたように、1909年、アメリカのロバート・ピアリである。(フレデリック・クックは自分のほうが先、と主張したが、現在ではピアリの到達が定説になっている。)
 ピアリ以後の北極点到達をざっと見てみよう。
 1926年、バード(アメリカ)が飛行機で北極点往復。
 1958年、アメリカの原子力潜水艦ノーチラスが北極点を通過して北極海を横断。
 1968年、アメリカのプレーステッド隊がスノーモービルで。
 1969年、イギリスのハーバート隊が犬橇で。
 1971年、イタリアのモンジーノ隊が犬橇で。
 1978年、日大隊が犬橇で。同年、植村直己が犬橇、単独で。
 ついでに記しておくと、79年、ソ連隊がスキーによって。87年、風間深志がバイクによって、北極点に到達している。
 こうしてみると、植村の単独、犬橇での到達は、単独という点がひときわ光彩を放つ記録であることがわかる。「単独で」という冒険は植村以前に誰もやりとげていない。まぎれもなく植村の偉業である。
 しかし別の角度から見ると、それまで誰もやっていないことの実現に価値を置く冒険家に(とりわけ現代の冒険家に)、めざすべき行動の範囲はきわめて狭くなっているのは事実なのである。「犬橇による単独行」しか、誰もやらなかったことは残されていなかった、ともいえるのである。


 植村さんが「単独行」を好んだのは確かなのですが、あの時代に残されていた「冒険」が、「単独行」くらいしかなくなっていたのもまた、一面の真実ではありました。
 1970年代〜80年代前半でさえ、もう「残された場所や方法」は少なかったのですから、現在、2010年代は「冒険家」にとっては、生きづらい時代ではありますよね。
 植村さんは、「まだ地球上に冒険できる場所が、わずかながら残っていた最後の時代の冒険家」だったと言っても良いのかもしれません。


 著者は、植村直己という人の特徴として、冒険をする現地の人びとに学ぶ姿勢を挙げています。
 植村さんは、こんな発言をしておられます。

「現地の人には、その風土に生きる知恵がおのずとあるわけだから、そこで自分が何かやろうと思ったら、少しでも自分をそこに順化させていくというのは、当然ですね。
 これは極地だけでなく、アマゾンなどでも同じですね。アマゾン河を筏で下ったのは、金がないから舟なんか買えず、それで筏でということもあったんですが、筏でやれるんじゃないかと思ったのは、原住民が筏を使ってアマゾン河を通行していたからです。彼らはそうやってそこに住んでいる。オレだってそこに住めないわけじゃないだろう、という単純な発想が生まれてくる。彼らと同じようにやることができればいいはずだ、という気持ちになってくる」


 著者によると、冒険家、とくに西欧の冒険家には、「冒険先でも、自分たちの文化・文明を最大限に利用し、自然を克服しようとする傾向が強い」そうです。
 植村直己ほど、現地の人たちに「順化」しようという人はいなかった、と。
 その点において、植村さんは、特異的な冒険家だったのです。

 植村は、アマゾンの先住民にも、ネパールのシェルパ族にも、極地のエスキモーにも、自分と同じ人間という、ごくあたりまえの感情をもちつづけた。それが彼の人間を見る目だった。エスキモーのサバイバル技術には深い敬意をいだく一方で、エスキモーにもダメな奴がいるのをごく自然に受けとり、ダメな相手に対しては、困った奴という思いもちゃんともつことができた。そこがすごい。


 現代では「現地の人たちのやり方を学び、敬意を払う」という旅行者・冒険家は、少なくないと思われます。
 植村さんは、その先駆けでもあったわけです。
 ただし、植村さんは、先住民たちを過剰に美化してもいないんですよね。
 同じ人間なんだから、ダメな奴もいる、というのは「人間どうしの、あたりまえの付き合い方」なのですが、実際に違う人種や生活様式を持つ人に接すると、身構えてしまって、なかなかそれができないのです。
 頑なに排斥するか、美化してしまうか、極端になりがちで。

 
 植村直己さんと、奥様・公子さんのなれそめ、などのエピソードも紹介されていますし、この希代の大冒険家の素顔を垣間見ることができる一冊です。
 「なぜ、あれから30年経っても、語り継がれているのか?」
 もしかしたら、冒険するべき場所が失われてしまったようにも見える今こそ、植村直己さんと、彼が遺したものに触れる意味は大きくなっているのではないか、と僕は感じるのです。

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