- 作者: 石川幹人
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/05/16
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
幽霊・テレパシー・透視・念力…。我々を驚かせてきた不可思議な現象の数々は、多くの人に関心を持たれながらも「非科学的」、「オカルト」と否定されてきた。だが、それこそが科学の挑むべき謎だとして、あくまでこれを「科学的」に研究してきた人々がいる。「何がどこまで解明できたのか?」。そして「何が未だに謎なのか?」。明治大学教授が、異端の科学の最先端を案内しながら、「科学とは何か?」の本質に迫る。
「超常現象」というのは、本当にあるのか?
僕はずっと懐疑的ではあるのです。
でも、大学時代に、某「超能力喫茶店」で、大学の先輩が親の名前を当てられたのを目の当たりにしたんですよね。
絶対「ここの店長と共犯関係」であるはずがないのに。
「透視とかありえないと思うのだけれども、あれがトリックだとしたら、そのタネがわからない……」というものを目の当たりにすると「無いとも言い切れないのかもしれないな、だって、本当に無いのであれば、こんなに長い間、みんなが同じようなウソをつきつづけるものなのだろうか……」などという気持ちにもなるのです。
その一方で、これだけカメラやビデオのような記録装置が発達し、誰もが持ち歩いている世の中でも「決定的な写真や動画」が撮られていないことを考えると、やはり、眉唾物なのだろうな、とも思います。
この新書では、明治大学の情報コミュニケーション学部の教授である著者が「超常現象」と呼ばれるものについて、「今、わかっていること」と「それに対して、『科学』は、どう向き合っていけばいいのか」を述べています。
「はじめに」で、著者はこのように書いておられます。
本書は「幽霊はいる」とか「超能力は存在する」などと超常現象を肯定するためのものでもなければ、その逆でもありません。そうではなく、超常現象について、今現在、「実際に何がどこまで分かっているか」、「何がどのように謎なのか」を皆さんに紹介しながら、「いかに未解明の現象に取り組んでいくべきか」という「科学的思考」を身につけていただくことを第一にしたいと思っています。
本書は、あくまで本気の科学の本です。
著者はまず「幽霊はいるのか?」という議論について「肯定派」と「否定派」が、お互いに「自分の立場」に閉じこもって、断絶してしまっている状況について、言及しています。
こうした傾向は、大学で学生たちをアンケート調査した結果からも裏付けられます。
「超常現象について肯定的か否定的か」を問うと、否定的な学生が約4割、肯定的な学生も約4割と勢力は拮抗しているのですが、つづけて「一般多数の意見はどうだと推測するか」と問うと、なんと否定が約7割に上昇し、肯定は約1割に減少します。つまり、実態以上に周囲が超常現象に否定的だと多くの人が信じ込んでいるのです。
実際は、「必ずある」とまでは肯定していなくても、「そういうことがあっても、おかしくないんじゃない?」くらいの考えの人は、けっして少数派ではないんですね。
でも、「自分が体験した『超常現象』を語ったり、『超常現象』を肯定するようなことを人前で言ったりしたら、バカにされるか、気持ち悪がられるのではないか」と、多くの人が思っているわけです。
では、この相互理解の壁になっているのは何でしょうか。幽霊の存在について考えるとき、じつは肯定派も否定派も、現実はひとつなんだから幽霊はいるかいないかのどちらかだ、ということを前提にしがちです。しかし、そうするとどちらかは正しく、他方は誤っているということになりますから、白黒つけようと双方が対立の深みにはまるのです。
そこで私は、「幽霊はいるのか」ではなく、「幽霊は役に立つのか」という視点を持つことを提唱しています。意外に思われるかもしれませんが、この「役に立つのか」という見方をすると、「ほんの少ししか役に立たない」、「私にとってはやや価値がある」、「こんな場合には思いのほか意義がある」などと、中間的な主張が可能で、そこから新たな理解が広がるのではないかと私は考えています。
こういう「超常現象」に対しては、「あるのか、ないのか」という議論が繰り返されているのですが、著者は「それが役に立つことなのか」という見方を推奨しています。
幽霊が役に立つなんてことがあるのだろうか?と僕は疑問だったのですが、この本のなかに、こんな話が紹介されています。
じつは、ある種の明るい幽霊が、かつては社会的存在だったことがあります。原始的コミュニティにおける精霊の類で、そのなごりは現代にもあります。
米国の心理学者ジェシー・ベリングは、子どもたちにひとりでゲームをさせるときに、ルール破りがどれだけ発生するかという画期的な実験を数年前に行っています。ボールを投げて的に当てるという単純なゲームで、ルールは「床に引かれた線より的に近づいてはいけない」「ボールは後ろ向きに肩越しに投げる」「投げるときは利き腕とは反対の手を使う」の三つだけです。しかし、子どもたちは誰も見ていないところではこうしたルールをしばしば破って高得点を上げます。いわゆるズルを犯すのです。
ところがこの実験では、部屋の隅に姿の見えない「精霊アリス」がいると子どもたちに事前に言っておくと、ズルが大幅に減るということが示されたのです。精霊のような未知の存在が、倫理的行動を促したのです。
コミュニティのメンバーが精霊の存在を実感することで、現に倫理的行動がとられ、メンバー同士の協力活動が良好に行えるのであれば、精霊はそのコミュニティの社会的存在となっていると言ってよいでしょう。文明以前の原始的コミュニティではとくに、そうした精霊の存在がとても有効に働いていたと推測できます。
ひと昔前までの日本でよく口にされた「お天道さま」、また、霊や精霊などからの通信を受けるとされるイタコやユタなども、そうした伝統のなごりだと考えられます。それに宗教的教義における「神」も、ときには同様の役割を担っていたのでしょう。
ただ、今日の文明社会では、社会的存在としての精霊の位置づけは失われています。倫理的な行動が法制度や他の文化慣習によって守られるなかで、精霊の存在意義は薄れたのです。
いまのアメリカの子どもたちが「精霊アリス」を心の底から信じていたとは思えないのです。
でも、そういう話をされると、「なんとなくルールを破るのが不安になってしまう」のもわかる。
いるかいないか、というのではなく、「存在することによって、人々に倫理的な行動を促すことができるというメリットがある」。
いるかいないかはさておき、「存在意義はある」のです。
逆に言えば、お金をだまし取ろうとするエセ霊能者にみえる「悪霊」は、「いるかいないかの証明はできないが、存在意義が無い。あるいは、かえって有害である」ということになります。
この本には、さまざまな迷信やプラセボ(偽薬)が効いているように見える理由も紹介されています。
たとえば、サプリメントなどの健康食品。
足りない成分を口から補っても、多くの場合は身体に劇的な効果をもたらすものではありません。
では、どうして「効く」人がいるのか。
要するに、そういう薬に頼ろうという時期は、みんな「体調がよくない」状態なわけです。
人間の体調は、癌や慢性疾患などで、どんどん全身状態が悪くなっていく人を除けば、良くなったり、悪くなったりというバイオリズムを繰り返しています。
そのなかで、「いちばん調子が悪いとき、どん底の時期」にサプリメントを内服すれば、その薬に効果はなくても、「自然に」体調が上向いてくるのです。
逆にいえば「元気なときにサプリメントを飲んでも効かない」のでしょうけど、絶好調のときに頼ろうとする人はいませんよね。
ちなみに、子どもの教育についての、こんな話も。
通常はテストの点数が良いとほめられ、悪いと叱られることになりますが、実力は変化していなくても、回帰効果によって点数が良いテストの次のテストでは点数が悪化し、逆に点数が悪いテストの次のテストでは点数が向上する傾向があるので、ほめると点数が下がり、叱ると点数が上がったように見える結果になりがちです。こうして、親たちは点数が上がった原因を誤認し、「ほめるより叱った方が、点数が上がる」とみなすわけです。
ところが、教育学の研究で判明しているのは、「ほめた方が、勉強意欲が向上し、実力は長期的に上がっていく」という事実です。叱るとむしろ勉強意欲が減退して逆効果なのです。回帰効果によって正反対の、まったく不適当な対応が行われてしまうという悲しい実態があるのです。
この新書を読んでいくと、透視やテレパシーといった「超常現象」に対して、長年、科学的なアプローチが行われてきていることがわかります。
その結果、わかったこともあり、まだわからないこともたくさんあるのです。
有名なESPカード(○とか☆とかが書かれたカード)を、見えない場所から当てる実験は、何度も繰り返されてきました。
カード実験の結果には、ESP効果を肯定するものも否定するものもあったのですが、それらを総じて統計分析すると、若干の肯定的結果が得られています。とはいっても、100枚実験した場合に、偶然には20枚しか当たらないところ、平均して22枚当たるという程度のわずかな効果です。当初、カードのキズなどで裏から表のシンボルがわかってしまったのではないか、などとも批判されましたが、ついたての向こうで実験者が持っているカードを透視するような厳密な実験でも、同程度の効果があがっています。
たった2枚の差ですが、これが統計学的に有意であることも事実なのです。
100枚全部当たる、というような結果であれば、まさに「超能力」なのでしょうが、なぜ、こんな微妙な差が出るのか。
著者もいくつかの推測を述べておられますが、人間には、まだ解明されていない能力があるのかもしれませんね。
霊能者が波動やオーラが見えたと主張するときに、幽霊肯定派は「それは幻想だ」という応答の仕方をしがちです。しかし、第一章で述べたように、テレビ映像が平面を立体に見せかけるある種の幻想にもかかわらず、その幻想が有益に使われている現状をみれば、「幻想だ」という指摘までは正当でも「だからダメだ」とは結論できません。波動やオーラが「役に立つか」を問うべきなのです。
霊能者によっては、「波動やオーラによって病気の診断ができる」、あるいは祈りによって病気の治療ができる」と主張します。しかし、これまでの超心理学の研究実績では、診断や治療における実用性は示されていません。たとえ波動で病状を少しは当てられるようなことがあったとしても、誤りの頻度のほうがはるかに多く、それに伴う弊害のほうが甚大なのです。
いまのところ、幽霊肯定派は「悪用される弊害ばかりで、霊的能力は役に立っていないよ」と指摘しておけば、幽霊を否定するに十分なのです。
それに、たとえ「霊的能力がとても役に立った」という状況に至ったとしても、現状の科学的世界観が崩れ去るわけではありません。波動やオーラが見える人と見えない人がいた場合でも、それらは社会的存在として現実を構成していると見なせます。つまり、波動やオーラが社会的に存在するという主張と、それらは物理的には存在しないという主張は、とりあえずのところ両立できるのです。
だから、霊能を信じる人々は、信じない人に向けて正当性を示す努力をするよりも、その力を創造性の発揮に向けるべきです。創造的な成果によって、「その種の能力があってもいいな」と人々の承認を受けることがまず大切なのです。その入り口は、不正確な未来予知よりも、繊細なオーラを描く芸術分野などにむしろ広がっているのかもしれません。霊能にもとづくイメージが創造的な芸術作品になるのであれば、人々が一目置くということになるでしょう。
「超常現象」を、「あるか、ないか」ではなく、「役に立つのか、立たないのか」で見ていくという著者のスタンスは、不毛な議論から多くの人を解放してくれるものだと思います。
これを読んで興味を持たれた方は、ぜひこの新書を読んでみてください。
自分で「科学的な見方」だと思い込んでいたものが、いかに「非科学的な見方」だったのかを、つくづく思い知らされる一冊です。