- 作者: 戸部田誠(てれびのスキマ)
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2014/03/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。
- 作者: 戸部田誠(てれびのスキマ)
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内容紹介
タモリをもっと知りたくて。
デビュー時から現在までの、タモリの様々な発言やエピソードを丹念に読み解き、その特異性と唯一無二の魅力に迫る。 親しみ深くて謎の多い、孤高の男の実像とは。
タモリは過去や未来にこだわることの不毛さに対し、若い時から(あるいは幼少時から)問題意識を持ち、考えぬいた末に「現状を肯定する」という生き方を選択した。いかに執着を捨て、刹那的に生きることを選べるか。その実践として、「タモリ」がある。(本文より)
イラスト:小田 扉
序 タモリにとって『いいとも』終了とは何か
1 タモリにとって「偽善」とは何か
2 タモリにとって「アドリブ」とは何か
3 タモリにとって「意味」とは何か
4 タモリにとって「言葉」とは何か
5 タモリにとって「家族」とは何か
6 タモリにとって「他者」とは何か
7 タモリにとって「エロス」とは何か
8 タモリにとって「仕事」とは何か
9 タモリにとって「希望」とは何か
10 タモリにとって「タモリ」とは何か
これは面白かった。
『笑っていいとも』終了にともなって、さまざまな「タモリ本」が出ていますが、僕がこれまでに読んだなかで、いちばん好きです。
タモリさんと直接面識がある人ではなく、著者のように「俯瞰できる人」だからこそ、タモリさんの「全体像」みたいなものが、おぼろげながら描けているような気がするのです。
「タモリさんはな! いわば、俺と同じなんだよ! ”底辺の芸人”なんだよ!」
『27時間テレビ』で11年ぶりに『いいとも』に”乱入”した江頭2:50は、興奮してそう言い放った。
「あの時代にタモリさんが『いいとも』の司会になることが、どれだけセンセーショナルでアナーキーなことか分かるか!?」
タモリがデビューしたのは1975年、30歳の時。『いいとも』の開始は1982年だ。デビューから7年で帯番組の司会に抜擢されること自体異例だが、それが昼の生番組というのは、当時のタモリのマニアックな芸風を考えれば相当に大胆な起用である。
タモリ自身もこう語っている。
「僕はあの時、テレビにほぼスレスレに出ちゃいけない人間だった……。ヤバイやつだったんですよ、今で言うと誰かな? 江頭2:50。あんな感じのイメージですからギリギリですよ」
子どもの頃の記憶を辿ってみると、タモリさんが『笑っていいとも』の司会に起用されたとき、「えっ、タモリ? あのイグアナとかハナモゲラ語とかの人が、『笑ってる場合ですよ』の後に?」と、ちょっと驚いた記憶があります。
まあ、テレビ局にとってのちょっとした冒険で、半年くらいで終わるんだろうな、とも。
タモリさんは、そんな僕の予想を裏切って、『笑っていいとも』を異例の長寿番組にしていきました。
ただ、『笑っていいとも』の32年間についても、僕は正直、「お昼の番組のルーチンワークを32年間も続けていなければ、もっと『タモリさんらしい仕事』ができていたのではないか?」」なんて考えていたんですよ。
でも、この本を読んでみると、それは外野の思い込みでしかなくて、お昼に『笑っていいとも』を続けていくことが、タモリさんのライフワークだったのだということが、少しわかったような気がします。
むしろ、タモリさんのほうが「昼の番組のお約束」みたいなものを、少しずつ壊していったのです。
千原ジュニアはタモリを「変態」と称している。「生態が変わっているって意味で、変態」と。
2008年4月から『いいとも』レギュラーになったジュニアは、テレビに映らない、スタジオアルタでのタモリを見て驚いた。たとえばオープニング後のCM中、タモリは客席に向けて、毎回決まったコール&レスポンスを行っているというのだ。
タモリ「ノってるか?」
客席「イェーイ!」
タモリ「昨日セックスしたか?」
客席「イェーイ!」
これを毎日欠かさずやるという。さらに番組終了後にも必ず「ここでもうひとり、ゲストで来てもらってます。福山雅治君です」と言い、客席を「キャー!」と沸かす。そして「ちょっとは考えなさいよ。来るはずないでしょ」とオトす。それをまったく同じ言い回しで、毎日行うのだという。もちろんどちらもオンエアはされない。千原ジュニアはこう語る。
「あのサービス精神と、客席が沸くならおんなじことを何回やったっていいって開き直り感は、ほんまにすごい。しかも、それを毎日やっているタモリさんが、曜日のレギュラー以上に汗をかいてる」
お客さんは毎日入れ替わるわけですから、同じネタをやっても、「またかよ」とは思わないでしょう。
でも、それをやっているタモリさんの側には、当然「飽き」が出てくるはずです。
こういうのって、まわりの人に「また同じことやってる」って思われるのも、けっこうイヤだったりするじゃないですか。
ところが、タモリさんは、そこで「こんなマンネリ化したやりとりはイヤだ」というスタンスはとらないのです。
これだけ「型にはまったことが嫌い」だと言っている人にもかかわらず、現場では「毎日同じこと」を、こだわらずにやる。
考えれば考えるほど、よくわからなくなってきます。
『27時間テレビ』ラストの挨拶、その冒頭でタモリは、「団結、団結と言って団結したんですけど、そのぶん国民から離れたかもしれません」と切り出した。
同様の主旨のことはすでに番組のオープニング、FNS各局の中継リレーで口にしている。
地方局が大変な盛り上がりを見せているのを尻目に、「我々は団結しているかもしれないけど、国民からは離れていってるんじゃないの? やりすぎじゃないの?」と「団結」をテーマにした番組そのものに冷水をぶっかけた。
タモリはそこに「偽善」を見ていたのだろう。
これは、タモリさんの「本音」でもあり「照れ」でもあるように思われるのです。
こんな発言も、ある意味「露悪的」「偽悪」だと受けとられる可能性もあるのですが、それでも、タモリさんは「言わずにはいられない人」なんですよね。
著者は、タモリさんのこんな言葉を紹介しています。
「意味の世界はきらいなんです」
「いまだにそうです。イヤなんです、意味が」
「ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね」
タモリはそう断言する。
セオリーやパターンというのは理論であり、意味の集合体である。かつてさんまが多用した「意味ないじゃ〜ん!」という決め台詞は、そこに意味があるからこそ成立するものだ。
さんまにとって意味は笑いをとるための最大の武器だが、タモリにとって「笑い」は意味から自由になることなのだ。タモリは言う。
「なるべく異常なことを普通のようにやりたい」
「シュール」といえばそうかもしれない。しかしタモリは、アンドレ・ブルトンの『シュールレアリズム宣言』にも疑問を抱いていたという。ブルトンもフロイトも気にくわない、「シュールはなまけちょる」と断じて憚らなかった。
「アレは意味の剥奪じゃなかった」「根が暗い人がやっているんじゃないか」
この本で紹介されている、タモリさんの考えを読んでいて、僕はどんどんわからなくなってきたんですよ。
『笑っていいとも!』が終わるという「区切り」に際して、多くの人が「タモリ論」を書いているけれど、結局のところ、タモリさんという人は、誰かが言葉にして「解釈」しようとすればするほど、その実像というか存在から、離れていってしまうのではないか?と。
「タモリとは、こういう人だ」あるいは「こういう芸人だ」というような決めつけこそ、タモリさんがもっとも苦手としているものであり、他者からの賞賛とか批判も、「どうでもいい」と考えている人なのかもしれません。
いやまあ、これに関しては「本当にどうでもいいと考えているかは微妙なところで、やっぱり少しは意識している面もある」のかな、とは思いますが。
阿部サダヲさんとの「人生ずっと、ど厚かましい奴って(芸人や俳優に)なれないよね」「いっぺんどっかでこうひっくり返るからなれる、みたいなとこ、あるよね」というやりとりがあったそうなのですが、そういうタモリさんの「消せない照れ」みたいなところが、多くの人に愛されているようにも思われます。
手放しの賞賛やきちんと「解釈」されるよりも、「タモリさんって、長年観てきたけど、なんだかよくわからない人だよなあ……」と言われるのを、いちばん望んでいる人じゃないか、と僕は感じました。
だからこそ、タモリさんを語るのは、とても難しい。
語ることそのものが、タモリさんから離れていくことのような気がしてならないから。