- 作者: 太田光
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/02/07
- メディア: 文庫
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- 作者: 太田 光
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/03/14
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内容(「BOOK」データベースより)
誰よりも向田邦子を讃仰している太田光による最も誠実なオマージュ。「こんなことを向田さん以外の誰が書けるだろう」というその傑出した魅力を小説・エッセイ・シナリオの奇跡のような表現を通して綴る。太田光が選ぶ、向田作品の「読む」「観る」ベスト10の原文も掲載。向田読者の幸福を存分に味わえる、最高の入門書にして最強の向田論。
僕が向田邦子さんの作品を読むようになったのは、高校時代、図書館で『父の詫び状』を読んでからでした。
僕は昔から「ホームドラマ」というジャンルが好きではありませんでした。
他人の家のこととか、恋愛のこととか、あまり興味を持てなくて。
出てくるのは、かなり年上の人ばかりで、同じようなことの焼き直しが繰り返されているだけのように見えて。
いまでも、テレビドラマはほとんど観ないのです。
記憶している範囲では、ここ数年で最初から最後まで観たドラマって『孤独のグルメ』と『リーガルハイ』だけですし。
ところが、そんな僕なのに、向田邦子さんのエッセイには、すっかりハマってしまって。
もちろん、太田光さんほど読み込んではいないのですが、これまでに何度も読み返しているのです。
昔は、向田さんに感情移入して、厳しいお父さんに「なんて父親だ……」と憤ったりもしていましたが、いまはむしろ、お父さんの不器用さ、娘への優しさを拾い集めてしまいます。
そして、どちらの立場で読んでも、向田さんのエッセイは面白い。
この本を読むまで、「なんで爆笑問題の太田さんが、向田邦子さんのことを、こんなに敬愛しているのだろう?」と思っていたんですよ。
太田さんが人気タレントだからこそ、こういう本の存在が許されるのではないか、とも。
しかしながら、この本を読んでいると、「ああ、そういうことだったのか!」と、これまで何度も読んで読んできた向田作品の「うまく言葉にできなかった魅力」が、誠実に語られていることに驚きました。
『父の詫び状』について、太田さんは、こんなふうに紹介しています。
「父の詫び状」の最後は、実家で、向田さんが客の吐瀉物を掃除しているのを見て、ねぎらいの言葉一つかけなかった父からの手紙の中に、「此の度は格別の御働き」と書いてあったことを読者に知らせて終わる。そこに感情の描写はない。父がどういう気持ちだったろう、とか、その手紙を見た向田さんがどう感じたか、などは全く書いてない。
それはある意味素っ気ない。しかし、”どう感じたか”とを書いてないからといって、向田さんの父への感情がわからないかというと、そうではない。
(中略)
「父の詫び状」の中で、実は、淡々と慎重に感情の表現を避けている向田さんが、一箇所だけ、感情的になっている所がある。最後の一行だ。
「それが父の詫び状であった」という言葉。
手紙の中には、「此の度は格別の御働き」とあっただけで、詫びの言葉は一言もない。この武骨な手紙を、「詫び状」と断定したところに、向田さんらしくない、感情の表現がある。
ああ、なるほど……
たしかに「詫び状」というか、その手紙の内容だけからすれば、戦国時代に武将が部下に与えた「感状」みたいなんですよね。
「此の度は格別の御働き」ですから。
こういう話をするときには、あえて、自分の感情めいたものを、魚の小骨を丁寧に抜いていくように排除していった向田さんから、最後の最後に溢れ出してしまった、「詫び状」という言葉。
そこには、言葉にできない、父親と娘の「交信」があったのだと僕も思います。
そういうところを、ベタベタと書かないのが、向田さんの凄さ、なのでしょうね。
太田さんは「表現者としての向田邦子の凄さ」をこんなふうに語っておられます。
”表現”とは、”何もかも言いたいことを言える自由”だと思っている人がいる。”自己表現”とは、”自分を出す”ことだと思っている人がいる。そう思って、インターネットの中に、思いつくままの罵詈雑言、恨みつらみを書き連ねる。そうして周りを傷付ける。そんな自分に誇りを持てるはずもなく、そういう人は自分を愛せない。また、それで壊れた自分の周りの世界は自分自身の反映だ。自分を愛せなければそんな世界を愛せるはずもない。不器用なことだと思う。
自己表現とは、自分を表すことではなくて、自分を消すことだ。表現における自由とは、不自由を受け入れることだ。本当の自由とは、自由と決別する覚悟をすることだ。その覚悟が相手を守り、自分を守るのだ。
向田邦子は、少女の頃から、それを知っていたのだと思う。私のようなものにとって、本当に恐ろしい表現者とは、こういう人だ。本当の天才とは、こういう人だ。「表現しない」という覚悟。「言葉にしない」という覚悟。向田さんの沈黙には、いつも、本当に震える。
テレビその他で私を知っている人にはよくわかると思うが、私には、これが絶対出来ないという自信がある。トホホ。
この本を読むと、この文章の意味がよくわかります。
テレビドラマのような映像の世界に限らず、小説やエッセイだって、読者は「書かれていることを読む」はずです。
逆にいえば「書かれていないことは、伝わらない」。
ところが、向田邦子さんの作品は「書かれていないことにこそ、大事なものが含まれている」ことを、浮き彫りにしているのです。
僕もこうして書いていて、「書くべきこと、書きたいことを書くのは難しい」と痛感しています。
そして、「書くべきではないことを、書かないこと」もまた、すごく難しい。
いや、そういうことに気付くのさえ、難しい。
太田さんは「芸」の世界に生きてきて「沈黙の意味」について、ずっと考えているのだろうなあ。
この本のなかには、太田さんによる「向田邦子論」だけではなくて、太田さんが選んだ向田さんの作品(小説、エッセイ、脚本」)も収録されています。
僕も向田さんのエッセイは何度も読み返しているので「そうそう、これ!」と納得のチョイス。
『ごはん』というエッセイは、僕もよく覚えています。
「空襲のとき、土足で家に入るのに、ちょっとワクワクしていたようにみえた、というお母さんと、つま先で遠慮がちに歩いていた」というお父さん。
そして、東京大空襲のあと、「もうこの戦争で、生き延びることはできないかもしれない」とありったけの食材でつくられた「最後の晩餐」。
これほど「戦争という時代の波にのみこまれた市井の人々」が「生き生きと」描かれた文章は、あまり無いような気がします。
向田さんの文章は、読みやすくて、わかりやすい(ように見える)。
でも、誰にも真似ができない。
この本のなかに、向田さんが書いたもののなかで、僕がいちばん好きな、この文章も収められていました。
『眠る盃』より。
マハシャイ・マミオ殿
偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・新しもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・オッチョコチョイ……。
きりがないからやめますが、貴男はまことに男の中の男であります。
私はそこに惚れているのです。
不思議ですよね、こんなにネガティブなことばかり書いてあるのに、「惚れている」ことが、伝わってくるし、なぜか「惚れるって、そういうことなんだよな……」と、妙に納得してしまうのです。
(ちなみに、「マミオ」は向田さんの愛猫です)
僕はこれを読んだとき、「なぜ大人は、どうしようもない恋愛をするのか」が、少しだけ、わかったような気がしたのです。
高校時代に読んだ、向田さんのエッセイや小説は、描かれている時代背景もあって、「ちょっと古くさいけど、わかるなこれ」と感じたんですよ。
ところが、あれから25年くらい経って読み返してみても、「ちょっと古くさい」ままなのです。
当時「新鮮な内容」だと思っていたエッセイのほとんどは、いまとなっては「化石のようなもので、あの時代の懐かしさしか感じなくなっている」のに。
いつでも少しだけ古くさいというのは、もしかしたら、「普遍」にいちばん近いのかもしれませんね。
- 作者: 向田邦子
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