琥珀色の戯言

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【読書感想】ちばてつやが語る「ちばてつや」 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
あしたのジョー』『おれは鉄兵』『のたり松太郎』『あした天気になあれ』など数々のヒット作で知られる漫画界の巨人が、自らの「作品」一つ一つに込めた熱い思いを、執筆当時の制作秘話を交えて初めて綴った。『ジョー』の中で一番描くのが難しかったキャラクターは誰か。『鉄平』の主人公の身長がだんだん小さくなっていったのはなぜか。あの名作の知られざるエピソードが満載の一冊。


「ああ、ちば先生は、やっぱり『人格者』だなあ!」と頷きながら読みました。
もちろん、「人格者」なだけで人気漫画家になれるわけもなく、「良いものをつくろうという真摯な姿勢」もすごく伝わってきます。
ちば先生は1939年生まれだそうですから、現在70代半ば。
それでも、この本のなかには「自分は年頃の女性や色っぽい女性のキャラクターを描くことに苦手意識があるので、もっと勉強してうまくなりたい」というような前向きな言葉がたくさん出てくるんですよね。
本当に、すごい人だなあ、と。


満州からの壮絶な引き揚げ体験、そして、生活苦もあり、マンガを描くようになったこと。

 私が漫画家になった理由は単純明快に、「お金」のためだ。家計を助けるために、働いて稼ぎたいと切実に思ったからである。
 そう思うようになったきっかけは、私が日本大学第一高等学校に進学した翌年の昭和30(1955)年2月、父親が背骨骨折の大けがをして入院したことにある。長男として私も家計を助けなければと、まず夏休みにアルバイトを始めた。同級生の友達何人かと、当時水道橋にあった学生アルバイト斡旋所を訪ね、訪問販売の仕事を世話してもらった。洗濯石鹸、タワシ、ゴムひも、歯ブラシ、針や糸などの日用雑貨を風呂敷に包んで売りに行き、売れた分だけ歩合をもらえるというアルバイトである。
 ところがそうした営業の仕事が、私はまったくの不得手だった。ほかの友達はうまく売ってくるのに、私は気が弱くて、「こんな押し売りして、家の人に迷惑じゃないのか?」と遠慮が先に立って、うまくしゃべれなくなってしまうのだ。最初に斡旋所の大学生が売り方のコツを教えてくれるのだが、その通りにできたためしがない。その大学生は、まず山の手の裕福そうな大きな家に行き、「ごめんください」と玄関に入り込み、家の人が出てくる前に玄関に品物を全部並べてしまえと私たちに指導した。そして「苦学生のように、そこにしょんぼり立っていれば何か買ってくれる」と言うのだ。
 そんな芸当が不器用な私にできるはずもない。玄関を開けても、奥から「はーい」と人が出て来た途端、気の小さい私は体がこわばって何も言えなくなった。不審そうな目を向けられると、もう逃げるように黙って回れ右してしまうのだ。そういう私の駄目さ加減は、ほかの仕事でも同じだった。

僕はこれを読んでいて、藤子・F・不二雄先生が「子どもの頃、ぼくは『のび太』でした」と仰っていたことを思い出しました。
この不器用さが、「マンガで食べていくしかない」と、ちば先生に決心させたのですから、マンガ界にとっては「ちば先生が訪問販売の名人じゃなくてよかった」ということなのでしょうね。


貸本マンガ家時代から、少女マンガ家としてのメジャーデビュー、そして、「筆が遅い」ことを心配しながらも「頼み込まれて断りきれず」はじめた週刊誌連載。
ちば先生は、「頼まれたらイヤと言えない性格」+「作品に妥協しない」ために、仕事をこなす面で、かなり苦労もされたようです。
しかしながら、「頼み込まれてはじめた仕事」「他人に勧められて、あまり乗り気じゃないのに描きはじめたマンガ」が、大ヒットしたり、その後の作品に繋がったりしているんですよね。
周りにとっても「サポートしたくなる人」だったのではないかなあ。


この新書のなかでは、自作の解説」がたくさん行われているのですが、そのなかに、こんな話が出てきます。
『1・2・3と4・5・ロク』という作品について。

 それで思い出すのが、当時の担当編集者だった丸山昭さんとのやりとりである。連載中のある回で、丸山さんに「このシーンはいらないでしょう」と指摘されたことがある。
 それは北白川家の朝の場面である。次男の四郎が一枝に頼まれ、団地の部屋から豆腐を買いに出る。シーンとしては、団地の前に自転車で売りに来ている豆腐屋さんから豆腐を買って台所まで戻るだけなのだが、四郎が団地の階段を「いいち にい さあん」と歩数を数えながら降りてきて、豆腐屋さんと立ち話をして……という過程を、三〜四ページも費やして描いたのだ。丸山さんにすれば、読者のことを考えたのだろう。この部分はいらない、それよりもっとストーリーを進めてほしいというのである。彼には、私の描いた四郎が豆腐を買うシーンが水増ししたように感じられたのだと思う。そんな無駄な描写にページ数を割くのはもったいない、読者は主人公が活躍する場面が早く見たいはずだと……。
 私は、ほかの編集者にも同様の指摘をされたことが何度かある。しかし、団地の間取りを正確に描くよりも、こうした何気ない生活のシーンこそ、私が大切に描きたいことなのである。もちろん作品のページ数は限られている。そう言いたくなる編集者の気持ちもわかる。けれど、団地の朝、四郎が豆腐を買いに行く情景を丹念に追っていくことは、家族を描く時に欠かせない「間」であり、私にとっては、キャラクターを生き生きと動かす原動力にもなっているのだ。

いま、大人になってこの話を聞くと、「なるほどなあ」と思うのですが、僕が子どもの頃にこのマンガを読んでいたら、やっぱり「水増しするなよ」って感じたのではないかなあ。
そういう意味では、ちば先生は、「子どもを子ども扱いせず、大人にも通用するような表現をすることを目指していた」ということなのでしょう。


そして、『あしたのジョー』のあの場面のこと。

あしたのジョー』のラストシーンには、私の最後のエネルギーを注ぎ込んだ。ジョーホセ・メンドーサが死闘を繰り広げ、最後はジョーが燃え尽きた姿となって終わる。梶原さんの原作は違う終わり方であったが、ラストのシーンは私に任せるとの了解も得ていた。担当編集者とも何度も話し、私はジョーの最後のシーンを決めた。
 あの姿を見てジョーは死んだと言う人も多い。しかしそれには異論がある。私が描きたかったのは、存分に闘ってきたジョーが「燃え尽きた」瞬間である。生も死も超えて、無言のジョーの抜け殻がそこにある、そんな終わり方にしたかったのである。

作者なのですから、「死んだかどうか」を明言することだって可能なはずです。
でも、ちば先生は、そうしなかった。
というか、「とにかく、あの瞬間、ジョーは燃え尽きてしまった」ことだけが事実であり、それだけを描きたかった、ということなのでしょう。
そして、それさえ描ければ、「あとは読者の想像にお任せします」と。
もしかしたら、矢吹丈というキャラクターの存在が大きくなりすぎて、作者にすら「わからなくなってしまった」のかもしれません。


この本のオビには、ちば先生が描いてきた人気キャラクターたちがたくさん描かれているのですが、真ん中に大きく描かれているのは『おれは鉄平』の鉄平なんですよ。
知名度からすれば、矢吹丈なんじゃないかな、と思ったのですが、この本を読むと、竹刀を持ってこちらを向いていたずらっぽく微笑んでいる鉄平というのは、ちば先生にとって、いちばん「ちばてつや」らしいキャラクターなのかもしれませんね。


最後に「漫画の表現規制」に対しての、ちば先生のメッセージをご紹介しておきます。

 私が普段気をつけているのは、そうした法規制を求める人間の論法が、必ず『あなたの子供を守るために』というフレーズから始まることだ。すぐ「子供のために」と言い出す人には気をつけたほうがいい。その言葉の陰には、必ず歪んだ権力志向や支配欲のようなものが見え隠れしている。そうやって戦争も始まったのだ。一部の人間の過剰な権力志向に乗せられると、人間はいとも簡単に危ういほうに舵を切ってしまう。それを、やなせさんが一番心配していたのだ。
 といって私は過激な性表現を礼賛しているわけではない。描く側も、子供向けのものであるなら、「これを子供に見せていいのか?」としっかり理性を働かせ自問自答しながらプライドを持って描いてほしいと思う。表現とは、国が上から法律で決めることではなく、表現する側とそれを読む側、それぞれが声を上げて話し合う中で、自然に淘汰されルールが出来上がっていくものだと私は思う。

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