白鵬のメンタル 人生が10倍大きくなる「流れ」の構造 (講談社+α新書)
- 作者: 内藤堅志
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/12/05
- メディア: 新書
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内容紹介
大横綱・白鵬の強さの秘密は、肉体ではなく、心にあった!
伝説の大横綱・双葉山の69連勝を超える力士は現れるのか――それは白鵬をおいて他にはいない。2010年九州場所まで63連勝を続けた白鵬……連勝が途切れたときに周囲に漏らした言葉も「われ未だ木鶏にあらず」、これは双葉山が敗れたときに用いた台詞だ。そう、天下無双の大横綱二人は、心技体の「心」にこそ、最も重きを置いて精進したのである。
その白鵬は、入門時には、自他共に認めるほどメンタルが弱かった。しかし、本書の著者・内藤堅志氏に出会って、人生が変わった。こうして11年間、コツコツと心のトレーニングに励み、行き着いた結論は、「流れ」の構造を知ること……本書では、この人生が10倍大きくなる「流れ」の構造を、シンプルかつ平易に解説する。
なんだ、精神論かよ……と僕はこの本を手にとったときに、思ったんですよね。
でも、読んでみると「スポーツ選手の成績とメンタル」について、著者が横綱・白鵬と二人三脚で試行錯誤してきたことが、よくわかります。
本論を進めていく前に、私の専門分野について少しだけお話しましょう。
白鵬が幕内に上がったちょうどその頃、縁があって公益財団法人・労働科学研究所に入所した私は、トレーナーの仕事と並行して、働く人の安全管理、すなわちストレスマネジメントの研究に本格的に取り組むことになりました。
ここで課題とされるのは、与えられた環境(職場)のなかで、その人がいかに効率よく、主体的に、自己の能力を発揮するか、ということ。対象者には、当然、スポーツ選手も含まれます。
彼らの才能を伸ばし、成長をうながすには何が必要なのか?
当時の研究者の所長にすすめられたのは、対象となるスポーツ選手との日常会話を継続的に記録し、そこから抱えている問題点を浮き彫りにするという、ある意味でとても骨の折れる、ロジカルな作業でした。
ごく日常的な会話を記録するため、録音テープは一切使わず、その選手と別れたあと、記憶を頼りにパソコンに打ち込んでいく。その膨大なデータを様々な手法を用いて分析し、うまくいくパターン、失敗に陥りやすいパターンを浮かび上がらせる。こうした手法でサポートするスポーツ選手の第一号が、じつは白鵬だったのです。
いま振り返ると、当時の白鵬も私も、自らのキャリアを積んでいくうえで、とても重要な時期に立っていたように思います。互いにとって絶妙なタイミングで、飛躍を目指す力士とトレーナーの二人三脚が始まったのです。
著者は「流れ」という言葉を中心に、白鵬がいかにしてメンタルを意識的に鍛えてきたか、を説明しています。
白鵬の場合、こうした技術面だけでなく、日常生活の様々な場面でも、つねに「流れ」を意識しているところがあります。
たとえば、どこで着替え、いつトイレに行き、どの場所でまわしを締めるか、あるいは、どの場所に立って何回四股を踏み、すり足をどのくらいやるか――毎回行っているルーティンの所作がおおよそ決まっているのです。いまでは朝稽古の際にも、本場所同様に、土俵で塩を撒くようになりました。
こうした稽古場での「流れ」については、まだ「流れ」という言葉をさほど使っていなかった、幕内に入りたての頃から意識的に行っていたと思います。そして、新三役となった2005年頃には、一つのスタイルとして確立されていました。誰に教わったというわけではなく、いつの間にか定着させていたのです。
「流れ」を意識するということは、自分の動作を意識的に行っているということです。何となくではなく、ちゃんと理由がある。あまり注目されてはいませんが、じつはそれが、横綱の強さの秘密なのです。
しかも白鵬の場合、前述したように、日常的に「流れ」という言葉が出てきます。
私が見るかぎり、まず日常生活の「流れ」があり、そのなかに稽古中の「流れ」や本場所の取組の「流れ」というものが存在しているように思われます。つまり、相撲が生活の一部、全体で一つの「流れ」になっているのです。
そうか、「流れ」をつくるというのは、「ルーティンワークを大切にする」ということなのですね。
大事なことは、「ただ、なんとなく同じことをやる」わけではなくて、「自分のルーティンワークを、意識的に行っていくこと」なのです。
この新書のなかでは、野村克也監督を例に、「プロスポーツ選手には、ゲンを担ぐ人が多い」ことが紹介されています。
「試合に勝ったらヒゲをそらない」とか「同じパンツを履き続ける」とか、「負けたら違う道を通って帰宅する」なんて、意味ないだろ……と僕は思っていたのですが、一流選手ほど、「成功したときと同じルーティンワークを、丁寧に繰り返そうとする」と考えれば、ゲン担ぎというのも、「良い流れをつくる」ためのひとつの方法なんですよね、きっと。
一流選手は、ルーティンワークにこだわるけれど、ただ漫然と同じことをやるわけでなく、そこにちゃんと「意味」を見出しているのです。
なるほどねえ。
そう考えると、スポーツ選手じゃなくても、なるべく規則正しい生活を意識するというのは、「流れ」をつくる、自分のなかでの精度を上げていくという効果があるはずですよね。
夜更かしや不規則な生活は、体力を落として、集中力も下がってしまいますし。
多くの人が経験していることだと思いますが、私たちはつい目先の結果を求め、我流でもいいから先へ進んでしまおうと考えがちです。基本を身につける作業を、まどろっこしく感じてしまう。しかし、そこに落とし穴があるわけです。
目の前のルーティン・ワークを軽視していませんか? 日常の雑務など基本的なことをただ漠然と行うわけでよしとしていませんか?
ルーティン・ワークというと退屈なイメージがありますが、後述するように、それは「うまくいく流れ」をつかむきっかけになるものです。そういう自覚を持つことができたら、下積み時代の仕事や練習にも意味があることが見えてくるでしょう。
相撲でいえば、正しい四股を踏む、てっぽうを打つ、すり足で動く……。
野球でいえば、素振り、シャドーピッチング、ノック、ベースランニング……。
会社員ならば、コピーをとる、お茶を出す、上司の鞄持ちで取引先などに同行して名刺を渡す、話を切り出すタイミングを学ぶ……。
実際、うまくいかない人は、こうした基礎を身につける学びの過程でも、表面的なことしか行っていない面が多く見られます。つまり、なんとなく真似るだけ。同じような動きをするだけ。そこにどういう意味や意図があり、どういう状況で行われているのか、あまり深く考えずに手中だけおぼえ、それで満足していないでしょうか?
うまくいく人、できる人の動きには必ず意味があり、本人が自覚しているか否かは別にして、ある種の合理性がひそんでいる――真似るということは、それを肌で感じ、体でおぼえるということです。
だから、仕事やトレーニング(稽古)の場面だけでなく、日常でも真似をする相手(先生、師匠、上司、先輩など)と接する機会を増やして、その人の動きや癖を観察し、自分で取り入れるようにしてください。
それが難しい場合、そうした人の話を素直に聞くだけでも十分。私は仕事柄、様々な分野の人と会う機会がありますが、うまくいっている人たちの多くはコミュニケーション能力に長け、人間関係を上手に活用しています。
たとえば、競艇学校の教官と会話をした際、次のようなことを聞きました。
――どのような選手が伸びると思いますか?
教官:先輩選手と一緒にいる時間が長い人です。私生活も含め同じ時間を過ごすことで、練習では身につかない様々なノウハウを教わりますから。
僕はコミュニケーション苦手なので、「やっぱりこれも『コミュニケーション』かよ……」と、溜息をついてしまいました。
でも、これが「事実」なんだとは思います。
最初のうちはとくに「真似る」というのが、いちばんの早道なのは間違いない。
それも、伸びる人というのは、「形だけでなく、なぜそういう形になるのか?」を考えながら、真似をしているのです。
メンタルの強さというのは、生まれつきのものではなくて、トレーニングによって、高めていくことができる。
(ただし、その鍛えた最大値というのは、人によって差があるのかもしれません)
そして、メンタルを鍛えることによって、自分の実力をコンスタントに発揮できるようになるのです。
この新書を読んでいていちばん驚いたのは、モンゴルからやってきたばかりの、16歳の白鵬の写真でした。
お父さんはモンゴル相撲の大横綱というサラブレッドも、日本に来たときには、身体が小さく、行き先の相撲部屋もなかなか決まらなかったそうです。
スポーツトレーナーをしていた私が、初めて白鵬に出会ったのは、いまから10年ほど前、2002年にさかのぼります。
大相撲の宮城野部屋から「若い力士たちのトレーナーになってほしい」という依頼があり、墨田区(錦糸町)にある部屋を訪れると、15人ほどの若手力士に交じって、まだ17歳だった白鵬がいました。
初土俵から一年あまり、体もひょろっとして細く、日本語があまりしゃべれなかったせいもあり、おとなしい、とても目立たない存在でした。
当初、部屋には二人のモンゴル人力士がいましたが、期待をかけられていたのは一年先輩の龍皇のほう。実際、彼のほうが強く、白鵬はなかなか歯が立たない。もちろん、将来彼が大横綱になるとは誰も思っていません。
白鵬だって、最初から、いまの白鵬だったわけじゃなかったのです。
むしろ、目立たず、あまり期待されてもいない、モンゴルから来た、線の細い若者でしかなかった。
できない、変われないのは、もしかしたら、「やらない」「変えようとしていない」だけなのかもしれません。