琥珀色の戯言

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【読書感想】帰ってきたヒトラー ☆☆☆☆


帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 下

帰ってきたヒトラー 下


Kindle版もあります。
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内容紹介
世界的ベストセラー! ついに日本上陸。現代に突如よみがえったヒトラーが巻き起こす爆笑騒動の連続。ドイツで130万部、世界38ヶ国に翻訳された話題の風刺小説!


内容(「BOOK」データベースより)
2011年8月にヒトラーが突然ベルリンで目覚める。彼は自殺したことを覚えていない。まわりの人間は彼のことをヒトラーそっくりの芸人だと思い込み、彼の発言すべてを強烈なブラックジョークだと解釈する。勘違いが勘違いを呼び、彼はテレビのコメディ番組に出演し、人気者になっていく…。


もし、ヒトラーが現代に蘇ったら?
「世界征服を狙うナチスの残党」なんていうのは、一昔前のマンガや映画、架空歴史小説などでは、定番の設定でした。
ラスボスは、「生きていたヒトラー」。


この小説では、大真面目に(かつ、ユーモア精神も忘れずに)、「現代にヒトラー(周囲からみれば、『ヒトラー』を名乗る、本物そっくりの男)が出現したら、世界はどう反応するのか?」と描いているのです。
ほとんどの人は、そっくりさんによるモノマネが、バラエティ番組の企画かと、考えるはずです。
まさか、死んだ人間が生き返るはずがないのだから(まあ、実際にも生き返ることはないのですけど)。

 まさかとは思うけど、うちの店を荒らして逃げたりしないよね?」
 私はむっとして男を見た。「私が泥棒に見えるとでも?」
 男は私を見返して言った。「いや、おたくはアドルフ・ヒトラーに見えるよ」
「そのとおり」。私は言った。

この作品、フィクションではあるのですが、作品世界を満喫しようと思うのであれば、最低限の「ヒトラーナチスに対する予備知識」が必要です。
もしあなたが「ヒトラーって、誰?」と思ったのであれば、この本は、いまのあなたには不向きです。
これを読んでいると、第二次世界大戦末期のドイツの情勢や、現代のドイツでの「存在そのものが悪とされ、NGワードのように扱われている一方で、それゆえに誰もが知っていて、興味を持たずにはいられない『ヒトラー』の存在感が丁寧に描かれていることに驚かされます。
ヒトラーが生きていた(というか、現代にタイムスリップしてきた)」という「大きな嘘」に説得力を与えるために、著者は、作品のディテールにリアリティを追求しているのです。
しかし、ネオナチのような極右勢力には警戒感を示す人が多いのに、「ヒトラーそのものの主張をテレビでする男」は「ネタ」として消化してしまう、というのは、実際にありそうな話ですよね。
本物のヒトラーも、最初は「面白い演説をするおじさん」みたいな感じだったのではないかなあ。

 この瞬間、私の頭の中には、まるでファンファーレのように高らかに輝かしく、ある考えが浮かんだ。今はもう、アカデミックな思索に時を費やしている場合ではない。「どうして」や「もしも」について、くよくよと考えている猶予もない。今このときにはるかに重要なのは、「だから」であり「ゆえに」なのだ。
 いや、もうひとつ疑問が残る。なぜ、私だったのか? ドイツの歴史上には、たくさんの偉大な人物がいる。その中から、国民をふたたび栄光の座に導く二度目のチャンスを与えられたのが、なぜこの私だったのだろう?
 ビスマルクでもなく、フリードリヒ大王でもなく、
 カール大帝でもなく、オットー大帝でもなく、
 なぜこの私が?
 この質問への答えは、すこし考えればすぐにわかった。思わず笑ってしまうほど、簡単なことだった。おそらくその任務があまりにも困難であるがゆえ、ドイツの歴史に残るいずれ劣らぬ勇者や偉人たちも、しゃしゃり出てくるのをやめたのだ。その任務に適しているのは、党機構や行政に頼らず、だれかに何かを任せたりもせず、ただひとり自分だけの力で民主主義の無秩序を一掃できた人物。過去にそれをたしかに実行した人物なのだ。


この本に出てくるヒトラーは、時代錯誤のヘンな人、でもあり、その一方で、ものすごく真面目で、自分のことよりもドイツのことを優先的に考える、責任感の強い人物としても描かれています。

 あなたも私もともに知っている。スターバックなる人物がすべてのコーヒーをひとりで同時に淹れることはできない。では、だれがやっているのか? われわれにはわからない。わかっているのはただ、スターバック氏がしているのではない、ということだけだ。ことはコーヒーだけにとどまらない。たとえばクリーニングもそうだ。クリーニング屋に服を持っていくとき、それをだれが洗濯するのか、あなたにわかるのか? <クリーニングのイルマッツ>と看板にあったら、イルマッツ本人が洗濯をしているのか? 否。わかるだろうか、これこそが今、ドイツが変革を必要としている根拠だ。変革が、革命が、必要なのだ。責任をとることのできる強い人物こそが、今のドイツには必要なのだ。決断を下し、国民の生命と生活とその他もろもろについて責任をとることのできる、指導力ある人間が必要なのだ。なぜならば、もしロシアを攻撃せんとすれば、さっきのだれかのように『ああ、それはみんなで、どうにかして決めたことです」などとは言っていられないからだ。『これからモスクワを包囲するかどうか、みんなで決めたいと思います。賛成の人は手をあげて!』というのは、たしかにすばらしく気持ちのいいやり方だ。しかし、それで失敗したときには? そうなったら、みんなで共同責任をとるのか? いや、より正しく言うならこうだ。責任があるのは国民自身だ。なぜなら、国民がわれわれを選んだのだから。ドイツ国民がわれわれを選んだのだから。ドイツ国民はあらためて知らねばならない。ロシアの件を決断したのは、陸軍総司令官のブラウヒッチュ元帥でも電撃作戦の生みの親グデーリアン大将でもゲーリングでもない。それは、私だ。それから高速道路。あれを決断したのは、どこかの道化役者ではない、この私、総統なのだ! 今、われわれはドイツ全土において、決断と責任を明確にしなくてはならない!

 いまの世の中というのは、たしかに「責任がどこにあるのか、わからない」のですよね。
 で、「みんなの責任、っていうことで……」というような、曖昧な結論になりがちです。
「みんなの責任」というのは、ある意味「誰の責任でもない」ということでもありますし……
 このヒトラーの演説(もちろん、作者によって書かれた架空の演説なのですが)を読んでいると、なんだか、日本で「独裁も必要」と言っていた政治家のことが、頭に浮かんできたんですよね。
 みんな長年の民主主義に倦んできたのか、「衆愚政治」に呆れてきたのか、「強い政治家」が求められているのは、日本もドイツも同じなのかもしれません。


 これを読みながら、僕は考えていたのです。
 アウシュヴィッツなどでのホロコースト、あの歴史に残る悪行がなければ、政治家・ヒトラーというのは、歴史にどう評価されていたのだろうか?と。
 ヒトラーは「あの大虐殺の責任者」であるから、それだけで「大悪人」だと言わざるをえなくなってしまうのです。
 それ以外の事績についても「あのヒトラーがやったこと」なので、すべて悪いことのように思われます。
 しかし、「なぜ、ヒトラーは権力を握ったのか?」について考えると、そこには「ヒトラーを熱狂的に支持した人たち」の存在があったんですよね。
 なぜ、ヒトラーは支持されたのか?


 この作品を読んでいると、「ユダヤ人に関する問題」は、現在でも根深いものがあることが推察されます。

「ひとつだけ、はっきりさせておきましょう」ベリーニ女史はそう言うと、突然まじめな顔で私を見た。
「いったい何を?」
「<ユダヤ人>をけっしてネタにしないこと。これは、ここにいるみんなの総意よ
「それはまったく、正しい判断だ」。私は同意した。むしろほっとしたくらいだ。自分が何について話しているか理解している人間が、ようやくあらわれた。

 これは、「(たとえヒトラーのそっくりさん芸人だと世間は思っていても)ユダヤ人関連の言及には、それがジョークのつもりであっても、厳しい批判を受ける可能性が高い」ことを示しているのでしょう。
 そして、フィクション内での登場人物の発言としてでも、ユダヤ人に関して書くのは適当ではない、と、著者も判断しているようです。


 さて、この現代に蘇ったヒトラーは、どこへ向かっていくのか?
 興味を持たれた方は、ぜひ、読んでみてください。歴史好き、近現代史好きには、たまらない「フィクション」だと思います。
 正直、「ここで終わりか……」とも思うのですけどね。でも、これが「適切」であり、「限界」なんだろうなあ、たぶん。

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