琥珀色の戯言

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【読書感想】生まれた時からアルデンテ ☆☆☆☆


生まれた時からアルデンテ

生まれた時からアルデンテ

内容紹介
戦慄の1991年生まれこと平野紗季子によるファン待望の初著書。生まれた時からアルデンテな平成の食文化を綴った新しい時代の味覚エッセイガイド。世界一のレストランからロイヤルホスト観察記まで、食を楽しむことへの思いを文章と写真と引用につぐ引用で構成した一冊。小学生時代の赤裸々すぎる日記や、食文化 カタログなど特別収録多数。


【内容例】
小学生の食生活(=少女時代特有の残酷さで各種レストランへの感想を素直に記した直筆文をそのまま掲載)/
戦争を始めるフルーツサンド/beyond the 美味しい/
なぜオニオングラタンスープのこととなるとシェフは調子にのるのか?/
文化経済資本の見せびらかし/冷蔵庫、いつもは真っ暗なんだと思うと寂しい/
ガストロノミーって何ですか?自然と文化の拮抗点ですか?(=レフェルヴェソンス生江シェフとの対談)/
金券ショップの先の、ネクタイ屋の奥の、フルーツの秘境/パンケーキよりはんぺんだ/
血のマカロン事件/なんとか作れてなんとかおいしい感じの料理(=紗季子オリジナルレシピ)/
それでも美しい道路に捨てられたスターバックス/消化こわい/価値観スイッチ食事の場合/
ロイヤルホストのホスってホスピタリティのホスですか?(=3年越しの観察の果てにあった衝撃の結末)/
申し訳程度に出てきたランチサラダ/レストランの穴/食はあらゆる文化的刺激を受けうるメディアなのだ。
(=血肉となってきた本や事象が一目で分かる食カタログ)/ほか


若い女性がテーブルにゴロンと覆いかぶさりながら、皿の上の料理を愛おしそうに、あるいはけだるそうに、つついている表紙。
ああ、ありがちな「不思議ちゃんが『私って感性が鋭いでしょ』って言いながら、ジリジリにじり寄ってくるような本」なのだろうな……と、半ば覚悟しつつ読みました。
(ちなみに図書館で借りました)


読み始めてみると、なんだか最初のほうは、手書きのグルメレポートみたいなのが並んでいます。
なんか、字、幼くない?
……そう思いたながら読んでいたら、なんとこれ、著者が小学生の頃に日記風に書いていた「外食レポート」だったのです。
いやまあ、1991年生まれであれば、「公開しないことを前提に、自己満足のためにだけ書いていた」とも言いがたいのだけれども、それが「手書きであること」に、著者のこだわりというか、愛着みたいなものが込められているんですよね。


この本を読んでいると、なんだか「食べ物のことについて、わかったような気分になっている自分」が、激しく揺さぶられるような気がしてくるのです。

 「小さい頃からそんないいもん食ってんの…? 絶対ろくな大人にならない」
そうある大人に言われたことを私は激しく根に持っている。「いいもんを食う子供 is 悪い大人になる」の論理はいかに成立するのだろうか。そもそも、いいもんってなんだ。ろくな大人ってなんだ。いいもん=銘柄牛か? 良質なお肉は悪? 良質なお肉で子供のハートは腐るのか? いいもんしか食べないで育った皇太子様のあの仏のような笑顔を観ろやぁ! だいたい、何を食べてきたかでその人の人間性を暴こうなんて、お前は卑屈なブリア=サヴァランかよ…!(とまあ散々言いたいことはあったのに、その時は薄ら笑いを浮かべてしゅんとするばかりだった)


ああ、確かにそのとおりだよな……と。
僕も、寿司屋のカウンターでトロやウニを食べまくっている子供を観て、「あんな年齢から、回らない寿司とか食べてたら、ロクな大人にならないぞ……」と、呪いの言葉をかけていたのを思い出したんですけどね。
考えてみれば、ジャンクフードばかり与えられている子供よりも、ちゃんと手をかけて作られた美味しいものを食べている子供のほうが、「愛されて育っている」ような気もします。
ただ、子供の頃って、「トロやウニよりも卵焼き」というのが本心だったような記憶も。


これに関して、著者は、こんな研究結果を紹介しています。

 実際に社会学ピエール・ブルデューが、その著書『ディスタンクシオン――社会的判断力批判」の中で、社会階級によって食習慣と好みにはっきりとした違いがあることを、フランス人1万人アンケートで実証しようとしている。にわか成金は脂の多い肉やフォアグラ・高給取りの知的職業者階級は、どちらかといえば禁欲に傾き、高価ではないが、独創的で外国風の料理や伝統的な田舎料理を好むのだという。文化系女子は飲み会にいつもエスニックな店をチョイスして周りを困らせる、という定理はブルデューさんを喜ばせるかもしれない。

これはフランスの話なのですが、日本でもあてはまるような気がします。


このエッセイ集を読んでいると、処々で、著者の観察力とか表現力の瑞々しさに圧倒されてしまいます。
食べ物についての薀蓄を語るのが好きなんじゃなくて、食べることそのものが好きなんだな、というのも伝わってくるのです。

 こないだ親戚のはなちゃん(5歳)と、みんなでレストランに行った。彼女はデザートのタイミングでやってしまった。紅茶を思いっきりひっくり返してしまった。周りは待ってましたと言わんばかりに「拭くものなにか!」と慌てだすのだけれど、当の本人は驚くほど満ち足りた顔で「あーあったかくてきもちい」と言った。私はもう本当におどろいた。こぼれてしまった食べものに対するなんて素敵な、このうえない挨拶。彼女の心はびっくりするほど単純で、裏も表もないんだろう。
 思えば子供たちは随分自由にものを食べている。コップに手をつっこんで倒れるからオレンジジュースまみれになって、フォークのさす部分を手に握るからなにもすくえなくてわめいて、苦労しているようで創造力に溢れて、それでもまだなにか食べようとしている。一体どんな気分なのか、どんな感覚でいるのか、輝く瞳でカオスをみせつけてくれ、ずっと憧れて眺めていたい。

 伊丹十三さんのエッセイの、アボカドの章もすごい。時代は1968年というから、アボカドはよほど珍しい果物だったんだろう。その味の説明に伊丹さんは2ページ割いている。「アヴォカードの肉の味は、これはなんといったらいいのかねえ。チーズ? 空豆? どうも違う。茹玉子の黄身の味にも似たところがある…」とかなんとか延々述べている。舌が必死じゃなければこんな風には味わえない。今だったら「アボカドの味が」って7文字で終わりでしょう。それって結局7文字程度にしかアボカドを味わってないってことで、これは何かと散漫な現代人が見習わなければならない、ものすごい集中力なのであります。


子供の頃、どんなふうに食べてきたか、「アボカド」という不思議な食べ物を、はじめて口にしたときの感触……
息子が赤ん坊だった頃、牛乳をこぼしてしまったあと、両手でコネコネして、最後に牛乳の海にニコニコしながらダイビングしたのを思い出しながら読んでいました。
「アボカド」だって、40歳オーバーの僕にとっては「大人になるまで、ほとんど口にすることはなかった食べもの」なんですよね。
マンゴーとかも、そうだよなあ。
『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね』なんていう曲が子供の頃に流行ったのだけれども、「マンゴー」って、「なんとなくトロピカルな味?」とか想像するだけでしたし。
しかし、我ながら何だったんだろう、「トロピカルな味」って……

 平野紗季子は日常的にカレーを作ったり、ハーブを育てたり、塩麹でつけたりしない。一般的には「あ、料理しないんですね」の部類に入ると思われる。しかし私はミシュランで三ツ星を獲得した現代日本料理「龍吟」の料理長山本征冶氏の言葉を聞き、「なんだ私立派な料理人じゃん」と、思い切ることにした。彼の料理論はこうだ。「キュウリを一本、半分に折って相手に渡したとする。その行為じたいは、料理とは呼べない。だが、「キュウリは、半分に折り、手でもって食べるのが最高だと僕が考えたからこそ、こうしたんです。あなたのために。」という思いがそこにあるならば、その行為は料理である。そこにあるのは何か? 精神でしょう。ここに料理というものの定義がはっきりあるのです」(TV「プロフェッショナル 仕事の流儀」第178回、2012年4月9日)。なるほど、料理とは精神である。その食べものをいかにおいしく食べるかを考え抜き、行動に移しさえすればどんなものも料理になる。ならば私のとっておきの料理を披露しようではないか。

 

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