- 作者: ときど
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2014/07/16
- メディア: 新書
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内容紹介
優勝回数世界一のプロゲーマー、初の自著!
ゲームと勉強をリンクさせて東大に合格、バイオマテリアル研究の成果が国際学会で評価された人物は、なぜエリートコースを捨て、未開の地だったプロゲーマーの世界へ進んだのか? さらに彼はプロ入り後、順調に勝ち星を増やしていたにもかかわらず、最大の武器である合理性を手放すことを決意する。
論理の限界にぶつかったIQプレイヤーは、何を考え、どう行動したのか――ゲームをとおしてたどりついた、新しい勝利の方程式。
「ゲームをしていたのに、東大に入れたのか。ゲームをしていたから、東大に入れたのか。――僕の場合は後者であろう」
「合理性や効率を極めた僕だからこそ、それだけでは勝てないことを身をもって学べた」
「練習に付き合ってくれるプレイヤーたち。働いて家庭をもち、一線を退いた彼らの『おれの分まで、頼むよ』という想い。彼らが、僕のモチベーションの源泉だ」(すべて本書より要約)
東大卒プロゲーマー!
僕の中にも、「せっかく東大を出たんだから、もっと他にやることあるんじゃないの?」という気持ちはありました。
僕自身もゲーム大好き、にもかかわらず。
「ときど」さんがプロゲーマーになるまでの道のりと、プロゲーマーの仕事の現状は、こんな感じです。
僕は1985年生まれで、小学校1年生の時から格闘ゲームを始めた。以来、格闘ゲームというジャンルの成長と歩調を合わせるかたちで、僕という人間も成長してきた感がある。
17歳のとき、初めて海外大会で優勝し、「世界一」のタイトルを獲得した。それからというもの、世界中で行われる格ゲー大会に参戦してきた。アマチュアの時には自費で参加したりもしていたわけだが、今となっては海外遠征は、僕の仕事における立派な「出張」だ。
プロ入りしたのは、東京大学大学院在学中の2010年11月。それからは、「ゲーム1本」で生きている。ほかの仕事をもたず、ゲームだけで生計を立てているということだ。
現在は『マッドキャッツ(Mad Catz)」という、テレビゲームのコントローラーなどを製造販売する米国企業のスポンサードを受けている。プロとしての収入源は、主にふたつ。
ひとつは、スポンサーから支払われる固定給である。彼らの製品・サービスについて、プレイヤーの立場から意見を述べたり、PR活動に協力したりする。具体的な数字は伏せるが、これだけで十分に生活をまかなえる額である。
もうひとつは、大会出場時の賞金である。国内外の格ゲー大会に参戦し、そこで好成績を収めると、順位に応じた賞金を獲得できるわけだ。世界最大規模の格ゲーイベントともなれば、1タイトルでの優勝賞金だけで250万円プラス車だったり、複数対凸での賞金総額が1000万円を超えたりする。僕は現在、月1ペースで海外に遠征している。
ゲーム制作者ならともかく、ゲームプレイヤーが「職業」として成り立つのか?と思っていたのですが、「プロ」が成り立つ土壌は、すでに存在しているのです。
世界のゲーム人口を考えると、狭き門ではありますし、選手寿命がどのくらいなのか、まだ見えないとしても。
「ときど」さんは、ゲームのことをよく知らない祖父母世代には「ゴルフのタイガー・ウッズいるでしょ? あれの、規模の小さいバージョンですよ」と説明しているのだとか。
格闘ゲームの世界での「プロゲーマー」の収入源はこんな感じですが、「プロゲーマー」は格闘ゲーム以外のジャンルではもっと一般的なものになっていて、ネットワークゲーム『リーグ・オブ・レジェンド』での公式リーグ1位の賞金は100万ドル(約1億円)にもなるのだそうです。
この新書を読んで、「ときど」さんのゲームに対する向き合い方を知ると、「結局、どの世界でも、成功する人の努力のしかたには大きな違いはないのかな」と、あらためて思ったんですよ。
実際に僕がみてきた「学問や研究の世界の大家」の大部分は「この人は、別の道を選んでも、きっとその世界で成功していただろうな」という人たちでした。
そこで、最短距離で成果をつかむために有効な手段に、「しらみつぶし」がある。
といっても、これは本当にしらみつぶしにやるということではなく、あくまでも「しらみつぶし的な」作業をするということ、その労をいとわず行うべき、という内容だ。
格闘ゲームでは、技相性(文字どおり技どおしの相性)を調べるステップというのがある。たとえばユンというキャラクターの「雷撃蹴」という技がある。この技は空中から高速で相手に襲いかかる技なのだが、タイミングや軌道が読みづらく非常に対処が難しい。僕が使うキャラクター豪鬼は「雷撃蹴」にどのように対応するのが有効なのか? そこにポイントを絞って技相性を考えるのだ。
検証の過程において僕は豪鬼のあらゆる技と、ユンの「雷撃蹴」との技相性を調べるのだが、これは非常に時間がかかる。
しかし、一度調べてさえおけば、「この検証によって得られた豪鬼の対処法は、ユンの雷撃蹴に似た性質を持つ、ヤンの雷撃蹴や、ルーファスのファルコーンキックといった技に対しても、有効な手段となりうるのではないか」という予想を立てることができるようになる。これで、対ヤン、対ルーファス戦での解決策を見つけるまでの時間が大幅に短縮されるというわけだ。
こうして、「この距離、この状況で、この技なら勝てる」という知識を積み上げていくのだが、なかには位置や距離にかんして、PC画面のドット単位で研究する猛者もいたりする。
他方、研究においては、前提として「こういうデータが取りたい」という実験目標が明確にある。だから、目当てのデータをとるためにはどうすればいいか知恵を絞るのだが、ここで本当にしらみつぶしにやり始めると、膨大な時間がかかって、時間内に成果を出すのが難しくなる。ここで、「最大限に効率的なしらみつぶし」が必要になる。
たとえば、僕がやっていた研究では、温度や濃度、微粒子サイズなどが、実験結果を左右する大きな要因であった。しかし、その3条件すべてを同時に変えながら実験すると、どの要因が結果に結びついているかがわかりにくくなる。
だから、因果関係を調べるときは、条件を変える因子はひとつにとどめて実験を行う。
温度なら温度だけを変えて実験、微粒子濃度なら微粒子濃度だけを変えて実験、微粒子サイズなら微粒子サイズだけを変えて実験する。
こうして、まずはそれぞれの要因との因果関係を調べることで、以降はその都度出したいデータを得るために、どの条件を変更してやればいいのかを、ある程度予想することができるようになる。
僕はゲームをとおして、こうした作業の重要性を知っていたし、かつ慣れてもいた。だから研究にも自然と応用できたのだが、普通の人の感覚だと、「そんなに面倒で時間のかかることはしてられないよ」となるわけだ。本当にそんな手間をかける甲斐があるのかと思われるかもしれないが、あるのである。こうした地道な積み上げ作業は、格ゲーにおいてはとくに、「後半からの伸び」につながると僕は見ている。
「ときど」さんの場合には、学生時代に格闘ゲームで頂点を極めたあと、研究の世界で頭角をあらわそうとしていた矢先に挫折して、プロゲーマーとして生きることを選んだのだけれども、実は、学生時代からずっと「研究と同じスタンスで、ゲームを攻略していっていた」のですよね。
いや、正確には「ゲームを攻略するのと同じ感覚で、研究を行っていった」のです。
そしてそれは、確かに「最も効率的に研究の成果をあげる方法」になっていました。
「そんなめんどくさいこと、いちいちやってられないよ!」と言いたくなるような地道な作業や基礎データの積み重ねこそが、長い目でみれば、もっとも「効率的」であり、「応用」にもつながるのです。
もちろん、ただ地道にやればいい、というわけではなく、「なるべく効率的に、ローラー作戦を行っていく」わけです。
でも、理屈ではわかるとしても、これを毎日毎日繰り返していくのって、非常につらいんですよ。
研究の世界だと、「ゴール」が見えなかったり、そもそも、想定していた「ゴール」そのものが、実際は存在しない場合だってあります。
目的のために、それをやり続けるのには、「根気」と「目的意識」、そして「自分を信じる力」が不可欠です。
「なんでこんなことやってるんだろうなあ……」なんて思い始めると、どんどん落ち込んでいくばかり。
これを読んで、僕自身が研究の世界で通用しなかった理由をあらためて思い知らされたような気がしたのです。
ああ、研究の世界でやっていける人にとっては、研究って、「ゲームの攻略」に近いのかもしれないな、って。
結局のところ、睡眠や遊びよりも研究をしていたい、という人じゃないと、ああいう場で闘って、上がっていくことはできないのだろうな、って。
そんな人いるの?って思われるかもしれないけれど、いるんですよ本当に。
嘘だと思うのなら、この本を読んでみてください。
この新書は、まさに「そういう人の自分語り」なのですから。
職業として、食べていく手段としての「仕事」というレベルで、なんとかやっていくことはできても、世界のトップクラスとなると「愉しんでやることができる」「そこに自分の生きがいを感じることができる」人には敵わない。
「自分は研究が好きなはず」だと思ってきた人でも、ほとんどは、どこかで「限界」を知ることになります。
ああ、自分は「研究者」というものに憧れていただけで、研究そのものに向いていたわけじゃなかったんだな、と。
「ときど」さんの場合、研究を続ける方法は、いくらでもあったんじゃないか、という気もするんですけどね。
どこかで、ちょっとだけ頭を下げるなり、一時的な不遇に耐えるなりの「雌伏を受け入れる」ことができれば。
ただ、こういうときに「一度挫折してしまった対象への見切りの早さ」というのも、ある意味「天才的」なのかな、とも思うのです。
「ときど」さんは、プロゲーマーとしての挫折体験、考え方を変えることになったきっかけについても書かれています。
ある大会で、圧倒的に有利な状況にありながら、逆転負けを食らってしまったときのこと。
僕が試合前にやり込んだ対策は、簡単にいうと次のようなものだった。
ケンというキャラクターは、こういう技をこんな局面で繰り出してくるから、そしたら自分は豪鬼をこう動かそう、こんなカウンター技を繰りだそう。ケンの踏み込み前蹴りをガードしたあとは、豪鬼のしゃがみ中攻撃でカウンターを狙っていこう……。
考えつくかぎりのパターンを出して、他のケン使いにスパーリング相手になってもらって、完璧に反復練習。これだけ準備しておけば、ケンの動きにはすべて対処できるだろう。
勉強にたとえるなら、僕は「公式」を完璧にマスターして満足した。これでケンが出題する問題はすべて解けると思って、安心していたわけだ。
しかし、ゲームはゲームであり、学校の試験とは違った。
ゲームには常に対戦相手が、つまりそのキャラクターを動かす人間がいる。僕が闘うべきなのは、本来、キャラクターの後ろにいる人間なのだ。生身の人間相手に、公式だけでいつまでも勝てるものか。僕はそこを見誤っていった。公式が通用しない可能性すら頭にないのだから、公式が通用しなかった場合の対策など、考えられているはずもなかった。
「こう来たらこう返す。さすればケンにダメージを与えられる」。僕の対策はそこでおしまいだった。でも、ももち選手がそこまで見通していて、次なる展開の準備をしていたら? 僕の技を返されてしまったら?
僕にはなすすべがなくなる。ケンの技Aに対する返し技Bをこちらが繰り出したら、ももち選手はその返し技Cも用意していた。僕には、Cへの返し技Dがない。
僕は、まるで薄っぺらだった。
ここまで準備をして、「公式」を叩き込んでいれば、ほとんどの場合、負けることはないはずです。
しかしながら、「頂点」を目指すのであれば、それだけでは足りない。
「横綱」って、こういう目で相撲をみているのかな、と、読みながら考えてしまいました。
ゲーム少年だった僕としては、「結局、ゲームの世界もこういう『高学歴理論派ゲーマー』が席巻してしまうって、なんだか寂しいな」、というのと、こういう「東大卒でもプロゲーマーになることを選択できるほど、ゲームが一般的な娯楽になったということへの嬉しさ」の両方を感じながら読んでいたんですよね。
伝記を読むことには、二つの目的があります。
ひとつは、「他者の経験を、自分の人生の参考にすること」
もうひとつは、「参考にするのは難しいけれど、こういう人がいるのか、と好奇心を満たしてくれること」
この新書は後者の要素が強くて、「ああ、こういうすごい人がいるんだなあ」というのはあっても、「参考」にするのは難しい。
ゲーム好きで、プロゲーマーを目指している若者に「お前は、こんな人と戦って、勝っていける自信があるか?」と覚悟を問うのには役立ちそうだけど。
「ときど」さんがプロゲーマーになるか、公務員になるか、お父さんに相談したとき、こんなアドバイスをもらったそうです。
「わかっていないかもしれないけど、この業界が、おまえの考えるとおりに発展していったとしたら、『東大卒』の肩書きもきっと、そこで役立てられるはずだよ」
ああ、そういう考え方もあるのだなあ、と僕も感心してしまいました。
みんなは「なぜ、東大を出たのに、プロゲーマーに?」と疑問を持つけれども、「東大卒」であることで、ひとりのゲーマーとしてだけでなく、将来的に、業界全体のマネージメントに携わることになるかもしれません。
「東大卒プロ野球選手」が、選手としてそんなに活躍できなくても、引退後、所属球団で職員として、そのチーム関するマネージメントを行っているように。
彼らよりも、「現場」でもっと活躍した選手たちが、スコアラーとか用具係のような「現場での裏方」として第二の人生を送っているのに、彼らには「企業としての球団の管理職」の道があるのです。
本当にそういうシステムでいいのか、というのは疑問ではあるのですが、それが現在の日本社会の「現実」ではあるんですよね。
正直、「ゲーマーの世界も、学歴かよ……」みたいな気持ちも、僕のなかにはあるのですけど。
「ゲームセンターあらし」は、いまの格闘ゲーム界では、全く通用しないんだろうなあ、あらしは「しらみつぶし」とかやりそうにないし。